太平洋戦争
たいへいようせんそう
概要
太平洋戦争は第二次世界大戦での大日本帝国と米・英・蘭・豪・中などの連合国との戦争。
ただし、この名称は太平洋の戦いとしてアメリカが名付けたPacific Warであって、日支事変以来アジアの戦いとした日本の「大東亜戦争」とは異なる。
開戦に至るまで
1937年7月に中華民国との間に日中戦争(日本からの呼称は日華事変)を行いその後も、12月13日には首都南京の占領、翌1940年には北部仏領インドシナへ進駐した。
第1次世界大戦の頃から日本に危機感を持っていたアメリカ合衆国は1924年移民法の制定やワシントン海軍軍縮会議やロンドン海軍軍縮条約で海軍の持つ軍艦の割合を対米7割以下に押さえ込むなどしていたが、屑鉄や石油の輸出は未だに行われていた。
しかし、大日本帝国は1940年9月27日に「バスに乗り遅れるな」を題目に反対勢力を押さえ込み日独伊三国防共同盟の発展版である日独伊三国軍事同盟を締結する。
これを受けてアメリカは屑鉄の輸入を全面禁止した。
この間も、日米間の戦争を回避するべく多くの人々が動いており、ついに当時首相の近衛文麿に日米交渉のテーブルに就かせる一歩手前にまで引き寄せた。
しかし、運悪く日本はソビエトとの間に日ソ中立条約を締結してしまい、難航してしまう。
その後、日本軍は南部仏領インドシナへと進駐するが、これを受けてアメリカは「在米日本人の財産全面凍結」と「石油の全面輸出禁止」を決定し、日米間の戦争はいよいよ間近のものとなった。(当時の軍部の計算では石油の備蓄はわずか2年分であった)
その後も何度も会議が開かれ1941年11月2日に大本営は「11月29日までに日米交渉が成らなければ開戦やむなし」との結論に至った。
さらに26日には日本にとって屈辱的な満州国の解体などを盛り込んだ「ハル・ノート」が提示される。
そんな中11月26日にアメリカに向けて南雲機動部隊が出発した。
そして12月2日に交渉決裂との報を受け、ハワイを8日(現地時間7日)に攻撃する事が決定した。
予定通りに行くかと思われた真珠湾への奇襲攻撃だったが、宣戦布告を政府に伝える役目の在米日本大使館の大使が前日に宴会をしており、2日酔いで書類の処理ができなかった。
故に攻撃後に宣戦布告をするという形になってしまい米国民の反日感情は大きく上げてしまうことなってしまった。
一方の攻撃のほうは圧倒的に日本側有利であった。
経過
初戦は日本優勢で、日本軍はイギリス支配下のシンガポール・ビルマ・マレーシアやアメリカ支配下のフィリピン、オランダの植民地だったインドネシアなどを次々と占領。日本はアジアの欧米による植民地解放と独立を目的とした「大東亜共栄圏」を掲げ、マレー沖海戦で英海軍を壊滅させた。
しかし、1942年(昭和17年)のミッドウェー海戦で連合艦隊はアメリカ海軍に敗北し、多くの空母と戦闘機及びベテランパイロットを失った。これを境に戦局は変化。アッツ島守備隊の玉砕・ガダルカナル・レイテ沖海戦・サイパン・第三次ソロモン海戦などで連合軍の物量に圧倒され、次々と敗退した。
末期
昭和20年2月には硫黄島の戦いで両軍で多大な戦死者を出し、4月には沖縄に米軍が上陸し、沖縄戦で多くの沖縄県民が犠牲になった。この時に戦艦大和が沖縄へ向かう途中に撃沈。本土の多くの都市が空襲や艦砲射撃などで破壊された。日本では本土決戦を覚悟して備えていた。
3月10日の東京大空襲で東京が焼け野原になり、8月6日に広島市、8月9日に長崎市に史上初の原爆が落とされ、甚大な被害となった。8月9日にはスターリンのソ連も日ソ中立条約を一方的に破棄して対日参戦し満州などに侵攻。
降伏を要求するポツダム宣言を受け調整していた鈴木貫太郎首相は受諾を決定し、8月14日に御前会議で昭和天皇の終戦大詔が下り、8月15日に玉音放送で終戦となり米英との交戦はほぼ終了したが、ソ連軍が樺太・千島列島への侵攻を続けたため、樺太や占守島ではこの後も激しい戦闘が続いた。
最終的には、9月2日に戦艦ミズーリ号甲板で降伏文書が調印された。この戦争では日本国内外の多くの人々が犠牲になった。