概要
『終末のワルキューレ』における仏教の開祖・釈迦。本作では神の一柱として登場する。
神VS人類最終闘争(ラグナロク)においては神側の闘士として選ばれていたが、出場した第六回戦にて、人類側へと寝返った。
プロフィール
人物
タンクトップにサンダル、サングラスに大きな耳飾り、全体的にユルい服装をしている。髪は螺髪ではなく無造作に伸びた後ろ髪を後頭部で蓮の華のように纏めている。あまりにも現代のユルい兄ちゃん風の衣装は初登場時に衝撃を与えた(終ワルではいつものことだが)。
ゼウスやブリュンヒルデをちゃんづけで呼ぶなど緩い感じではあるが、自分の行動は自分で決める天上天下唯我独尊を地で行く性格であり、敵味方や善人や悪人、人類・神関係無く、他者の考えや思惑などお構い無しに自身の意志や考えで行動し、ブリュンヒルデからは後述のこともあって「恐ろしい御仁」と言わしめ、戦慄を走らせる程。ブリュンヒルデ曰く、「史上最強の思春期」。
その為、ラグナロク時に彼の行動を見ていた大勢の弟子達が困惑と安堵の表情を繰り返す事になった。
常に何かしらのお菓子(主にロリポップ)を食べており、行き合う人に毎回「食べる?」と尋ねる。相手が貰おうと答えた場合は全部あげてしまい、逆にいらないと言われた場合は自分で全部その場で平らげてしまう。おそらく釈迦の滅私の奉仕精神と食べ物を粗末にしない心がけがこう言った行動をさせているのかもしれない。ただし神に対してはあげるかどうか尋ねず、むしろ神側が欲しいと言っても意地でもあげずに自分で無理矢理全部食べてしまう謎の反骨精神を持つ。ゼウスとチョコバーの取り合いになった際も無駄にレベルの高い攻防を繰り広げた末全部食べてしまった。
他者の煩悩に対して非常に寛容で、大それた野望、目標を「いいんじゃない?」の一言で全肯定。ただしそれを自分が考慮するかどうかは別問題なので、「自分が好きにやる以上、他人が好きにやることにも口出ししない」スタンスなのだろう。
それ故に、人に運命を押し付けたり、裡にある幸福を否定する「神」の存在が大嫌い。
経歴
その人は生まれながらにして、全てを持っていた
全てを持つ人、生誕
古代北インド、カピラヴァストゥの地を治める小国のシャカ族の王子として、後の釈迦であるゴータマ・シッダールタは誕生した。クシャトリヤという最高の身分、王族としての最高の衣、食事、住まい、教育、何より生誕時にアシタ仙人の予言………
「おお…」
「神々のおっしゃる通りだ…」
「この子は人間のうちで最上の人…」
「いずれ世界の王となろう」
神に約束された最高の未来。それらを全て兼ね備えて誕生したのがシッダールタだった。
彼はシャカ族の王子としてカーストの分け隔てなく国民を助け、施し、責務を果たしていたし、天から与えられた運命を受け入れていた。
運命(さだめ)とは…ただ…そういうものだと…
あの時まではーーー
愛別離苦、そしてーーー
古代北インド、十六大国の一つ、マッラ王国の王ジャータカはシッダールタとは五つ歳の離れた年上の遠い親戚であり、彼らはとてもウマが合った。兄弟に微かな憧れを抱いていたシッダールタは彼のことを「ジャータカ兄様」と呼び、とても慕っており、ジャータカも人前で「兄」と呼ぶのをたしなめつつも「私は…うれしいがな」と満更でもなく、シッダールタを可愛がっていた。
しかしジャータカは死病を患い、身体は弱り、既に自らの死期を悟っていた。
ある日、何気ない散策中、「王になる運命」を受け入れたシッダールタを見て寂寞感のある表情を見せたジャータカに、シッダールタは軽口のつもりで「ジャータカ兄様は…幸せですね」と尋ねた。
「なぜ…そう思う?」
「君は本当に私が幸福だと思うのかい?」
ジャータカは自らが間もなく死ぬことを告白し、これまでのことを語り始める。
豊かな大国マッラの領民はヴァイシャ(平民)からスードラ(奴隷)に至るまで皆幸せに暮らしており、ジャータカの在位中は大きな戦いも無く、国は富んでいった。
「きっと人はそんな私の人生を」
「『幸福な人生だった』と言うだろう」
最高の衣、最高の食事、最高の宮殿、そして王族の位、凡そ全てを得たと言えるジャータカの人生。
しかし彼は何も知らない。民達が食べる炒った豆の味も…いつも見る川がどこへ流れ着くのかも…そしてこの空がどこまで広がっているのかも…
「私の人生はいったい誰のものだったんだろうね?
結局その場では、彼は自らの発言を「死を前に弱気になった、忘れてくれ」と笑い飛ばした。
しかしシッダールタの心には、敬愛する兄の言葉と横顔が深く突き刺さった………
その後間も無く、ジャータカは亡くなり、国を挙げての盛大な葬儀が執り行われた。
当然、沈痛な面持ちのシッダールタも参列していた…
覚醒、「目醒めた人」の誕生
ジャータカの死に悲しみ暮れるのは民も同様であった。彼らは心からの冥福を祈っていたし、シッダールタの家臣もその様を見て本心から敬服した。
「しかしこれほど民が悲しむとは…」
「まさしく王の誉れ」
「ジャータカ様は本当に」
「幸せな方ですね…」
刹那フラッシュバックしたのはジャータカの言葉。
「私の人生はいったい誰のものだったんだろうね?」
「全て与えられた幸福だ」
想起されるのはジャータカとの思い出の日々、自分が見た民の営み、自然を生きる動植物達の命の遣り取り、そして自身の今までとこれからの人生、死したその後のこと……全てが一瞬の内にシッダールタの中を駆け巡り、そして…
「カーッカッカッカッカッカッ」
「あーあ」
「俺 至る」
シッダールタはその後、姿を眩まし、ジャータカの葬儀にも現れなかった。
「ジャータカ様の死がよほど堪えたのだろう」と人々は噂し、彼に同情した。
ジャータカの葬儀は王に相応しい立派なもので、沢山の人々と豪奢な装飾に囲まれ、大司祭が直々にマントラをあげ、栄華を極めたマッラの国王として送られようとしていた。
「これ以上の幸せはないだろう」と…
そこに現れたのは、壺一杯に詰められた花を撒きながら花吹雪を散らすシッダールタだった。
「ジャータカ兄」
「迎えに来たよ」
なんと彼はジャータカの棺を抱えて持って行ってしまった。さすがにこの奇行には場は騒然となり、「何という不敬」と大司祭やシッダールタの父も大慌てで止めようとするが…
「五月蝿え」
「ジャータカ兄にはあんたらの祈りも 神の祝福もいらない」
「幸福は」
「裡(ここ)にある」
シッダールタはジャータカの棺を川へと流して送り出した。自らの目で、川の流れ着く先を知れるようにと。既に動かないはずのジャータカの顔は、不思議と微笑んでいるように見えた。
旅立ち、「福を零した神」との多生の縁
目覚めし人 曰くーーー
「君は幸福を望むというのか? さすればみずからに ふさわしい重荷を背負えーーー」
「それこそ喜びを生じる境地 やがて幸福を生む影である」
『スッタニパーダ』第二章より
その後シッダールタは豪奢な衣も、王の位も、家族も、妻子も、全てを脱ぎ捨てて、犀の角の如く野に出た。出奔の際の供とした馬も放し、ただ我が道を歩み始める。
苦行のため空腹となり倒れた者がいれば、戒律も知ったことではないと乳粥を食わせ、日がな一日ただ大樹の下でのんびりする日もあれば、神の生贄に捧げられそうな少女を救い出す日もあった。彼はただ生きたいように生き、出会った人々も彼に感化され、彼を慕いついていくようになった。
ある日シッダールタは大いに乱れ荒れ果てた町に辿り着いた。その町とはかつて、福の神・零福が不幸を取り除いたものの、逆に人々は何の努力もせずに得た環境で享楽や酒色に溺れ、堕落しきった町であった。
そんな神ですら絶望するほど酷い有様の町でも、釈迦はただ変わらず在った。この頃釈迦の後をついてくる人々は町の大通りを埋め尽くしてなお足りないほどの大所帯になっており、その姿は皆みすぼらしく見えたが、誰もが幸せそうに笑い合っていた。
「なんで…なんで…あんたの周りにいる人間は幸福そうなんだよ…!?」
「あいつら…!なんで…!ちっとも幸福にならないんだよ!?」
悲痛な零福の詰問に「それは違う」とぴしゃりと答える釈迦。
「幸福ってさ 与えられるもんじゃないんだよ」
「自分でーーー至るもんだからさ」
「不幸(影)あるとことに 幸福(光)あり…だよ?」
「キミも一緒に悟らないか?」
結局、零福は敗北感と、嫉妬と、憎悪から釈迦の手を跳ね除けた。
彼との再会は、「神対人類最終戦争(ラグナロク)」までお預けとなる。
最終戦争、驚愕の参陣
ラグナロクを観戦していたロキが最初から密かに感じていた違和感の状態である、通常の神器錬成で、神々を殺せる程の能力を半人半神であるワルキューレ達に持たせるのを神々が許すわけがないと思っており、ワルキューレ達が神を殺せる程の力を可能に出来る唯一の方法をである「一蓮托生」を思い出しそれが仏界のものであったことから、ロキからは裏切りを疑われ、ロキと七福神に詰め寄られる。さらにその場へ多勢に無勢を見過ごす事が出来ず助太刀に来た佐々木小次郎と、多くの神々の力の気配に誘われて来た沖田総司、近藤勇が釈迦側に加わり、一触即発の雰囲気となるもゼウスとオーディンの仲裁によって一旦は治められた。
その後神側の第六回戦闘士としてその名が上がり、ゼウスから直々に釈迦を第六戦の神代表として指名。それに対し釈迦も「了解×3(りょりょりょ)」と軽ぅーく請け合う。そして神側の出場口から入場して来た釈迦を見て「釈迦が敵になる」というあんまりな展開に、人類は一瞬で絶望に包まれたが…何故か釈迦は歩きを止めずにヘイムダルからギャラルホルンを借りると
「オレ 人類側から出るんで…」
「頼(よろ)」
と、まさかの寝返り宣言を闘技場のど真ん中でぶちかますというザ・唯我独尊ムーブを行い、場内を大騒然とさせる。人類だけでなく神々も本気で動揺や怒りを隠せなくなっていたが、ゼウスの鶴の一声で承諾され、釈迦の代打として七福神代表、毘沙門天が神側闘士として参戦することになる。
だがこれが釈迦にとって思いもよらぬ再会と離別の引鉄となってしまう…
ちなみにラグナロクの一回戦の前にとある僧侶が経を唱えているのをブリュンヒルデが止める場面があったがこの描写は釈迦が人類側だった伏線なのでは思われる。
能力
「神が救わぬなら俺が救う」
「邪魔する神は 俺が殺(と)る」
王子時代の武術の経験が今も生きており、肉弾戦は見た目に反して得意。キャンディーの棒を吹き出して恵比寿天が銃を撃つより速く彼の手を撃ち抜いたり、本気モードの対戦相手をにべもなく吹っ飛ばしたりその実力の高さが窺え、その戦闘力は後述の特殊能力と神器によってさらに底上げされている
正覚阿頼耶識
相手の行動を事前に「識る」能力。佐々木小次郎の「千手無双」の「予測」とは違いこっちは完全に「未来視」の能力
人は何か行動するとき、肉体よりも「意思」が先に動き、意思の動きは「魂のゆらぎ」を生み出す。釈迦はの「ゆらぎ」を視ることで、数秒先の未来を「識る」事ができる。またアダムの「神虚視」のように視神経に負荷をかける事も無いため、使用制限もなし。
一見無敵に見える能力だが弱点は二つあり、一つは「視ようが識ろうが無意味な不可避の飽和攻撃」。ただしこちらは後述の神器でいくらでもカバーできるため実質弱点として機能していない
もう一つにして真の弱点は「魂や感情が無いモノは視えない」。相手の心に依存した能力なので、そういったものが一切ない相手を視ても「真っ暗な闇」しか視えない
神器「六道棍」
釈迦の持つ錫杖の先端がマニ車のようになった神器。形態変化能力を持ち、釈迦が自発的に変形させることは出来ないが、釈迦のその時の感情に応じて神器自らが変形する。六道の名の通り全六形態あると思われ、各形態の名前はそれぞれの六界を守護する観音の名前が着くが、「六之道」は作中未登場となった(作中で形態に・や『』は付かないが、読み易さ重視のため付けさせて頂いております)
壱之道・天道如意輪観音『十二天斧』(ローカパーラ)
ハルバードの形状へと変化し、武器同士の打ち合いに強くなる。長物なのでリーチにも優れ、回転させて相手の攻撃を弾く、距離を取るなど柔軟な戦いを可能とする
弐之道・畜生道馬頭観音『正覚涅槃棒』(ニルヴァーナ)
釈迦の胴回りほどの太さを持ったトゲ付き棍棒。さながら地獄の鬼の如き様相を呈する
出現した際「…突っ込めってことね…?」と釈迦が呟いたので、おそらく突撃し肉薄しての打撃戦に向いた性能と思われる。対戦相手に対して攻撃をスライディングで避けてからの定位置から腹へのカウンターヒットを披露。ゲルからは「どんな感情なんスか?」とツッコまれる
参之道・人間道不空羂索観音『金剛独鈷剣』(アクサッヤー)
名前の通り独鈷杵に短い刃渡りの両刃剣がついたような形態で、短剣やナイフと言った方が近い
高速移動を必要とする場合にこの形態になり、対戦相手のオールレンジ攻撃を素早い足運びと斬撃の嵐で見事に捌き切る
四之道・修羅道十一面観音『七難即滅の楯』(アヒムサー)
釈迦の身の丈を完全にカバーするほど巨大な大楯。対戦相手の超巨大斧による不可避の制圧攻撃を完全に防ぎ、逆に押し返すほどの超硬度を誇る鉄壁の守り。釈迦曰く「ついビビって出した」とのことで、阿頼耶識でかわせない攻撃に反応して出現する
五之道・餓鬼道聖観音『荒神の戦鎌』(サラーカァヤス)
釈迦がかつて「毒」として捨て去った感情、「憎悪」に反応して変化する、釈迦自身も知らない形態
巨大な龍の頭の後ろから禍々しい刃の生えた、巨大な鎌の形状を取る。一撃必殺を狙う殺傷力に全振りした形態と言える
一蓮托生
正確には釈迦本人の能力ではなく、仏界全域に伝わる力
ロキ曰く「お互いの『生(いのち)』を預け同じ『蓮(運命)』の上に乗せることで全身全霊(ありったけ)を引き出せる」とのことで、二人で一つの力を引き出すものらしい
そしてこの力は戦乙女(ワルキューレ)たちの「神器錬成(ヴェルンド)」の力の源となっている。
神器「大円寂刀・零」
波旬との闘いで六道棍が破壊された後に零福が使っていた斧爻から零福の存在を感じ取り、零福と共に闘おうと斧爻で一蓮托生による神器蓮生を行い、斧爻に『不幸』ではなくて、『慈愛』を吸わせて新たな神器へと変化させた。随所に七福神の全員の名の一字を刻んだ玉をつけている七枝刀であり、ブリュンヒルデからは「仏世界で至高の悟りに達せし仏陀のみが生み出せる究極の神器」と言われている。
技
業滅輪廻
「五之道」から繰り出される一撃。禍々しい殺気を纏い敵対者の首を狙う必殺の一撃
業滅輪廻・久遠
上記の技の強化版。龍の口の部分からジェット噴射のように炎を噴き出し、速度を乗せる事でさらに威力が増強される
登場時の謳い文句
漢は城を捨て
家族を捨て
煩悩を捨て
六情を捨て
前人未踏の道を
犀の角の如く
ただ独り歩んだ
そして漢は
わずか6年で真理(ひかり)に達した
生まれて独り
生きるのも独り
闘(や)るのも独り!!
天上天下 唯我独尊
天上天下 唯我最強!!
ヒトリハ ツヨーイ!!
シャーキャ族(ヒト)の
王子として生まれ
仏として散った
人類史上最強のドラ息子を
人間どもは敬意(あい)を込めこう呼ぶ
釈ァアアアア 迦ァアアア!!!!
関連人物
「ブーちゃん」と呼んでいる。「半神」の彼女には人間と変わらないスタンスで接する。彼女からラグナロクが開催が決定される会議の前に自身に「一蓮托生」を教わりに来たらしく、ワルキューレ達が神々に反旗を翻す一助となっている
ブリュンヒルデのことは「煩悩まみれ」「目的を果たすためなら善も悪もないって感じ」なのを「いい」と評価しており、ブリュンヒルデが「一蓮托生」を教わりに来た時から密かにラグナロクへ向けてブリュンヒルデがずっと前から準備をしており、自身を人類代表として神と戦わせるつもりだったと思惑があるのではと思っており、六回戦前にブリュンヒルデに人類側での参戦を表明した際、この展開についてもブリュンヒルデの想定内なのではと追及した時のブリュンヒルデの「神界で貴方ほどの神様嫌いはいない」と言う返答に笑いながら納得し、ブリュンヒルデに「そういうの放っておけないんだわ」と返しており、個人的な感情で助けるつもりで、自分の意思で神側からではなくて人類側からの出場を決めている。
ブリュンヒルデからは「天上天下唯我独尊」「誰かの意思で動くようなタマではない」と評し、自身の目的や謀りを見透かしたような言動を見せる彼を「恐ろしい御仁」と評し「神界で彼ほどの神様嫌いはいない」点を評価して人類側に立たせる算段だったらしいフシがあったと思われる。
神界の粛清部隊。釈迦とは犬猿の仲で常に釈迦に「天誅」を降す機会を見計らっている
が、釈迦からはマトモに名前や顔を覚えられておらず、軽めにあしらわれてしまう。それが余計に彼らの心を逆撫でする。釈迦の離反劇ののち、彼の対戦相手にリーダーの毘沙門天が任命され…
生前に出会い、幸福の在り方について説いた神。ついぞ再会することはなかったが、今回の戦いにて意外な形での再会を果たす。
釈迦は、未熟さに抗い打ち勝とうとしていたことから、福の神を気に入っていた。
神々のリーダーたる彼に対しても「ゼウスちゃん」と非常にフランクだが、お菓子はあげない
ゼウスも彼のメンタル面はある程度理解しているのか、釈迦が人類側に立つ事を表明したした時には怒りや動揺を露わにした神々の中で真っ先に「問題ない」と言い釈迦を咎めることはなく、ラグナロクのルール上では釈迦が人類側から出たとしても何の問題も無いと釈迦を擁護しており、これほど熱い展開はそうそう無いと喜び、自身が再び出場して釈迦の相手をしたいと本音を言うも、既に六回戦の神側の代表には毘沙門天を選んでいた。尚、釈迦本人はゼウスの人類側での出場を認めてくれたことに感謝しており、ゼウスが自身の相手でも問題無いと返答していた。
なお神話のゼウスは釈迦の嫌いな「人に運命を押し付ける神」の代表と言える(娘のアテナも似たタイプである)。
釈迦も数えられる四聖人で、今回の戦いを観戦しているビッグネームすぎる方々
特に孔子は弟子の手前取り繕っているが、釈迦の戦いに興奮してちょいちょい地が出ている
作中で絡んだ事は無いが人類の味方であった神同士。
しかし、「自由人だが人の可能性を信じて人類側に立った釈迦」に対し、「清廉潔白と言うべき好漢だが、人の可能性を信じられず自ら勝つ事で神に許しを乞おうとしたヘラクレス」と、スタンスや行動は対極と言える。
「天誅 也」
余談
史実の釈迦の強さ
戦うイメージとは対極にいそうな釈迦だが、史実でも王子シッダールタの時代にはインドの古武術「カラリパヤット」の達人だったことが知られており、実は殴り合いはかなり強いと思われる
カラリパヤットは一説には日本の空手の源流とも言われている
食べているお菓子
食べているお菓子の種類をよく見るとちゃんと動物の肉に由来しそうなものは食べておらず、戒律を守っている様子が見てとれる(神界なのでそもそも材料が人間の常識で測れない可能性はあるが)
関連タグ
セイヴァー(Fate/EXTRA):別作品の釈迦。反則レベルの能力と超然とした精神の持ち主な点は共通だがこっちはラスボス
ブッダ:聖☆おにいさんの主人公なほうの立川のセイヴァー。終ワルに比べて非常に穏やかで常識的な性格だがうっかり漏れ出る仏徳でよく大変な目に遭う
手塚治虫のブッダ:漫画界の神によって描かれた釈迦。こちらは終ワルよりも苦悩の一面が描かれて人間臭さが増している
(お菓子は)あげません!:神に対してはこのスタンス
「だよな…やっぱり…」
「未熟さに抗いーーー」
「そして…打ち克とうとする」
「その思春期(おもい)がない」