前史
日本がヨーロッパ諸国と交流を持つようになって以来、キリスト教の布教や貿易などの場においてヨーロッパ人が日本語を、日本人が欧州諸語を用いる場面が増加していった。そのため、互いの言語を相互に参照できる辞書の編纂も進められていった。もちろん相手の言語の発音が読めなければ会話の役に立つ辞書にはなりえないため、ヨーロッパ側が編纂した日本語の辞書には日本語の発音を自分達の用いる言語の文字、すなわちローマ字(ラテン文字)で近似させた表記が用いられていた。
戦国時代にはイエズス会によってポルトガル語式のローマ字を用いた日葡辞書が編纂され、江戸時代には東インド会社を経由して出島に駐在したオランダ人によってオランダ語式のローマ字を用いた日本語の記録が残され、江戸末期の開国後にはアメリカなどの英語圏から訪れた宣教師達によって英語式のローマ字を用いた聖書や辞書などが刊行された。とはいえ、これらのローマ字表記はあくまでヨーロッパ人が聞き取った日本語を自分達の言葉の綴りで近似して書いたものであり、特段統一された表記があった訳ではなかったという。
そのような中、「日本語の正書法としてローマ字を採用すべき」と考える外山正一らのグループ「羅馬字会」によって英語風のローマ字表記が考案される。羅馬字会ではこれを日本語の正書法にしようと運動を進めていたが、そのうち録音した日本語音声を逆再生するなどして分析を行った一部のメンバーから「この表記では日本語の発音を表現するには不完全ではないか?」という意見が出され、その一人田中館愛橘によって会の定めたものとは別の表記法(のちに「日本式ローマ字」と呼ばれるもの)が発表された。こうして日本人による日本語ローマ字表記の派閥は二分されてしまい、羅馬字会の方式と日本式とで長らく対立が起こる事となったのである。
ヘボン式の歴史
ところで、この頃アメリカ人宣教師のジェームス・カーティス・ヘボン〔※注〕によってイエズス会の『日葡辞書』以来約260年ぶりとなる日本語辞書『和英語林集成』が発表されていた。当初ヘボンは他の宣教師と同じように日本語を英語風に綴っただけの表記法によってこの辞書を編集していたが、のちに羅馬字会による表記法を知り、彼らのローマ字表記法を1886年発行の『和英語林集成』第3版に取り入れる事となった。ヘボンによって羅馬字会式の表記法は日本国外にも広がり、のちに「ヘボン式ローマ字(Hepburn romanization)」として知られるようになった。
その後もヘボン式ローマ字は改良が行われ、1905年にはローマ字ひろめ会によって「修正ヘボン式」と呼ばれる方式が発表され、ヘボン式ローマ字は日本国内でも最も広く用いられるローマ字表記法となった。
〔※注〕現在の明治学院とフェリス女学院の祖。なお「ヘボン」の原語(英語)綴りは「Hepburn」であり、これは現代では「ヘップバーン」とカタカナ表記するのが一般的である(女優のオードリー・ヘップバーンと同じ苗字である)。しかし基本的に歴史を踏まえて「ヘボン」と表記されることが普通である。
1937年の第一次近衛文麿政権が発した内閣訓令第3号によって日本式をベースとした表記法(いわゆる「訓令式」)が政府公式の日本語ローマ字表記に定められたことによって一時ヘボン式を用いた標識などは激減したものの、1945年の第二次世界大戦敗戦に伴うGHQによる占領統治が始まると状況は一転、英語圏出身者の多い進駐軍兵士にとって読みやすい修正ヘボン式を日本語のローマ字表記として採用するよう指令が下った。これによって再び世間にヘボン式ローマ字を用いた表記が広まる事となった。
1954年、内閣訓示によって公式ローマ字表記法として訓令式ローマ字が復活したものの、第2表として「国際的関係その他従来の慣例をにわかに改めがたい事情にある場合」に使用が可能な代替表記が定められた。この訓令式第2表には旧来の訓令式とは異なる修正ヘボン式の綴りが多く取り入れられており、事実上修正ヘボン式が政府に公認された形となった。修正ヘボン式ではnとmの区別のような無視して良い点を省略している。同年この新たな訓令式の規定を取り入れた「修正ヘボン式の修正形」が研究社の和英辞典『新和英大辞典』第3版にまとめられたが、これがアメリカやイギリスの公的機関による日本語ローマ字表記法として取り入れられており、国際社会におけるデファクトスタンダードとなった。
GHQ撤退後もなし崩し的にヘボン式が使われることになり、訓令式は国語教科書とキーボード用の存在となった。1989年のISO 3602制定により本来は訓令式が国際標準とされているものの、まず用いられることはなく、日本政府自体使っていないという不思議な状態となっている。
ローマ字表
ヘボン式には多数の表記ゆれがあるが、ここでは基本的に1954年以降の修正ヘボン式に準じたものをまとめる。ただし『和英語林集成』第3版で用いられた旧ヘボン式についても駅名標などに採用例があるため括弧書きで補うこととする。
a | i | u | e | o | ya | yu | yo | wa | wi | we | wo | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
∅ | あ | い※1 | う | え | お | や | ゆ | よ | わ | ゐ | ゑ | を |
a | i | u | e | o | ya | yu | yo | wa | (i) | (e) | o (wo) | |
k | か | き | く | け | こ | きゃ | きゅ | きょ | ||||
ka | ki | ku | ke | ko | kya | kyu | kyo | |||||
g | が | ぎ | ぐ | げ | ご | ぎゃ | ぎゅ | ぎょ | ||||
ga | gi | gu | ge | go | gya | gyu | gyo | |||||
s | さ | し | す | せ | そ | しゃ | しゅ | しょ | ||||
sa | shi | su | se | so | sha | shu | sho | |||||
z | ざ | じ | ず | ぜ | ぞ | じゃ | じゅ | じょ | ||||
za | ji | zu | ze | zo | ja | ju | jo | |||||
t | た | ち | つ | て | と | ちゃ | ちゅ | ちょ | ||||
ta | chi | tsu | te | to | cha | chu | cho | |||||
d | だ | ぢ | づ | で | ど | ぢゃ | ぢゅ | ぢょ | ||||
da | ji | zu | de | do | ja | ju | jo | |||||
n | な | に | ぬ | ね | の | にゃ | にゅ | にょ | ||||
na | ni | nu | ne | no | nya | nyu | nyo | |||||
h | は | ひ | ふ | へ | ほ | ひゃ | ひゅ | ひょ | ||||
ha※2 | hi | fu | he※2 | ho | hya | hyu | hyo | |||||
b | ば | び | ぶ | べ | ぼ | びゃ | びゅ | びょ | ||||
ba | bi | bu | be | bo | bya | byu | byo | |||||
p | ぱ | ぴ | ぷ | ぺ | ぽ | ぴゃ | ぴゅ | ぴょ | ||||
pa | pi | pu | pe | po | pya | pyu | pyo | |||||
m | ま | み | む | め | も | みゃ | みゅ | みょ | ||||
ma | mi | mu | me | mo | mya | myu | myo | |||||
r | ら | り | る | れ | ろ | りゃ | りゅ | りょ | ||||
ra | ri | ru | re | ro | rya | ryu | ryo |
ん | |
---|---|
通常 | n |
ア行・ヤ行の前で | n' (n-) |
バ行・パ行・マ行の前で | n (m) |
※1 旧ヘボン式ではヤ行エとしてyeの綴りも規定されていた。
※2 助詞として使用する際は通常「は」をwa、「へ」をeと表記する。ただし発音ではなく表記を区別する必要がある場合はこの限りではない。
- 促音(「っ」、つまる音)は直後の子音字の1文字目を重ねて書くことによって表す(例:切符→kippu)。ただし「チャ」「チ」「チュ」「チョ」の前ではcch-ではなくtch-と書く(例:日直→nitchoku)。
- 長音は母音の上にマクロン(¯)をつけて表す(例:ローマ字→rōmaji)。ただし外来語を除き「イー」「エー」の音はii、eiと書く事が多い(例:新潟県聖籠町→Niigata-ken Seirō-machi)。
- 文頭および固有名詞の語頭は常に大文字で書く。それ以外の名詞についても、語頭を大文字で書いてもよい。