プロフィール
生年月日 | 1985年3月26日 |
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性別 | 牡 |
父 | サクラシンゲキ |
母 | メルシーブルー |
母の父 | ダイアトム |
競走成績 | 平地35戦4勝/障害4戦0勝 |
主な勝ち鞍 | 1988年菜の花賞/1989年京王杯AH(現京成杯オータムハンデ2着) |
父サクラシンゲキ
ドン産駒で日本ダービーではオペックホースの4着、当時1800m戦だった京王杯オータムハンデ(現京成杯オータムハンデ)を連覇するなど距離に対する融通性はある程度持ち合わせていた。今もなお語り継がれているのは「日の丸特攻隊」と後に呼ばれる第1回ジャパンカップでの超ハイペースでの逃げ(1000mを57秒8で通過)である。
引退後は種牡馬となり、初年度産駒から中日スポーツ杯4歳Sを制したヒデリュウオーを出し、以降もカブトヤマ記念馬ユーワビームや北九州記念勝ち馬ニシヤマショウなどを送り出し1994年8月に永眠した。
母メルシーブルー
1991年の日経新春杯馬メルシーアトラと1994年の毎日杯を制したメルシーステージの姉である。本馬は9戦未勝利だったが一族からは2004年の中山大障害勝ち馬メルシータカオーや2010年の中山グランドジャンプの勝ち馬メルシーモンサンが出ている。
戦績
(馬齢表記は旧年齢表記)
3歳時(4戦2勝)
デビューから2戦目で勝ち上がり4戦目の黒松賞を制し2勝目をあげる。
4歳時(通算5戦1勝)
日本ダービーまでの足跡
菜の花賞を勝利しクリスタルカップに挑んだもののツジノショウグンの6着に敗れる。
そして次走は日本ダービーに決まった。ここまで1200~1400m戦しか使った事のない馬にいきなり1000mの距離延長…無理ゲーである。
テレビ馬とは?
現在では考えられないことだが、当時は勝敗度外視でハナを切ってテレビに出来る限り長い時間映るという魂胆の馬が1~2頭は存在した。そのような馬の事をファンは親しみを込めて「テレビ馬」と呼んでいた。
伝説を刻んだ日本ダービー
アドバンスモアは8枠24番で24番人気だった。臨戦過程等を考慮しても人気になる要素は一つもなかった。発馬後に大外から一気に切れ込んでハナを奪った。父サクラシンゲキの日の丸特攻隊の如くガンガン逃げまくったものの、3コーナー通過後に徐々に差は詰まっていつしか馬郡に飲み込まれていった。各コーナーの通過順は「1・1・1・18」である。勝ち馬のサクラチヨノオーが2分26秒3で勝利した陰で7秒4遅れの2分33秒6でゴールした。この時の逃げっぷりが後に「最後のテレビ馬」と称されている理由である。
ダービー後
5歳時(10戦1勝)
谷川岳Sで2着に入ったものの夏競馬を境に900万条件に降級となった。だが、谷川岳S以降のアドバンスモアは一介の逃げ馬から先行・差しに脚質転換を図り成功している。その結果、距離適性も融通が利くようになり1800mまでであれば対応できるようになっていた。月岡特別で約1年半ぶりの勝利を飾り、京王杯AHではマティリアルの2着、カブトヤマ記念でもモガミチャンピオンの2着に入りオープンに返り咲いたが月岡特別での勝利が最後の勝利となってしまった。
6歳時(9戦0勝)
ニューイヤーS2着と順調にスタートし、京王杯スプリングカップでは3着と健闘したが徐々に重賞では通用しなくなっていった。加齢による衰えが徐々に訪れ始めていた。
7歳時(平地5戦0勝/障害1戦0勝)
年明けから大敗が続き、障害競走に転向したものの1戦で再び平地に戻っている。年末のスプリンターズSからクリスマスSの連闘も試みたが効果は見いだせなかった。
8歳時(平地2戦0勝/障害2戦0勝)
ニューイヤーSでの11着後に再度障害に転向し未勝利戦で3着に入るも、平地・障害競走に各1走ずつ出走しいずれも2桁着順に大敗。屈腱炎のため現役を引退した。
引退後
馬事公苑で乗馬となり普及用乗馬として過ごした。第17回ジャパンカップでは旗誘導馬の大役も務めている。かつて開催されていたJRAフェスティバルにもゲスト展示馬として参加したことがある。