概要
元亀3年12月22日(1573年1月25日)に、現在の静岡県浜松市で起きた戦い。
武田信玄率いる武田軍と、徳川家康率いる徳川・織田連合軍の間で合戦が繰り広げられ、武田軍の勝利で幕を下ろしたことで知られている。
戦力
- 武田軍 約2〜3万人
- 徳川・織田連合軍 約1万1千〜2万8千人
(徳川軍約8千人・織田軍約3千〜約2万人)
※双方の戦力には諸説ある
背景
武田信玄と織田信長は、桶狭間の戦いから少し後の永禄年間の後半より同盟を結んでおり、その一環として信長の嫡男・信忠と信玄の娘・松姫が婚約関係にあった他、信玄の嫡男となった勝頼には信長の養女が嫁ぐなど、少なくとも当初は良好な関係が構築されていた。
ところが、その両者の関係に水を差したのが、他でもない徳川家康の存在である。永禄年間末期、信玄と家康は今川領への侵攻に当たり、大井川を境にその東を武田が、西を徳川が領するという密約を結んでいたのだが・・・あろうことか秋山虎繁(信友)率いる武田の軍勢が、大井川より西の遠江に侵攻するという事態が発生。信玄もこれは拙いと判断したのか即座に秋山勢を退かせたが、約定を反故にされる格好となった家康の怒りは収まらず、この一件をきっかけに武田・徳川の同盟は手切れとなってしまう。
以降も信玄と家康との間で、駿遠や三河を中心に度々抗争が繰り広げられる一方、信玄からの働きかけにより徳川とも同盟関係にあった信長が、家康に対し武田との協定の再考を打診しているが、ここでも家康はその打診を突っぱねた上、越後の上杉謙信とも同盟を結んで武田への締付けを強めるという有様であり、この折衝の不首尾は武田・織田間の同盟にも隙間風を生じさせる格好となった。
とはいえこれをもって即座に両者の仲が決裂した訳でもなく、かねてから対立関係にあった武田・上杉間の和睦を、信長や足利義昭が取り持つ(甲越和与)など、元亀年間に入っても依然として同盟関係は維持されたままであった。
しかし、畿内における義昭・信長政権と、浅井・朝倉・三好など敵対勢力との抗争が深刻化する中、義昭は武田や毛利にも協力を依頼すべく御内書を送るという行動に出ている。武田は言うに及ばず、この時点では毛利も織田とは協調関係にあり、義昭による御内書送付はそれまで言われてきた信長包囲網構築の一環というよりも、苦戦続きの信長一人のみを後ろ盾とすることに不安を覚えたが故に、少しでも多く後ろ盾となる勢力を得ようとしたが故の行動であったのではないか、と昨今では指摘されている。しかしこれは将軍を支える立場であるという強い自負を持っていた、信長の面子を潰すものでもあった。
さらにこの畿内での抗争において、織田方による焼き討ちを食らった比叡山延暦寺の天台座主・覚恕法親王が信玄の元に逃れており、信玄もこれを保護するとともに信長の所業を「天魔ノ変化」と非難するなど、これらの要因は徐々にではあるが武田・織田の同盟に亀裂を走らせることとなる。
そして、両者の関係破綻を決定付けるものとなったと見られるのが、東美濃における境目問題である。
東美濃では当時、この地を治めていた遠山氏(岩村遠山氏)が武田・織田の間で両属関係にあったのだが、その当主であった遠山景任が元亀3年(1572年)に病死した直後、信長は家臣を派遣して遠山氏本拠の岩村城を接収、さらに自身の五男である御坊丸(織田勝長)を景任の養子に据えるという行動に打って出た。
当然ながらこの動きは、武田氏による東美濃への影響力が削がれると同時に、武田・織田の国境間の「緩衝地帯」が失われることも意味しており、同盟関係にありながらその相手方への「領土侵犯」とも取れる振る舞いに及んだこの一件が、かねてから信長に不信感を募らせつつあった信玄が、信長を同盟相手ではなく明確な敵として捉えるきっかけとなったと考えられる。
この頃になると、駿河侵攻に際して武田と対立関係にあった北条氏とは、既に再度の同盟締結に及んでおり(甲相同盟)、さらに依然として対立関係にあった上杉氏も、北陸での一向一揆勢の鎮圧に忙殺されるなど、信玄が後背を脅かされる危険はほぼ解消されていた。
西へ向けた大規模な遠征への状況が整いつつあると見た信玄は、遂に元亀3年10月に自ら軍勢を率いて織田・徳川領への侵攻を開始。ここに武田・織田間の同盟も破棄(※)され、西上作戦に踏み切った武田と、これを迎え撃つ織田・徳川という対立関係が打ち出される格好となった。
(※ 当然ながらこれにより、信忠と松姫の婚約も破談となったが、それでも相思相愛だったと言われている)
合戦の推移
前哨戦(一言坂の戦い・二俣川の戦い)
前述の通り兵を挙げた信玄は、軍を三方に分けて進軍を開始。
そのうち、別働隊を率いた武田家重臣・秋山虎繁は東美濃へ侵攻し、織田方であった岩村城を攻略。武田方に呼応する家臣の存在もあって岩村城は早々に開城し、武田軍により接収されるに至った。
一方、先遣隊を任された武田四天王の一人・馬場信春は、甲斐から信濃を経由して北より遠江へ侵攻。徳川方の城・只来城を攻略し、その勢いのまま二俣城をも包囲した。徳川軍も先遣隊による二俣城包囲を阻もうとするも、衆寡敵せず敗退を喫した(一言坂の戦い)。
その間、駿河を経由して遠江に入り、天方城や飯田城など徳川方の拠点を瞬く間に陥落させた武田軍本隊や、先んじて三河に侵攻していた武田四天王の一人・山県昌景の軍勢も先遣隊に合流し、包囲から2ヶ月後の12月後半に二俣城は無血開城(二俣城の戦い)。この武田軍の侵攻により、遠江の大半が武田の手に落ちたのみならず、当地の国人らもその大半が武田の軍門に下ることとなる。
三方ヶ原の戦い
一方で信長はこの頃、敵対関係にあった本願寺顕如や浅井長政などを相手に多方面作戦を強いられており、家康を救援する余裕がほとんどなかった。さらに言ってしまえば当初信長も、そして信玄を動かした(とこれまで言われてきた)義昭でさえも信玄が同盟を破棄したとは思っていなかったらしく、これが織田側の初動が遅れた要因となったとも見られている。実際に義昭はこの時期、「折角武田・上杉間の和睦が成りかけているのに軍勢を動かすのは如何なものか」と、信玄の軍事行動に向けた準備を非難する旨の御内書を信玄の元へと送ってもいる。
ともあれ、一度動き出した武田軍の快進撃は凄まじく、本来小城一つ落とすのに一月程度かかるところを、この時の武田軍は平均で3日程度という速さで陥落させていった。信長は岡崎への撤退を命じたが、家康は「我もし浜松を去らば刀を踏み折りて武士を止むべし」と拒否し、浜松に踏み止まった。已む無く信長は少しでも武田軍の進軍を遅らせるべく、配下の将のうち佐久間信盛、平手汎秀、水野信元を援軍として派遣した。
この援軍には他にも滝川一益、林秀貞、美濃三人衆(稲葉良通、安藤守就、氏家直元)、毛利長秀(秀頼)らも加わっていたともされる。
二俣城を落とした信玄率いる武田軍は、天竜川を渡り秋葉街道を南下、家康の居城・浜松城を包囲する・・・と思われたが、浜松城を目前にして突如進路を三方ヶ原台地に変え、浜名湖湖畔の堀江城を標的とするように進軍を続けた。
信玄としてはこの時点での兵力の損耗や、それに繋がる長期戦を避けたかったようで、仮に堅城として知られる浜松城の攻略に着手した場合、既に織田からの援軍と合流していた徳川軍との間で、危惧していた通りの長期戦は不可避であったとも考えられる。
一方この時、家康は籠城しても出撃しても「詰み」という厳しい状況にあった。その理由としては次の2点が挙げられる。
- 籠城した場合:武田軍を素通りさせたと家康を身限り、武田軍の調略に乗る武将や離反者が出る可能性がある。
- 出撃した場合:武田軍の反撃に遭って、大損害を被る。
どちらの選択肢を取るにせよ、手痛い損害を被ることが最早確定的であった家康は、武田軍が三方ヶ原の台地から祝田の坂を下ったところを背後から急襲すれば勝機ありと見て、一か八かの可能性に賭けて出撃する。
しかし、信玄もこうした家康の動きは先刻承知であったようで、武田軍は台地にて魚鱗の陣を布き、徳川・織田連合軍に対し万全の体制で待ち構えていた。徳川・織田連合軍も鶴翼の陣を布いてこれに対抗しようとしたが、戦力に大きな差があったことに加え、武田勝頼(信玄の嫡男)、山県昌景、春日虎綱、馬場信春や内藤昌秀などの活躍もあり、開戦当初からの不利を遂に覆すことは出来なかった。かくして、連合軍は日没までのわずか2時間のうちに打ち破られ、合戦は武田軍の圧勝のうちに幕を下ろした。この時、温暖な東海では珍しく、雪が降っていたと言われている。
死傷者2000人と、武田のそれに十倍する損害を被った家康にとって不幸中の幸いだったのは、合戦が始まったのが夕刻に差し掛かってからという一点に尽きる。武田軍は勝利こそしたものの、夜陰のために家康本人を討ち取ることは叶わず、その家康は夏目吉信らの身代わりや本多忠勝らの防戦もあって辛うじて戦場を脱し、夕闇にまぎれて浜松城の北東に当たる「玄黙口」まで逃げ帰ることができた。6、70人いた供回りも、城に着く頃にはたったの7人だけになっていたという。
織田からの援軍にも被害が出ており、前出の平手汎秀がこの戦いにて討死した一方、同じく合戦に参加したはずの佐久間信盛はほとんど戦わず早々に離脱しており、後年信長から直筆で突き付けられた十九ヶ条の折檻状の中で、その姿勢を痛烈に非難されることになる。
ともあれ城に戻った家康であるが、そこにも山県昌景隊による追撃が迫りつつあり、安心できる状態とは到底言い難かった。この時家康は城内の鉄砲を集め、城外に放たせて威嚇するとともに、全ての城門を開け放って篝火を焚くという、空城の計を取ったとされる。これが事実であるかどうかは再度の検討の余地があるが、いずれにせよ山県隊は浜松城に攻めかかることなく撤退に至った。
また帰城の後、家康は家臣に坊主頭の首を刀に差して「信玄の首をとった」と言って城中を走り回らせるなどした他、自身も湯漬けを掻き込み、いびきをかいて眠り込んでみせることで余裕を取り戻したと周囲に示し、城内の混乱を鎮めたという。
犀ヶ崖の戦い
一敗地に塗れた家康であったがしかし、武田軍に一矢報いるべくその晩思い切った一手に打って出る。
合戦の後、武田軍は浜松城より北の犀ヶ崖にて野営していたのだが、家康はそこを大久保忠世や天野康景らの軍勢に急襲させたのである。思わぬ徳川軍の反攻に遭い、武田軍の中からは犀ヶ崖の絶壁から滑落した者も発生するなど、少なからぬ被害が生じることとなった(犀ヶ崖の戦い)。
もっとも、犀ヶ崖の戦いについてはその初出が後世の史料であること、さらに合戦の経過についても、「幅100mの崖に布を張り、そこに橋があると見せかけて武田軍を誘き出し崖下へと落とした」などといった荒唐無稽な逸話も散見されるなど、戦そのものがあったかどうかを疑う向きも未だ根強く残されている。
ちなみに犀ヶ崖周辺に「布橋」という地名が残されている。先述の夏目吉信の石碑も布橋にある。
徳川軍の有力武将の戦死者一覧
など
織田軍の有力武将の戦死者一覧
など
逸話
しかみ像(徳川家康三方ヶ原戦役画像)
徳川美術館に所蔵されている家康の肖像画。
三方ヶ原の戦いの直後、家康が自身の憔悴した姿を絵師に描かせ、敗戦を肝に銘じ慢心を戒めるため常に手元に置いたとされるが、実際は江戸時代に家康を礼拝する目的で描かれた可能性が高く、この逸話は近年の創作と思われる。
家康の脱糞
敗走中の家康が恐怖のあまり脱糞し、家臣から指摘されると「これは味噌だ」と言い訳したという逸話があるが、出典となる史料が判明していない(類似した話が記述されている『三河後風土記』では一言坂の戦いの後に家臣の大久保忠佐が「殿の御馬の鞍壺が糞がついている」と悪口を言ったことが記されている)。
家康と小豆餅
敗走中の家康が立ち寄った茶屋で小豆餅を食べていたところ、武田軍の追手が迫ってきたので代金を払わずに馬に乗って逃げ、茶屋の老婆が家康を走って追いかけ代金を徴収したという逸話があるが、出典は明確でなく後世の創作と思われる。ちなみに茶屋があったとされる場所と老婆に追いつかれたとされる場所に「小豆餅」と「銭取」という地名が残されているが、小豆餅から銭取まで2km以上ある。もし実話ならお婆ちゃんすごい。
片身の池
敗走中の家康が腹を空かせていたところ、家臣が近くにあった池から魚を捕まえてきた。食べようとして魚を半分に捌いたところで武田軍の追手が来たので慌てて魚を捨てたところ、その魚は片身のまま泳いでいったという。歴史というよりも地域の伝承・昔話の類だが、この出来事があったとされる場所に徳川家康を表す「権現谷」という地名が残されている。関連は不明だが豊橋市にも片身の魚の伝説がある。
武田家臣・小山田信茂率いる投石隊
この戦いで、武田家臣・小山田信茂が投石隊を率いたという逸話があるが、これは江戸時代の創作である。武田軍が投石隊を率いていたことは事実だが、当時の資料では小山田信茂が投石隊を率いていたという記述はない。
徳川家臣・酒井忠次の太鼓
家康が浜松城に逃げ帰った後、徳川家臣・酒井忠次が太鼓を打ち鳴らして味方を鼓舞し、武田方には伏兵があると疑わせて引き返させたとする話は、明治時代の創作である。
その後の経過
この三方ヶ原での惨敗により、家康はそれまでの武田に対する執拗な抗戦・挑発姿勢のツケを払わされる結果となった。そして痛手を被ったのは信長もまた同じで、この敗戦と武田の快進撃を前に、関係が冷え込んでいた足利義昭との決定的な対立を引き起こす羽目になったのである。
一方の信玄は、その後も進軍を続けて浜名湖北岸の刑部にて越年し、翌元亀4年(1573年)正月には三河の野田城を、一月あまりの持久戦の末に開城させるなど猛威を振るった。野田城が陥落し三河における防衛網も崩れたことで、吉田城・岡崎城といった拠点も一気に武田の侵攻の危機に曝される形となった・・・のだが、この頃から事態は思わぬ方向へと推移し出すこととなる。
――その原因は、他ならぬ信玄の健康状態にあった。
西上作戦以前より、既に信玄は病がちであったとされ、三方原での合戦の際にも直後の首実検の最中に突如吐血したとされる。そして野田城の陥落から間もなく症状はさらに悪化し、ここまで破竹の勢いであった武田軍もにわかに、その動きを止めざるを得ない状況に陥った。
已む無く信玄は三河西部の長篠城へと退き、療養の上で再度の進軍の機会を待つも病状は好転せず、遂に4月には本国甲斐への撤退が決定。そして撤退途上の4月12日、信玄は甲斐に帰り着くことなく信濃駒場にて帰らぬ人となったのである。
その死に際して信玄は、勝頼に対し孫の信勝が成人するまでの間陣代(後見)を務めるよう、また敵対していたはずの上杉謙信を頼るよう、そして自らの死を3年に亘って秘すよう命じ置いたとされる。この信勝が、かつて織田との同盟締結の際に勝頼に嫁いだ、信長の養女の産んだ子であるというのは、何とも皮肉な話ではある。
武田の脅威が東へと去ったことは、必然的に家康や信長が窮地から脱することをも意味していた。信長が義昭を京より追放し、浅井・朝倉を滅亡に追い込む傍ら、家康も武田方に与していた奥三河の奥平貞能・貞昌父子を調略により再び従属させ、さらに長篠城を攻めて貞昌ら奥平勢を配置するなど、先の敗北で味わった屈辱を晴らすかのように武田への反転攻勢に打って出た。結果、武田は西上作戦で手にしたはずの奥三河を徳川に奪還されたのみならず、駿河までも脅かされる格好となった。
これに対し、信玄亡き後陣代を担った勝頼が黙っているはずもなく、翌天正2年(1574年)には明知城を始めとする東美濃の織田方の城を攻略し、遠江でも徳川方の高天神城などの拠点を陥落させるなど、積極的な外征を展開。さらに徳川へと寝返った奥平貞昌を討たんとすべく、その矛先を長篠城へも向けている。
こうして西上作戦の頓挫後も、武田と徳川・織田の両勢力によってなお繰り広げられる一進一退の攻防は、やがて長篠・設楽ヶ原の地を舞台とした一大決戦へと繋がっていくこととなるのである。
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