生年:181年
没年:234年
概要
荊州で晴耕雨読の生活を送っていたが、自他共に「管仲・楽毅に匹敵する」と言わしめたほどの才能を見出した劉備から、「三顧の礼」をもって迎えられた。この時、諸葛亮は劉備に対していわゆる「天下三分の計」を披露し、曹操・孫権と衝突することを避け、最初に荊州・益州を領有し、その後に天下を争うべきだと勧めた。これを聞いた劉備は諸葛亮の見識に惚れ込み、諸葛亮自身も改めて劉備への仕官を承諾した。演義においては前述の通りであるが、「自ら売り込みに言った」という異説もあり、実際のところは判然としていない。
劉表陣営では劉琮が後継となることがほとんど決定的となり、劉琦は命すら危ぶまれていた。劉琦は自らの命を救う策を諸葛亮に聞こうとしていたが、諸葛亮の方では劉表一家の内輪もめに劉備共々巻き込まれることを恐れて、これに近寄らなかった。そこで劉琦は一計を案じて高楼の上に諸葛亮を連れ出し、登った後ではしごを取り外して、諸葛亮に助言を求めた。
まもなく曹操が南下を開始すると、劉琮はすぐさま降伏した。劉備は曹操の軍に追いつかれながらも、手勢を連れて夏口へ逃れた(長坂の戦い)。
孫権陣営は情勢観察のため劉表の二人の息子への弔問を名目に魯粛を派遣してきていた。諸葛亮は魯粛と共に孫権の下へ行き、曹操との交戦と劉備陣営との同盟を説き、これに成功した。この際、孫権から「劉備はどうしてあくまでも曹操に仕えないのか。」と問われ、諸葛亮は答えた、「田横は斉の壮士に過ぎなかったのに、なおも義を守って屈辱を受けませんでした。まして殿は王室の後裔であり、その英才は世に卓絶しております。多くの士が敬慕するのは、まるで水が海に注ぎこむのと同じです。もし事が成就しなかったならば、それはつまりは天命なのです。どうして曹操の下につくことなどできましょうか。」
ーその後、劉備・孫権の連合軍は曹操軍と長江流域で対決し、勝利した(赤壁の戦い)。
戦後、劉備たちは孫権・曹操の隙を衝いて荊州南部の4郡を占領した。諸葛亮は軍師中郎将に任命され、4郡の内の3郡の統治に当たり、ここからの税収を軍事に当てた。この頃、諸葛亮と並び称された龐統が劉備陣営に加わった。
建安16年(211年)、益州の劉璋の使者の法正は張松と謀って、益州の支配を頼りない劉璋から劉備の手に渡す事を目論んでいた。劉備は龐統・法正・黄忠らを連れて益州を攻撃した、諸葛亮は張飛・趙雲らとともに長江を遡上し、手分けして郡県を平定すると、劉備と共に成都を包囲した(劉備の入蜀)。
劉備に従い入蜀した後は、内政・兵站の担当者として法の制定などにおいて辣腕を振るった。
例えば諸葛亮が劉璋時代よりも法を厳しくした時、同僚の法正は民衆から不満が出てきた為、
「未だ成立して間もない政権なのにあなたは民に恩寵を施そうとしない。あなた達は他所から入ってきたのだからなおさら腰を低くする必要がありましょう。どうか、法を緩めて民の期待に応えてください。」と語ると、
諸葛亮は「あなたは一を知っているが二を知りませんね。」と答えた。
「劉璋殿の時代、法は有って無い様な物。君臣の道は無くなり民はやりたい放題。だからこそ、私は法を厳しくしたのです。そうやって厳しさが身に染みれば恩寵の本当のありがたさが分かるのです。政治の要はここであると私は考えています。」
このように、両者の意見は合わない事が多かったがお互いの事は十分認めていたと言うことだろう。
夷陵の戦いに敗れた劉備が没する時に「息子の劉禅が皇帝に足る人材ならば補佐してくれ、無能ならば君が皇帝になれ」と言われるも「一人の臣として忠を尽くすのが私の勤めであります」と答えたとされ、実際に彼は生涯一家臣として蜀漢を支え続けた。
劉備の死後、蜀の南方で発生した反乱を平定した南蛮征伐の直後より五度の北伐を敢行。
第一次北伐の際に皇帝の前でその覚悟のほどを示した上奏文「出師の表」は、後世において天下の名文と称えられた。三顧の礼はこの中で言及されたものであった。
234年、第五次の北伐の際に陣中で病に倒れ、陣没。
その際、あまりに統制の取れた反撃ぶりに孔明が未だ生きていると勘違いした魏の参謀・司馬懿は慌てて追撃を中止したといわれ(世に言う「死せる孔明、生ける仲達を走らす」の故事)、そして見事な陣地跡を見た彼は「天下の奇才なり」と諸葛亮を絶賛したといわれる。
注記1
ただし、呉の張昭も孫策の最期の時に孫権を相手に同じよう評価を言われている。この事から「諸葛亮をけん制する狙いがあった」とする見方もある。
というより、他の大臣が見ている目の前で「謀反してもいい」といわれて「はいそうします」などと言えるわけがないのである。
ちなみに、共に同様の台詞を言われた益州出身の李厳という将もいたが、諸葛亮が有名になりすぎたせいか全くと言っていいほど話題にならない。
注記2
出師の表の中に「非才の身である私をも先帝(劉備)は三顧を持って迎えてくださった」という一文がある。
これをもって「本人が言っているから三顧はあった」と主張する人もいるが、一方で「故事に精通していた諸葛亮が太公望などの『賢人を礼を持ってと訪ね、迎える』という国家儒教的な美徳を知らない筈がなく、これは先帝の偉大さを称えるための脚色だ」と主張する人もいるため、三顧の礼があったか否かをここで断定することは出来ない。
寸評
演義ではまさに何でもお見通しのスーパー軍師といった感があるが、実際のところは内政参謀・もしくは超有能な官僚組織の長といったところであったらしい。実際、軍を動かすのが得意な龐統や法正がいた頃は彼らに任せていたようだ。
彼の政治手腕は史書においても「どのような小さな善でも必ず賞し、いかに小さな悪でも必ず罰し、その賞罰は常に公平であった」と評され、「蕭何(漢帝劉邦の最大功臣、前漢の名宰相や内政の化け物)・管仲(春秋時代斉桓公の重臣)にも匹敵する」と手放しの賞賛を与えている。
とはいえ、軍を率いるのも人並み以上には出来たようである。幾度も北伐を敢行した上で致命的な大敗北を喫していない事はその証拠であろう。
ただ、史書においては「奇策や臨機応変の計略が得意でなかった」とも書かれており、一番有能であった分野はやはり政治分野であったと見るのが妥当であろうと思われる。
またそういった並はずれた才能の持ち主であったが、人を見る目にはあまり恵まれていなかったと言われている。
彼の一番のお気に入りだった馬謖(ばしょく)は主である劉備からダメ出しされており、その通り挽回しがたい失敗を犯してしまった。
また劉備の死後は政治面でその辣腕をふるったが、いざ北伐に乗りだすとたちまち内政が乱れ、何度も呼び戻されたという。
創作物においては
演義後半の主役とも言える人物であり、三国の君主たちと並んで(あるいはそれ以上に)名前が通ってる有名な人物であるためか、ほぼ必ずといっていいほどに出番がある。
まともな孔明はもちろんだが、ロリ化してはわわとか言わされたりとか味方からすら信用されてない悪の軍師をやってみたりとかあげくの果てには魔王に取り憑かれたり、マスコット風にされたり、吹き戻しを鼻に挿されたり、ヨメさんとの(周囲が)砂吐くような激甘新婚生活をブッ込まれたりと枚挙に暇が無い。というか扇子からビームを撃ったり扇子が支援メカに変形したりやたらとエキセントリックな改変をされたりもする。
迂闊に歴史に名前を残すと大変であるという実例といえよう。
横山三国志
コーエー歴史SLG三国志シリーズ
シリーズを通して知力100、助言的中率100%を誇る(作品によって若干違う場合もある)。
知力・政治力・魅力・統率力と言った能力値がいずれもトップクラスであり。
唯一の弱点である武力も、初期作品では60以上の数値だった(軍師・文官レベルでは徐庶に次ぐ)
戦法などの特殊能力についてもシリーズを通してレベルが高い(所持数・レア度・効果がいずれも最高峰)
ライバルの司馬懿とはほぼ拮抗している。
三顧の礼はⅢ以降シリーズ通しての定番イベントである。
真・三國無双
おそらく一番有名な、ビームを出す諸葛亮。
CV:小野坂昌也
詳しくは諸葛亮(真・三國無双)を参照
三国伝
一騎当千
鋼鉄三国志
CV:子安武人
陸遜と共に旅を続けていたが彼を呉に送ったのち蜀に赴く。
あらゆる策を張り巡らせ陸遜たちを翻弄するが・・・。
陸遜からは「我が師」と呼ばれ盲目的に慕われている。
蒼天航路
CV:平田広明
初対面の劉備らにナニを見せつけた変態。
登場当初は金髪で瞳孔が三つあるという神秘的な人物で、曹操に異常なまでの興味と執着を見せるが拒絶され、赤壁の戦いの後に一般的な諸葛亮の姿に変貌する。
DRAGONSISTER
黄巾の乱が終わった後も、朝廷が荒れて乱世が続くことを予見していた少女学者。
初登場時は家庭の事情で劉備と同行できなかったが、官渡の戦いの後に劉備軍の軍師となる。
恋姫†無双
CV:楠鈴音(PC版)/鳴海エリカ(TV・コンシューマー版)
三国恋戦記
CV:杉田智和
孔明を参照
イナズマイレブンGOクロノ・ストーン
CV:沢海陽子
詳しくは→諸葛孔明(イナズマイレブンGO)
Fate/GrandOrder
CV:浪川大輔
正確には赤の他人だが、シナリオ・ゲーム上ともに便宜上は諸葛亮として扱われる。
詳しくは→ロード・エルメロイⅡ世及び諸葛孔明(Fate)
なお、同じFateシリーズのヒロインの一人、遠坂凛のイロモノシリーズの一つに諸葛凛というのもある。
妖怪三国志
ウィスパー孔明として登場。やる気のないジバニャン劉備に悪戦苦闘しながら彼を立派な三国英雄へと育て上げる。アニメではいつもおぼろ入道華雄にひどい目に合わされるオチが付いている(ほとんど食べられる)。