概要
北海道の日高地方の集落に住んでいたアイヌの首長の娘で、奥州平泉から蝦夷地に逃れたと伝わる源義経と恋仲になった。
しかし義経は海を渡って大陸に逃れるために出立し、それを知ったチャレンカは積丹半島の神威岬まで追いかけていった。
たどり着いたときには義経を乗せた船はとっくに沖のほうに出てしまっており、チャレンカは「倭人の船、婦女を乗せてここを過ぐればすなわち覆沈せん」と恨みのこもった言葉を残し海へと身を投げたのだった。
するとそこに女性の立ち姿のような神威岩が現われ、神威岬のこの岩の近くを和人の女性が乗った船が通ろうとすると不漁を招き、必ず転覆する難所になってしまったのだという。
そのため神威岬のこの岩まで向かう道は「チャレンカの小道」と呼ばれ、女人禁制の地となったのである。
余談
神威岬には元々アイヌによるタブーがあったともいわれるが、公的に女人禁制の地となったのは、松前藩によって1691年(元禄4年)に立入禁止が定められたからである。
実際この岬周辺は転覆事故が多い難所であったのも事実であったが、ニシン漁などの権益を守るためだったともいわれる。
幕末の1855年(安政2年)に江戸幕府の直轄地となり女人禁制は解かれることになった。
箱館奉行所役人・梨本弥五郎が妻帯してこの岬を通り「征夷大将軍・徳川家定の家来として君命で通るのに、どうして神罰を受けねばならぬのか」と叫んで鉄砲を撃って以来、迷信は薄れて女性の定住が進んだ。
同じく義経に恋をしたが適わず、積丹半島の女郎子岩(じょろっこいわ)に姿を変えたシララ姫の伝説も伝わる。