概要
時は江戸時代元禄2年(1689年)、大坂の堂島に1つの船小屋が創業した。
店は畳まれることなく明治時代まで続き、明治8年(1876年)店名を藤永田造船所と変更し、新たな歴史が始まった。
明治時代
明治時代は軍籍艦の建造は行われず、造船の他に、鉄パイプや科学工業機器類を作成していた。
この頃の造船所や鉄工所にはよくあったことだが、造船所という社名でも電車を製造したりすることはよくあることなので問題無いのである。
大正時代
大正8年(1919年)に大日本帝国海軍指定の造船所に指定されると、
それを機に樅型駆逐艦蕨、蓼、若竹型駆逐艦刈萱、芙蓉、峯風型駆逐艦朝凪、睦月型駆逐艦文月と次々建造した。
また、鉄道車両の制作も大正9年1920年)から開始し、今の東急東横線の源流である「東京横浜鉄道」開業時の車輌であるデハ100形(→デハ3100形)や、京浜急行電鉄最後の木造電車にして、高松琴平電気鉄道譲渡後昭和53年(1983年)まで使用された京浜電気鉄道41形(→京急クハ120形)等を制作している。
昭和時代 戦前
昭和に入るとますます駆逐艦の建造が盛んとなった。軍需工場であったことから米軍による空襲を受け、工員にも死者が出たという。
1945年(昭和20年)までに28隻が建造、2隻が建造中止となった。
内訳(駆逐艦のみ)
松型・橘型:梅、桑、杉、樫 、楢、柳、樺、桂(未完成)、山桜(未完成)
鉄道車両
昭和8年(1932年)まで続けられたが赤字のため中止となった。
今の小田急電鉄開業とほぼ同時に投入され、足回りは昭和60年代まで使われた小田急121形、131形(→デハ1200形)同じく荷物車の小田急151形(→デハ・デニ1300形。HB車の項目も参照されたい)、また京阪の急行用電車1550型(→初代600型)、京福電気鉄道モボ101形等がある。
京福電鉄モボ101形は車体乗せ換えと台車交換が行われたものの2016年現在も現役である。
昭和時代 戦後
戦後は海上自衛隊の船を作ることはほとんどなく、貨物船や液化天然ガス輸送船等を製造していたが、昭和42年(1967年)に三井造船と合併し長きにわたる歴史に幕を閉じた。
かつて、跡地には石碑が建てられており、ゲーム『艦隊これくしょん』の聖地としても知られていた(メイン画像)が、2016年末頃に建てられていた駐車場の売却に伴い撤去され、現在は関係者以外立入禁止の会社敷地内の神社(稲荷権太夫神社)に移設されている。
この為、現在はほとんど一般人の聖地巡礼は不可能である。巡礼したいなら三井造船の社員になるしかなさそうである。
勿論だが、くれぐれも無断で入る事のないように。
鬼の佐野安 地獄の名村 情け知らずの藤永田
大阪市の木津川流域はかつて多数の造船所が群立する地域であったが、その中でも特に隆盛を極めていたのが藤永田造船所、佐野安造船所(現サノヤス造船所)、名村造船所の3社であった。また、この3社は同時に労働環境の過酷さでも有名であり、「鬼の佐野安、地獄の名村、情け知らずの藤永田」等と揶揄される事もあったという。
前述の通り藤永田造船所は既に三井造船との合併で消滅しているが、他の2社は以下の通り健在である。
サノヤス造船所:現在でも大阪にドックを保有し船舶修繕などに用いている。また新造船の製造拠点のある岡山県では、昭和アニメ風のCM『造船番長』『造船係長』シリーズが謎の人気を誇っているらしい。
名村造船所:造船所を大阪から佐賀県伊万里市に移転して造船の規模を拡張しつつ、函館どつくや佐世保重工業(かつての佐世保海軍工廠)を傘下に収め、現在では船舶建造シェアは今治造船、ジャパンマリンユナイテッドに次いで国内3位。