概要
名前の元ネタは飛信隊の「飛」の由来は李信の子孫で、衛青や霍去病らと共に匈奴討伐で名を上げた前漢の将軍・李広(李陵の祖父)の異名の「飛将軍」から(2023年7月6日掲載回のコメンタリーより)。
肥下の戦い時点で、飛信隊は農民で構成された歩兵が主力、かつ玉鳳軍や楽華軍などと比較して歩兵戦は強力と言われている。
李信や羌瘣・羌礼の蚩尤タッグは作中最強クラスの武力を持つが、3人とも馬上よりは歩兵戦の方が動きやすい点も加味されていると思われる。
田有・中鉄・竜川の怪力三人衆、崇原、我呂、干斗などは武力以外にも独自に強い面を持つ。
隊の拡張にともない弱点の補強も進み、一時は羌瘣の不在によって作戦や戦術が出来る参謀的存在がいなくなってしまい連敗続きで隊の存続が危ぶまれたこともあったが、河了貂の加入によって持ち直し、羌瘣の復帰と羌瘣隊の奮戦によって隊の規模自体も拡大している。
昌平君の意向により、飛信隊は独立遊軍という位置付けとして、柔軟な対応が行えるようにしていた。
馬陽では王騎の戦術眼もあり馮忌を討った他、鄴では王翦の意図もあり玉鳳隊とともに朱海平原の戦いのキーマンとして龐煖を含む4人の趙将軍を討っている。
信の檄によって隊員が奮起するくらいに隊員間の関係は良好(この背景は、渕が隊員らとの関係を取り持つなどしているのが大きい)な一方、朱海平原の龐煖戦後のように信が倒れたら動けなくなるなど、信が心の支えになっているため、良くも悪くも隊の動向は信に大きく依存している。
また、羌瘣と羌礼は長期戦が不向きなこともあり、元々歩兵に不利な騎馬での数押しや地形で有利が取られた場合は、詰むことは無いにせよ後手に回りがち。
山陽攻略編や黒羊編での身内に対する攻撃により、虐殺や陵辱を行わない隊としても有名。
前者は蒙恬の根回し、後者は武功取り消しにより隊としては事なきを得ているが、秦国外からの評判は良い傾向にある。
平陽城を陥落させた際は城内の趙民は態度を軟化していた他、韓攻略の中心人物に李信が暗に抜擢され下見のために韓を訪れた際には、噂を聞き付けた韓非子が李信に話しかけている。
ちなみに窃盗や虐殺などを行わない軍隊というのは、上記の評価の通り作中の世界観では珍しい方である。
これは即ち誰も真似しないことをやって評価を出している(対照的ではあるが桓騎とやっていることが同じ)と考えることも出来、奇しくもかつて桓騎を救った野盗の頭領が同じスタンスであったことも相まって、桓騎が李信を認め、残った桓騎軍を託した説も考えられる。
来歴
紀元前244年、王騎大将軍直轄の特殊百人隊として結成される。
馬陽戦に投入され、侵攻してきた趙の将軍・馮忌を討ち取る大功を上げる。
その後龐煖の夜襲によって大半の隊員を失うものの、生き残った者たちで最後まで戦い抜いた。
馬陽戦後は三百人隊へ拡張され、北軍所属の特殊部隊として魏軍と小競り合いを繰り返す。
紀元前242年、山陽戦に投入される。
廉頗率いる魏軍との決戦直前に再編成がなされ、上記の小競り合いや信の啖呵が理由で臨時的に千人隊へ拡張され、更に条件であった「敵将軍の首級」を輪虎を討って見事果たし、正式に千人隊として組織され、山陽の周辺拠点制圧に派遣される。
羌瘣の離脱により戦術に詳しい人物が居なくなったことで弱体化し、一時は千人将剥奪の危機に瀕したが、河了貂の加入から完全に持ち直し、紀元前241年の合従軍戦で趙将軍・万極を討ったほか蕞の戦いの防衛に尽力するなどの大功により、論功行賞を経て三千人隊へと拡張。
紀元前239年、王弟謀反編時点で五千人隊へと拡張(信率いる四千人隊+羌瘣率いる千人隊で五千人)。
ちなみに羌瘣隊の旗は著雍戦で初めて使われた(千人将に昇格したためと考えられるが、復帰戦である王弟謀反編では使用していない)。
著雍戦後は信は五千人将、羌瘣は三千人将に昇格し、八千人隊へと拡張。
黒羊戦後は重傷者が多数出たものの那貴一家が加入した上、鄴攻略戦前に選抜試験を行い、兵数を戻した。
鄴攻略では龐煖など4人の趙将を討ったことで論功行賞を経て、信(李信と改名)が将軍、羌瘣は五千人将に昇格、李信軍一万と羌瘣隊五千の合わせて一万五千の軍となる。
紀元前234年、影丘戦に投入される。
直前に加入した羌礼の活躍により玉鳳軍の王賁は救われ、王賁の情報や亜花錦の加勢により僅か1日で影丘を攻略したものの、桓騎が扈輒を討ったことで脱走したと思われる趙兵が平陽城から影丘に戻らないように追跡するよう命令されたため、扈輒軍の数万人の虐殺を止められなかった。
紀元前233年、影丘の奪取に成功したため平陽城を桓騎軍とともに陥落させ、捕虜の扱いは飛信隊に一任された。
また、2か月後には肥下戦に投入されるも、上記の桓騎による虐殺により徹底抗戦に転じたり李牧の策で30万人規模の趙兵による総攻撃があったりなどして肥下郊外の森の中まで逃げるものの、桓騎が討たれたことで楽華軍とともに敗走した。
紀元前232年、番吾戦の時点で李信隊五千と羌瘣隊三千の八千まで数を減らしていたが、前線の都市・太原に向かい、そこで合わせて二万二千の兵が補充され以前の倍の三万の軍団となる。
しかし李牧の策で、玉鳳軍とともに王翦軍への加勢が思うように行えなかったうえ青歌軍が想定以上に強力だったことで敗走したものの、飛信隊の被害は殆ど無かった(飛信隊は単に李牧に振り回されただけだった)。
紀元前231年、韓攻略のため李信を大将軍の手前(五万)、羌瘣を将軍(一万)、楚水・渕を五千人将に格上げし、総勢六万の兵を率いる軍勢となった。
主要構成員
※階級は判明している現在の物。戦死者は最終階級の物。
隊長
隊長。上述の流れを経て、大将軍に迫る規模の将軍となった。
鄴編の論功行賞によって将軍となるために姓が必要であったため、「李信」と名乗ることを決めた。
本能型の武将のため、知略で対処できない状況の時は貂の代わりに指揮を行うこともある。
副長及び軍師
軍師。飛信隊結成前からの信の仲間。羌瘣軍の軍師も兼ねる。
昌平君の下で軍略を学び、山陽戦後に加入。
この時点まで信は彼女を男として認識していた。
鄴出征前に行われた入隊試験の時点では、秦国の村中で女性であることが知れ渡っていた。
軍師としては前線にも後方にも頻繁に動く方で、著雍では前線に出ていたことが仇となり捕虜になったこともある。
作中では相手の奇策に嵌められる機会が多く、特に影丘以降はそれが顕著となっている。
「軍師」としての明確な敗北は黒羊丘の初日、朱海平原の3日目、肥下全般、番吾全般など。
兵卒(蛇甘平原編)→飛信隊副長(馬陽以降継続)→千人将(王弟謀反編)→三千人将(鄴)→五千人将(影丘)→将軍(韓攻略)
副長その1。「蚩尤」の一族の女性。河了貂加入までは戦術も担当。
山陽攻略編後に姉の仇討ちで一時離脱するが、仇を討った後復帰。
復帰後に羌瘣隊隊長→羌瘣軍将軍にもなっており、飛信隊副長と兼任する形になる。
鄴出征前に行われた入隊試験の時点では、秦国の村中で女性であることが知れ渡っていた。
蚩尤独自の呼吸によって数多くの敵兵を倒すが、長期戦は行えず窮地に立たされることもある。
飛信隊副長→千人将(影丘)→五千人将(韓攻略)
副長その2。元々は壁との連絡役。
武力は低いものの飛信隊結成当初からの古参という責任感の高さにより、黒羊編では決死の渡河を成功させた他、他の飛信隊との仲を取り持つ、あるいは結束力を固めることに尽力したことが評価され、韓攻略で五千人将に昇格した。
郭備隊副長(五百人将)→飛信隊副長(同左※)→千人将(鄴)→五千人将(韓攻略)
副長その3。元郭備隊副長のため、武将としての戦歴は飛信隊でも長い方になる。
このためか下記の那貴と仲が良かった。
楚水が武将を討った描写は無いものの、山陽攻略編の輪虎戦のように信が救われたこともある。
※山陽攻略編では飛信隊が三百人隊だったこともあり、飛信隊への急造の編入時も郭備隊は700人として加入したため、七百人将とも解釈できる。
将兵
千人将。乱戦特化兵「赤飛麃」指揮官。元麃公軍所属。
合従軍戦後に飛信隊に配属。
千人将。乱戦特化兵「黒飛麃」指揮官。元麃公軍所属。
肥下戦後に討死した岳雷の後任で飛信隊に配属。
二百人将(鄴編)。結成初期メンバー。結成時は第十一伍長。
信初陣時の伍長。
百人将。尾到の兄。結成初期メンバー。結成時は第十二伍長。
信と同郷で、ムードメーカーな最古参。
黒羊戦で那貴との交換で桓騎軍に加わり、ある事情から信に除隊を命じられるも、すぐに復帰した。
五百人将兼副歩兵長。結成初期メンバー。結成時は第一伍長。
熟練の兵士。
千人将。結成初期メンバー。結成時は第十四伍長。
元大工の棟梁。力自慢。
宜安城を落とす際に特攻により瀕死となるが、砂鬼一家により一命を取り留めた。
百人将。結成初期メンバー。結成時は第十五伍長。
コワモテな古参。人気者。
宜安城を落とす際に特攻により瀕死となるが、砂鬼一家により一命を取り留めた。
飛信隊第五伍長→五百人将(黒羊)→歩兵長(千人将)(鄴)
結成初期メンバー。李信、羌瘣、羌礼に次ぐ剣術の達人。
馬陽戦で隻眼になる。
五百人将。結成初期メンバー。結成時は第六伍長。
口が悪く、喧嘩っ早い。
五百人将。結成初期メンバー。結成時は第十六伍長。
本人曰く「田有三人分の馬鹿力」を持つ巨漢。
宜安城を落とす際に特攻により瀕死となるが、砂鬼一家により一命を取り留めた。
百人将。結成初期メンバー。結成時は第十八伍長。
元料理人。
百人将。結成初期メンバー。結成時は第二十伍長。
音感に長けた山の民。
軍師補佐。戦闘自体はほぼ行わないため作中でも影が薄い。
兵卒。古参の隊員その1。母思いの若者。成長株。
尾平や羌礼との絡みが多い。
兵卒。古参の隊員その2。
兵卒。山の空気読みに長けた隊員。
兵卒。鄴出征前に加入した新兵。
かつての「中華十弓」の蒼源の息子。蒼淡の兄。小柄だが、弟とともに卓越した弓術を持つ。
兵卒。鄴出征前に加入した新兵。
かつての「中華十弓」の蒼源の息子。蒼仁の弟。大柄で兄にも劣らぬ弓術を持つが、殺人に対するプレッシャーに弱い。
兵卒。鄴出征前に加入した新兵。
松左の殉職時に彼の槍を託される。
兵卒。羌瘣の妹分。現・蚩尤。
鄴攻略後に飛信隊に加入し、韓攻略以前の軍の体制上は李信軍として従軍していたが、韓攻略では羌瘣軍の自由兵(羌礼の性格や戦い方を踏まえると他人を率いるのは難しく、単独行動専門の兵として配属)という独自の位置で編入された。
番吾戦で飛信隊に配属されたが、とりあえず番吾の1戦だけという条件付きだった。
その後、韓攻略で正式に医療班として配属された。
殉職・離脱者
伍長。尾平の弟。結成初期メンバー。結成時は第十三伍長。
馬陽戦で万極兵の弓により戦死。
なお、将軍になった頃の信から彼の名前は忘れられていたが、龐煖戦で信を支えた光の中に姿を見せていた。
千人将。斥候を得意とする「那貴隊」隊長。元桓騎軍所属。
黒羊戦で一時飛信隊に配属し、戦後に正式に配属。
なお、作中では桓騎軍由来の「那貴一家」で一貫して呼称されるが、第643話の飛信隊の構成図では「那貴隊」と表記されている。
また、桓騎軍に所属していた当時から千人将だが、黒羊戦で飛信隊に移動したのは那貴一家の一部(同じく桓騎軍に一時的に移動した尾平隊も一部の人物が移動した)。
つまり那貴隊は、「那貴一家」と、那貴一家以外の飛信隊所属の兵で構成されていると言える。
肥下戦で、窮地の桓騎のもとへ戻ることを決意した那貴及び「那貴一家」が飛信隊から離脱。
李牧軍に取り囲まれている桓騎達の元へ突撃し、敵将・雲玄を討つも敵に阻まれ戦死。
戦後は隊長や他の那貴一家も不在になったため、那貴隊も解散した。
千人将。乱戦特化兵「黒飛麃」指揮官。元麃公軍所属。
合従軍戦後に飛信隊に配属。
宜安の戦いで上和龍により討死。
百人将兼副兵長。結成初期メンバー。結成時は第十伍長。
槍術の達人。鄴編の朱海平原戦で戦死。
百人将。結成初期メンバー。結成時は第十七伍長。
右目の周りにある痣が特徴。鄴編の朱海平原戦で龐煖により討死。
伍長。結成初期メンバー。結成時は第二伍長。
長身の男。馬陽戦で龐煖の襲撃で戦死。
伍長。結成初期メンバー。結成時は第三伍長。
大柄な男。馬陽戦で龐煖の襲撃で戦死。
伍長。結成初期メンバー。結成時は第四伍長。
常に笑みを浮かべている男。馬陽戦で龐煖の襲撃で戦死。
伍長。結成初期メンバー。結成時は第七伍長。
禿頭の男。馬陽戦で龐煖の襲撃で戦死。
映画『運命の炎』では出番がやや増えている。
伍長。結成初期メンバー。結成時は第九伍長。
長髪の男。馬陽戦で龐煖の襲撃で戦死。
伍長。結成初期メンバー。結成時は第十九伍長。
強面の男。馬陽戦で龐煖の襲撃で戦死。
什長。結成初期メンバー。結成時は第八伍長。
当時、飛信隊最高齢の老兵。山陽戦後に引退して離脱。
余談
作中では数万の兵を率いる場合は「軍」という名称を用いるのが一般的である(王賁や蒙恬が将軍になって以降作中の人物は玉鳳隊や楽華隊を「隊」と呼ばなくなった他、単行本冒頭の図の説明などでは「軍」と表記している)一方、飛信隊については王騎から貰った名前であるため、規模がいくら大きくなっても飛信「隊」である。
作中で明言されている軍の中では表立って戦闘に参加する女性率が高い(桓騎軍や凱孟軍のような兵士ではない女性を同伴する隊も存在する)。
鄴出征前に行われた入隊試験では河了貂や羌瘣の人気から志願者が想定以上に多くなり、現メンバーにも厳しいと言わしめた合格者も規定数を上回る結果となった。
また、鄴の戦いの後で羌礼も加わったことでさらに女性が増えた。
王弟謀反編以降は羌瘣も力を付けており、羌瘣隊を受け持っている。
その規模は信(李信)の一つ下に迫るものであるため、作中で羌瘣隊も飛信隊に含むことを疑問に思われる場面も見られた。
韓攻略でついに将軍になったため、その活躍は飛信隊に留まらない可能性も出てきた。
アニメ第5シリーズのOPは歌詞や4話の扱いから飛信隊(特に信)を意識した曲である模様。