概要
第66代一条天皇の后。
家族構成
輝かしい時代
明るくユーモア溢れる父と教養豊かな母の元美しく聡明な女性に育った定子は、14才の春に3歳年下の一条天皇の元に入内。(現代から見れば中学生と小学生で結婚したことになるが、当時は珍しいことではなかった。)
一条天皇との夫婦仲は円満で、彼女に仕えた清少納言は『枕草子』で彼女の人格の素晴らしさや博学さを絶賛しており、また定子のサロンの華やかな様子も記録している。
父・道隆は摂政、兄・伊周は若くして大納言になるなど中関白家は栄華を極めた。
父の死と没落
しかし、父が酒の飲み過ぎが原因で亡くなると彼女の運命は一変。
後ろ盾を失った定子は不遇の立場に立たされることになる。
長徳4月に兄・伊周と弟・隆家が花山法皇に矢を射かける事件を起こし左遷。(長徳の変)
定子は当時懐妊していたが、兄弟が屋敷に逃げ込んできたのをかくまった。しかし検非違使に囲まれて定子は鋏を持ちだし髪を切って突然出家してしまう。
その後長女の脩子内親王を出産。
兄が流刑先から家族を心配して戻ってきたときは、女性が顔をさらす事が恥とされていたにもかかわらず連れ戻しに来た人々から兄を庇うため姿を現したエピソードが残されている。
出家したにもかかわらず、一条天皇と逢瀬を重ね、人々の反感を買う。
当時は天皇の不義などが天地災いを起こすと信じられており、定子は自分と子の安全のため一条天皇を拒まず逢瀬を続け、人々は災害に恐怖する日々をおくらなければならなくなった。
天皇は周囲の反対を押し切り彼女を無理矢理還俗させて宮中に呼び戻すほど定子への愛した。その後定子は第一皇子の敦康親王を出産。(※還俗でなく出家中という記録もある)
出家した定子は中宮の仕事ができず、代わりを道長がやっていたが、見かねた藤原行成が一条天皇に「藤原彰子を中宮にし中宮職を任せてはどうか」と説得。
かつて、定子の父が皇后職を中宮とわけ強引に定子を中宮にしたが、それを前例に定子を皇后、中宮職は彰子になり、因果応報「一帝二后」を定子は受けた。
一条天皇の寵愛が深かったため度重なる出産が原因で定子は死去した。
最後の遺詠
再び定子は3人目を身ごもるものの、次女の媄子内親王を出産直後に亡くなる。
彼女が亡くなる前に詠んだ「夜もすがら契りし事を忘れずは こひむ涙の色ぞゆかしき」は百人一首のプロトタイプと呼ばれる「百人秀歌」に収められた。
最愛の后を喪った一条天皇は深く嘆き、一族の希望であった定子を失った中関白家も悲観に暮れた。
親王・内親王のその後
脩子内親王は一族の庇護のもと生涯独身を通し、54歳まで長寿を全うした。
敦康親王は第一皇子であったが、母方の没落や道長の圧力もあり天皇になることはなかった。その後結婚し、娘を設けるも20歳の若さで逝去。彼の忘れ形見の娘は後朱雀天皇の元へ入内。2人の皇女に恵まれるものの、共に生涯独身であった為、定子の血筋は途絶えてしまった。
定子が命と引き換えに産んだ媄子内親王は病弱であったがゆえに、9歳で夭折。
外部リンク
関連タグ
安徳天皇…高倉天皇の第一皇子。敦康親王とは異なり即位こそは叶ったがその後の戦乱に巻き込まれてしまった結果、壇ノ浦の戦いで僅か8歳で崩御してしまっており、ある意味では敦康親王よりも不幸であったと言えなくもない。
以仁王…後白河天皇の第二皇子で高倉天皇の兄。平家からの横槍もあり冷遇され続けた点が敦康親王に近い。ただし、こちらは最後に乱を起こして討たれている。
足利義維…室町幕府14代将軍足利義栄の父。初代平島公方。一時期「堺公方」と呼ばれた。12代将軍である足利義晴との兄弟順は諸説あるも、当時の貴族の日記による双方の母の身分を比べれば義晴より有利であったのに当時の情勢により将軍となれなかった点が、彼女の息子の敦康親王と似ている。子孫はもっと悲惨で豊臣秀吉の天下統一以降は古河公方の系統である喜連川家や旗本の宮原家とは対照的に徹底的に冷遇された。