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足利義輝の編集履歴

2016-08-16 11:29:16 バージョン

足利義輝

あしかがよしてる

室町幕府第13代征夷大将軍。

生年……1536年3月31日(天文5年3月10日)

没年……1565年6月17日(永禄8年5月19日)



概要

 足利義輝は室町幕府の第13代征夷大将軍である。父は第12代征夷大将軍の足利義晴で、第10代征夷大将軍・足利義稙の養子となった阿波公方・足利義維は叔父で、その子である第14代将軍・足利義栄は従弟に当たる。


出生から将軍まで

 第12代将軍・足利義晴の嫡男として東山南禅寺で生まれるが、「後法成寺関白記」によると誕生直後に外祖父・近衛尚通の猶子となる。この頃の幕府では父・義晴と管領細川晴元が対立し、義晴はその度に敗れて近江国坂本(現・滋賀県大津市坂本)に逃れ、それに義輝も度々従った。その後も父とともに京都への復帰と坂本や同じく近江国の朽木(現・滋賀県高島市朽木)への脱出を繰り返している。

 義輝は天文15年(1546年)12月、父・義晴から将軍職を譲られ、僅か11歳にして征夷大将軍になる。但し上述の事情から、将軍就任式は京都ではなく、亡命先の近江・坂本の日吉神社(現日吉大社)、祠官樹下成保の第で行われ、六角定頼を烏帽子親として元服している。またその時、「義輝」ではなく、「義藤」と名乗った。当時の管領は細川晴元であるが、勢力を強めていた三好長慶(みよし ながよし)、及び長慶を影で操っていた長慶の家臣・松永久秀(まつなが ひさひで)らとの対立が深まっていた。義輝は晴元と協力し、天文22年(1553年)に長慶との戦いを始めたものの、敗北して近江・朽木に逃れ、以降5年間をこの地で過ごした(しかし、これもまた長慶と対立していた細川晴元の傀儡にされてしまったと言えなくもない)。なお、亡命中の天文23年(1554年)2月12日に名を義輝に改めている。


執政者としての活動は、諸大名の抗争の調停、懐柔策の一環として、各大名の守護職就任に桐紋の使用を容認、諸戦国大名に臣従の形式を整えさせる為に、自らの諱を各地の有力大名に与え名乗らせている。等。今谷明によればこの頃、山城国は三好長慶の支配を離れ、完全に将軍家の直轄地として確保されていったともいう(今谷明『戦国時代の貴族「言継卿記」が描く京都』)。

そして永禄7年(1564年)7月に長慶が病死した事で幕府復活の糸口を掴む。しかし、新たに台頭した三好三人衆および松永久秀にとって、将軍権力の再建を試みようとする義輝は邪魔者以外の何者でもなかった。


松永久秀と三好三人衆の謀反(永禄の変)

 松永久秀は長慶亡きあと、義輝の叔父である足利義維と手を組み、その嫡男・足利義栄(義輝の従兄弟)を新将軍の候補として擁立。永禄8年(1565年)5月19日、久秀は三好三人衆三好長逸三好政康岩成友通)達と共に二条御所にいる義輝を殺害する為に軍勢を差し向ける。

見張り程度の兵しか居なかった二条御所は簡単に包囲されてしまい、義輝の死も時間の問題となった。この際薙刀を用いて戦ったと言われるが、寡は衆に敵せず、最終的に敗死を遂げる。享年30。またこの時、義輝の生母である慶寿院も殉死している。

辞世の句は「五月雨は 露か涙か 不如帰 我が名をあげよ 雲の上まで」


最期の諸説

 義輝の最期には様々な説があり、厳密にはよくわかっていない。

義輝が御所襲撃の際、名刀をとっかえひっかえして戦ったというものは江戸時代後期作の「日本外史」が初出であるが、先行するフロイスの「日本史」等、戦国時代の記録との齟齬が多く、当時ですら信憑性の薄さを疑問視されていた。実は、永禄の変から数日後~数年後の記述であると思われるイエズス会の宣教師フロイス著「日本史 第65章」にも、同時代の公卿山科言継の日記『言継卿記』にもそのような記述は存在しないのである。

フロイスの日本史「日本史 第65章」を要約すると「まず薙刀で戦い、その技量の巧みさは人々をおおいに驚かせるものだった。次に更に敵に接近するために薙刀を捨て刀を抜いて戦ったが傷を負い地面に伏せたところで殺された。」と記している。

 山科言継の日記『言継卿記』では5月19日の辰の刻に、三好・松永軍1万が御所を襲い、奉公衆が数多く戦死した後に午の刻に義輝は自害したという。また特定できるだけで義輝の側近のうち2割弱に及ぶ人数がこの戦いで戦死したという。

 同時代史料であるフロイスの記録と言継卿記を見る限り、名刀コレクションを畳に刺して奮戦したなどという記述は見られない。


 執筆年代は江戸時代に入ってしまうが、松永貞徳の『戴恩記』では、松永久秀勢に御所を囲まれて自害した、とある。

 同じく江戸時代の記録であるが、柳生宗矩が雲林院光成を推薦する書状の中で、足利義輝が塚原卜伝の弟子であるという記述は存在する。だが、肝心の免許を皆伝したという記述はない。なお、永禄の変当時の将軍に対する呼び名は「公方」「大樹」と呼ぶのが普通なので、剣豪「将軍」という呼び名は後世、少なくとも公方が将軍と呼称される様になってから付けられたものであろう。


 まとめると、彼のラストバトルにおいての活躍のほとんどが江戸時代後期の創作による演出で、剣豪将軍という呼び名も江戸後期以降にに生まれたものと、「あれ?剣豪将軍って実際は剣豪じゃなくね?」という結論に達してしまうのである。

それでも、フロイスの言を信じるならば、剣豪とまでは行かずともメインウェポンである薙刀の扱いに優れていた事は確かであり、また言継の日記も含めるならば、義輝主従は善戦した、というのが無難な結論になりそうである。


人物と評価

 フロイスによると、義輝は「はなはだ勇猛果敢な武士であった」「つねに平和の愛好者で18年このかた、大いなる賢慮をもって天下を統治してきた」という。まあ宣教師を迫害してフロイスに暴君と呼ばれた久秀に比べて、義輝には布教の許可を貰えたから好意的だという面もあるかもしれない。(ちなみにフロイスは 義輝を殺害した三好長逸についてもキリスト教に寛容であったためか「異教徒」でありながらも「生来善良な人」「教会の友人」と評している。)

 フロイスは義輝に殉死した者たちも取り上げている。義父であった進士晴舎は、松永久秀及び三好三人衆の軍勢との交渉に臨み、その無礼千万な要求に対して主君への叛逆を激しく責め、ついに戻って義輝に報告した上でその場で切腹した。同じく、義輝の従者大舘岩千世丸なる15歳の少年が、勇猛に戦った上で主の死を見て直ちに自害したことを描く。また、とある貴人が三日後に帰京した際に御所の滅亡を見て、公方の墓の上で切腹したことも描いている(『日本史』第一部六十五章)。


 政治的手腕については、問題点が散見される。三好氏との関係については、長年に渡って長慶と争ってきた細川晴元を出家させ幕政から遠ざけることを条件に長慶と和睦し、奉行衆に引き入れたにも拘らず、自らその約束を破って晴元と結ぶという行動を取る。勿論、折角成立させた和睦は台無しになり、戦の火種を蒔いてしまう結果となった。フロイス言うところの平和の愛好者というのは一体なんだったのか…。

 三好勢との戦いは当然のように大敗し、京都から追放された。この際、落ち延びる義輝に従ったものはわずか40名程度であったという。

 この義輝の行動について松永久秀六角義賢の重臣永原重興に宛てた書状で「自分で持ち出した約束を(何度も)破ったので天罰を喰らった」と痛烈に批判している(「阿波国徴古雑抄所収三好松永文書」)。

 長慶は穏健派であったため、のちの三好三人衆松永久秀のように義輝を殺して排除する気はなく、むしろ暗殺に反対する立場を示していた。つまり、義輝が長慶と協力体制を敷くことが出来たならば、その後の義輝の運命もまた違ったものになっていたかもしれない。


 大友氏についても、義輝は献金などで働きかけていた大友宗麟を、豊前と筑前の守護に任じ、同年には九州探題に任じた。しかし、これまで足利一門に連なる渋川氏が代々就いていた役職に一門ではない大友氏の就任を認めるということは、将軍家の家格を著しく失墜させることでもあった。義輝は有力大名を取り込んだつもりであったが、将軍を頂点とした政治を行うため奔走してきた彼自身が、皮肉にも実力さえあれば足利氏の家格を超えられると証明してしまった。


 幕府の権限を再興させようと孤軍奮闘して来た義輝だったが、長慶の死後、反義輝派の三好三人衆及び松永久秀らの襲撃を受け横死。自身の執政の脆弱さと、幕府再興の為とはいえ時勢の読めない行動を取り続けた報いを受けた形となってしまった。当時の室町幕府の権威の失墜はもはや火を見るより明らかで、証拠として、『信長公記』において、あの魔王織田信長の旧臣である太田牛一も、「義輝の側が天下の執政者(三好方)に対して謀反を企てたので殺されたのだ」という旨の記述を残している。


 松永貞徳の『戴恩記』では、「大変な御所であり、刀に黒紙を巻いて闇夜に辻斬りを行った。三好家はその所業を恐れて義輝を討った」と否定的な評価である。もっとも「そんな人を守って御所で死ななかったからといって細川藤孝様が批判される筋合いはないのだ」と続いている。こうなると、暗殺事件当時まだ生まれていなかった江戸時代の歌人たる貞徳が、歌の師匠である藤孝を庇って書いているように読めなくもない。


 公家・山科言継の日記によれば、永禄10年(1567年)2月、京都上京の真如堂にて義輝を追善する六斎踊が挙行された。摂津国や近江坂本からも集った2800人が鉦鼓を打ち鳴らし、貴賤男女合わせて7、8万人もの群衆が参加したという。『戦国時代の貴族「言継卿記」が描く京都』で今谷明は、町の人々が義輝を追悼する踊りによって三好三人衆政権への抵抗を示したのだと解釈しているが、言継はこの安芸国の踊りについて三好氏の報復が怖くないのかと呆れた旨の感想を書き残している。ちなみに言継自身は、家産を守るために将軍家にも三好家にも頻繁に陳情に訪れている中立的な立場であった。しかし心情的には義輝側に味方していたようで、天文19(1550)年に三好側の兵が義輝側の重要拠点中尾城を陥落させて近江に敗走させた一件を「御無念の次第なり」と評している。

 

妻子

 フロイスによると、小侍従と呼ばれた側室(進士晴舎の娘)を熱愛しており、二人の娘があったらしい。義輝暗殺の後、身籠っていた彼女は遺児による復讐を恐れた追っ手に狙われ、娘たちへの手紙を残して知恩院という寺にて討たれたとのこと。彼女は知恩院の長老に己の葬儀を依頼して快諾を受け、それから討とうとして仕損じた追っ手の兵士を落ち着いてたしなめた。その場にいた者は、彼女の死に誰もが涙したという(『日本史3』第一部二十五章、第一部六十五章)。


余談

南蛮文化に関しては開明的な面を持っていたようで、永禄元年(1558年)閏六月、大友宗麟に命じて鉄砲の複製を製作させている。また上洛した長尾景虎らに鉄砲の実物や玉薬の製造法などを授けてもいる。永禄三年(1560年)三月十六日付で同じく大友宗麟からの大砲献上に対して大いに喜んだ旨の御内書(礼状)を発行している。これを見るに、どちらかといえば剣豪というより鉄砲将軍と呼ぶほうが合っているのかもしれない。


登場作品

足利義輝 (戦国大戦

R足利義輝

声:浜田賢二 二つ名・剣豪将軍


他家の一員として登場。兵種は戦闘アクションが無いものの、最も兵力が高い足軽でコスト2、武力8、統率4、魅力・気合を持つという安定したスペックで、兵種と相まって驚異的な固さを持っている。その為、端攻めもしくは乱戦で粘り強い活躍を見出す事が出来る。


計略「秘剣一ノ太刀」は自身の移動速度が大幅に低下するもののMAXまでチャージした時の威力は破格の一言(義輝と同じく武力8で兵力100%の敵部隊を一撃で葬り去る事が出来る)。

まさに剣豪将軍の名にふさわしいカードとなっている。


足利幕府よ、永遠なれ!


足利義輝戦国BASARA

声:池田秀一 二つ名:天政奉還

戦国BASARA4で初登場。あらゆる才能に恵まれた、室町幕府のかつての王。

足利十三代となった己の時代において日ノ本から活気が失われたことを憂い、再び人々の熱い息吹を求める。


戦国無双シリーズ

武器:刀剣 声:山田真一(2Emp)、江川央生(2猛将伝)、宮坂俊蔵(3)


将軍家としてではなく、一剣士として相手願おう!」(Emp特殊セリフ)

天下の将軍たる予を亡き者にせんとは!松永久秀、この大悪党めが!」(4-Ⅱ:反逆の章OPより)

愚かなり、久秀!剣豪将軍たる予を討てると思うたか!」(同上)

剣豪将軍の異名、伊達では無いぞ!」(4Empイベント:剣豪試合より)


激・戦国無双や戦国無双2empiresで一般武将として登場し、2猛将伝では無双武将に昇格した佐々木小次郎の穴埋めの護衛武将として登場した。(同じような経緯で高橋紹運も護衛武将として登場したが、義輝のみグラフィックが2Empと異なる。)


3Empではモブ武将ながら、強キャラの1人として設定されており、その上に特殊セリフに加えて松永久秀とのイベントがある。


その後、戦国無双4では登場しなかったが、4-Ⅱにて固有グラフィックの一般武将(グラフィックは尼子勝久と同じだが、顔部分のみ一条兼定や小早川秀秋と同じ)として登場したが、出番は何と反逆の章のOPのみで敵軍に1人で果敢に奮闘するも最終的に松永久秀の投げた爆弾によって爆死させられてしまった。


4Empでは弟・義昭同様に固有武将の1人として登場。3と同じく固有台詞が存在し、更にイベント「剣豪試合」で登場させると富田重政と同じく固有の台詞を呟く。


GREEのソーシャルゲーム『100万人の戦国無双』にも登場していた。

我は、我が一閃は、我が将軍家は!! 決して乱世には屈せぬ!!

一人称は「余」。数多の刀剣を所持する衣冠束帯の男。

史実通り、室町御所で松永久秀と対峙し、彼の業を払うべく最後の戦いに挑んだ。


関連イラスト

【歴史創作】足利義輝


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