概要
中世ヨーロッパを文字通り「暗黒時代(知的暗黒時代)」と見なす歴史観に基づいた、中世ヨーロッパに対する呼称。
「中世」の定義
そもそも「中世ヨーロッパ」という言葉自体定義が多様であり、その始まりだけでも古代ローマ帝国の東西分裂(395年)、西ローマ帝国の滅亡(476年)、カール大帝の戴冠(800年)と最大でおよそ400年もの間隔が開いており、中世の終わりも同様にルネサンス期(14~16世紀)、ウェストファリア条約締結(1648年)、果てはフランス革命(1789年)までとこちらも数百年の間隔が開いている。
「暗黒時代」という用語も同様に中世前期(5~10世紀頃)から中世という時代そのものまでと幅広い定義を持つ。
なお、本記事では中世ヨーロッパの期間を西ローマ帝国崩壊からウェストファリア条約締結までとし、暗黒時代の期間をその全体と定義して記述する。
中世暗黒時代(Dark Ages)
中世ヨーロッパは、魔法や錬金術などのファンタジー要素、ゴシック建築や騎士の華々しい文化など同時に、異端審問や魔女狩り、十字軍など異教徒等に対する弾圧・殺戮、黒死病の大流行や人々の不衛生な生活環境などネガティブな面も強調され、「表面上は華やかに見えるけれども実態は陰惨で悲惨な時代」というイメージが一般的には思い浮かぶだろう。
実際、「暗黒時代」の根拠として槍玉に挙げられる数々の事件の多くは実際に起こった事であるし、そのイメージは概ね正しいと言える一方で、後述のように間違いであるとも言える。
476年の西ローマ帝国崩壊以降、文明や文化・技術が断絶してその水準が著しく衰退し、更にキリスト教の宗派が分裂したり、疫病の流行やヴァイキング・ゲルマン人・イスラム教徒との抗争が重なってヨーロッパは長期に渡って極度の混乱に陥った。
中世ヨーロッパの社会では特にキリスト教教会が支配的な存在となった。その力は国王・皇帝などの世俗権力まで及び、教皇と世俗君主との間で熾烈な政治闘争が行われた。
教会は科学や民衆の信仰の方面にも絶大な影響を及ぼし、「異端」と見なした学説や宗派には禁書目録を作成して統制を行ったり、時には異端審問にかけて処刑し、十字軍を率いて殺戮を行ったりもした。
実は暗黒じゃなかった中世
…もっとも、中世ヨーロッパの後進的でネガティブなイメージはルネサンス期や近世の学者達が中世を野蛮で迷信的で無知な物として批判した所が大きく、彼らに「暗黒時代」と否定的に見なされた中世では事実として「カロリング・ルネサンス」「12世紀ルネサンス」など、度々文芸運動が発生していた。また、ゴシック建築、トルバドゥールやミンネジンガーといった吟遊詩人、『アーサー王伝説』『ローランの歌』を始めとする騎士道文学、装飾写本などの特徴的な文化が各地で栄えていた。
教会側もただ弾圧していただけな訳ではなく、信仰の場である以外にも文化・技術の保護者、政治的にはヨーロッパの調停者としての役割を果たしていたのもまた事実である。
19世紀前半には中世を再評価する動きが生まれ、特にヴィクトリア朝時代のイギリスでは中世の騎士を題材にしたウォルター・スコットの時代小説『アイヴァンホー』(1820年)の大ヒットを筆頭に、ゴシック・リバイバル建築や馬上槍試合の再現イベントなどの中世の文化が大流行した事もあった。
中世ヨーロッパは農業技術の革新や土地の開墾が進展し、食糧が安定して人口が急増した時代であった。余剰生産物は商売や取引に使われるようになり、商業が発達していった。地中海と北海・バルト海でそれぞれ貿易圏が作られ、各地の都市で形成されたギルドが発言力が高めて自治を行うようになった。アラブ圏など東方との交易により先進的な技術がもたらされ、発達した航海技術は後のコロンブスの新大陸発見に端を発する大航海時代に繋がり、火器の登場はそれまでの戦争の形態を一変させ、歩兵中心の集団戦へ移行していき、対する騎士階級は没落していく事となった。
15世紀にグーテンベルクが大成した活版印刷技術はヨーロッパ社会を根底から変革させる事となった。大量の書物を短時間で作成できるようになった為書物が民衆へ普及し、特にマルティン・ルターらによる宗教改革における聖書の普及に大いに寄与する事となった。
こうした社会の変容により従来の封建制は崩壊していった。十字軍の相次ぐ失敗により教皇の権威は退いていく一方で世俗君主は着々と力を蓄えていき、諸侯を取り込んで次第に強大化していった。
宗教改革によってプロテスタントとカトリックとの対立が深まる中で発生した三十年戦争の講和条約として締結された「ウェストファリア条約」にて国家間の対等が確認され、教皇と皇帝という中世のパワーバランスを保っていた存在が没落し、代わって世俗君主が強力な権力を持つ主権国家が台頭していった。
これを以て中世は終焉を迎え、ヨーロッパは近代(近世)へと移行していく事となる。
何かと否定的な見方をされがちな中世だが、上記のように中世は近代で大いに発展を遂げる事になる技術や概念が次々と生み出された時代でもあり、現在のヨーロッパ文明は中世を経て形成されていったといってもよい。中世の業績が理解されるようになった現在では従来の暗黒史観は否定されつつある。
まさしく、中世なくして現代はなかったのである。
日本において
近代日本でも中世暗黒史観が輸入され一時流行した。というのも当時の儒教・国学イデオロギーからすると、中世は武士が天皇から不当に権力を奪った時代とされたためである。特に足利尊氏なんかは悪魔みたいな扱いを受けていた。現在はこのような見方はされなくなっている。