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米内光政の編集履歴

2018-01-02 13:34:33 バージョン

米内光政

よないみつまさ

(明治13年3月2日~昭和23年4月20日) 第37代内閣総理大臣。明治~昭和時代の海軍軍人・政治家。従二位勲一等。海軍大将。

概要

第37代内閣総理大臣海軍出身で、海軍大臣連合艦隊司令長官などを歴任した。最終階級は海軍大将


明治13年、岩手県盛岡市で盛岡藩士の子として生まれた。士族の家ではあったものの、父親の事業失敗などにより生活は苦しく、米内も若い内から新聞配達などで家計を助けていた。


明治31年に海軍兵学校へ入学するが、成績は丁度真ん中辺りで決して優秀だった訳ではなかった。また、口数の少ない事もあって、同級生からは「グズ政」とあだ名された。明治34年に兵学校を卒業した後は日露戦争に従軍し、日本海軍史でも指折りの海戦である日本海海戦に参加した。その後、大正元年から2年間、幹部の育成を行う海軍大学校で教育を受けた。


大学校卒業後はロシア(ソ連)、ドイツポーランドなどに赴任した他、艦船艦長、大学校教官などを歴任した。この内、最も赴任期間が長かったロシアで受けた影響は大きかったようで、米内は親ロシア・親ソ連的立場を取る人物となった。その後、窓際部署だった鎮海要港部司令官に回されるが2年で第三艦隊司令長官に栄転し、佐世保鎮守府や横須賀鎮守府の司令長官などキャリアを積んでいった。なお、この鎮守府司令長官時代には水雷艇『友鶴』の設計不備による転覆事故の調査や二・二六事件の制圧任務など重要任務にあたっている。

そして昭和11年、海軍の花型ポストである連合艦隊司令長官に就任した。しかし、就任からわずか2ヶ月後に当時の林銑十郎内閣から海軍大臣として指名を受け、早々に司令長官の職を解かれてしまった。軍人が政治に携わる事を嫌い、大臣の職に興味も無かった米内は、この人事に関して周囲に不満を漏らしていたという。


大臣就任後、当初は「立派な風体の割に中身は凡庸以下」というような意味合いから「金魚大臣」などと嘲ったあだ名を付けられていたが、窓際部署時代に読書で培った知識や元々の生真面目さを生かし、海軍にとって長年の懸案事項だった兵士達の医療体制不備を財界人からの寄付による病院建設で解消するなど優秀ぶりを見せつけた。そのような成果のお陰か、米内は林内閣の後任である第一次近衛文麿内閣や平沼騏一郎内閣でも海軍大臣に指名された。

最初の大臣時代は終始対中政策に追われ、第一次近衛内閣では蒋介石率いる中華民国軍による上海日本人居留地への侵攻(第二次上海事変)が発生し、米内は陸軍・外務の各大臣と共に中国との全面戦争とドイツを仲介役とした対中和平交渉の打ち切りを主張し、近衛もこれに賛同したため、中国への交渉打ち切りが発表された。これにより、盧溝橋事件以降局地的に発生していた日中間の戦闘は日中戦争という全面戦争に発展し、アメリカなどの不信を強め、太平洋戦争への道筋を作る事にもなった。

次の平沼内閣では、国際連盟脱退国で同じ反共産主義を掲げる日本ドイツイタリアによる協定をより強固な軍事同盟(日独伊三国同盟)にする協議が行われた。だが、米内を始めとする海軍の大多数がドイツと接近する事で米英との間が更に悪化し戦闘となった場合に勝算が無いと踏んでいたため、米内はこれに反対しソ連と手を繋ぐべきと主張した。結局、昭和天皇が有事に軍事的支援が必要な同盟の中身に難色を示したことや、同盟予定国の一つであるドイツが共産主義の中心的存在であるソ連と不可侵条約を結んだため同盟と内閣への信用が揺らぎ内閣が総辞職に追い込まれ、協議は第二次近衛内閣まで進展しなかった。平沼内閣の後任阿部信行内閣では海軍大臣のポストを後輩に譲り、自身は窓際部署に納まった。


窓際部署移動からわずか一年後の昭和15年1月、米内は突如内閣総理大臣に指名される。これは、米内が内閣を去った後にドイツがヨーロッパで勢力を拡大し、頓挫していた日独伊三国同盟を陸軍や世論が再び推すようになり、同盟締結を危惧した昭和天皇が反同盟派の米内に白羽の矢を立てたためである。米内は当初この指名を断るつもりだったが、昭和天皇から直に任命の言葉を聞き、断れずに首相となった。なお、首相就任の際に米内は統帥権干犯(当時天皇に指揮権があった軍に対し政府が指示や命令をするのは認められないとする考え)の恐れがあるとして、自ら予備役となり現役軍人の地位から退いた。


しかし、米内内閣は長続きしなかった。当初から軍事同盟を妨害する目的で組閣された内閣に陸軍が協力するはずもなく、軍部大臣現役武官制(陸海軍大臣は現役軍人が就任しなくてはならないという取り決め)を利用されわずか半年で総辞職に追い込まれた。この倒閣には昭和天皇も残念がり、米内内閣がもう少し続けば戦争は回避できたかもしれないと後々周囲にこぼしていたという。


総辞職後、米内は軍や政治の表舞台からは遠ざかるかと思われたが、後任内閣の第二次近衛内閣で日独伊三国同盟の締結が不可避な状況になると、海軍内部から米内の現役復帰論が出始めた。そこで、連合艦隊司令長官や海軍大臣としての復帰が画策されたが中々実現せず、日本は太平洋戦争に突入してしまった。


日米交渉は全く進まず、結果として昭和16年12月8日未明のハワイ海戦で日米戦争が正式に始まった。ハワイ攻撃直後の米内は、真珠湾におけるハワイ海戦に、歴史上の織田信長の姿を見たが、そこには後の本能寺の変をも織り込み済みであった様である。


開戦から3年の年月が経った昭和19年7月に、時の東條英機内閣が総辞職すると、その後任として陸軍大将小磯国昭と共に天皇から組閣命令が出され表舞台に戻って来た。この際、米内は副総理格の海軍大臣として入閣し、軍部大臣現役武官制に則って海軍に復帰している。以後、終戦を挟んで幣原喜重郎内閣で海軍省が廃止されるまで海軍大臣を務める。


復帰した米内は、まず親ドイツ派で日米開戦論者だった海軍次官(海軍省No.2)の岡敬純を更迭して鎮海要港部司令長官に左遷し、代わりに横須賀鎮守府時代の部下だった井上成美を次官に据え終戦に向け動き出し、小磯内閣の後任である鈴木貫太郎内閣ではソ連を仲介役とした和平交渉か軍事支援を主張し、内閣はソ連仲介による和平交渉を採用した。しかし、この時すでにソ連は対日参戦を極秘裏に決定しており、交渉はソ連側の時間稼ぎにより一向に進まなかった。そんな中、連合国側から日本の無条件降伏を促すポツダム宣言が提示された。しかし、阿南惟幾陸軍大臣を始めとする軍部の強硬派はこれを強く拒否し、降伏に関し交渉の余地があると考えていた外務省東郷茂徳外務大臣の意見も反映され、内閣は公式コメントを発表せず様子見を行う事で決定した。しかし、阿南らはこれに強く抗議し鈴木に黙殺する声明を発表させてしまった。なお、この時米内は無条件降伏という内容に不満を感じたのか、ソ連仲介の終戦交渉に望みを持っていたのか不明だが曖昧な態度しか取らなかった。この結果、広島長崎への原子爆弾投下、ソ連の対日戦線表明と日本にダメ押しとも言える攻撃が加えられた。これ以降、米内は東郷と共に天皇の身分保障をつけた上でポツダム宣言を受諾するよう訴え、鈴木も支持した。阿南だけは強固に諸条件を付け加えた降伏か本土決戦を頑なに譲らなかったが、結局昭和天皇の判断によりポツダム宣言が受諾され日本は昭和20年に終戦を迎えた。なお、阿南は終戦が発表された当日に自決しており、その際に終戦か本土決戦かで常に揉めていた米内を名指しして斬り殺すように言い遺している。


終戦後も戦犯などで拘束される事もなく、引き続き海軍大臣として東久邇宮稔彦王幣原喜重郎の下で閣僚を務め戦後処理と海軍の解体にあたった。また、昭和天皇の戦争責任を回避させるために東京裁判にも2度出廷しており、強固に日米開戦を主張した強硬派達にこそ戦争の責任はあるとして、戦犯で起訴された陸軍幹部達を法廷で痛烈に批判した。しかし、東條英機陸軍大将や畑俊六陸軍元帥に関しては一切批判する事はなかった。これは、第三次近衛内閣が総辞職した際、後任の首相決めで候補となった及川古志郎海軍大将を負け戦の大将にしまいと猛反対をしかけた結果、残りの候補として首相の椅子が回ってきてしまった東條と、自身が首相だった際、陸軍の命令で自身の意に反して辞職し倒閣を手伝ってしまった畑への同情からだったと言われている。特に畑の裁判に関しては、責任追及どころかすっとぼけをかまし続け、裁判長からアホ呼ばわりされる始末であった。


その後は、表舞台から去り北海道で牧場経営事業に参加していたが、かねてよりの高血圧などから体調を崩してしまい、昭和23年にこの世を去った。死後、昭和35年に出身地の岩手県盛岡市にある盛岡八幡宮に銅像が建立された。その除幕式には式直前に仮釈放された畑の姿があり、米内の銅像の周りにある草むしりをする姿が目撃されている。


人物

温厚で実直な性格から多くの人に慕われていたと言われており、兵学校時代の席次がものを言う海軍において席次が中盤に位置していた米内が連合艦隊司令長官や海軍大臣を歴任できたのも、そういった人徳の賜物が多少なりとも影響していたと思われる。

米内は海軍時代、司令部に出勤するほかは読書と散歩、たまに書道の練習に時を過ごしたと言われ、東洋的教養としては老荘思想を好み、中でも『老子』を読み込んでいたようである。


関連

阿部信行 36代総理(前)

近衛文麿 38・39代総理(次)


軍人総理


海軍大臣 連合艦隊 連合艦隊司令長官

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