公正世界仮説
こうせいせかいかせつ
「人はなぜ不遇な目にあった被害者を責めるのか?」という問いに対する回答。
この考えを抱いている人は「世間は努力が報われ、正義は勝ち、悪事には天罰が下るような公正な世界である」ことを前提に物事を考える。
前近代の刑事司法が発達していなかった時代には、「悪事は天罰が下るから自粛しよう」「罪人は死後地獄で裁かれ、善人は死後天国に行ける」というモラルが普遍的にあり、神話や寓話など様々な媒体を通してこうした道徳を持つことは概ね肯定的にとらえられてきた。これは人間の身にはどうにもならない運命を受け入れさせ、また身分制社会や連帯責任といった理不尽がまかり通る社会で虐げられる人々の境遇を合理化する役割を果たしてきたが、身分制社会が解体された近代以降も自己啓発書などを通じて似た考え方は繰り返し流行っている。
身も蓋もない言い方をすれば世界は公正でも何でもないし、個人の努力と行いだけではどうにもならない。1945年8月6日の広島市に起こったことを考えれば良い。当時広島にいた人たちは善人も悪人も、幼児も老人も無差別に無惨な死を遂げ、生き残った人も多かれ少なかれ悲惨な目に遭った。生き延びた人も別に行いが良いから生き残ったわけでもなく単なる偶然であり、被爆者を同じ被爆者が差別し虐げる生々しい有様が『はだしのゲン』に描かれている。
だが、公正世界仮説を持つ人々が、戦災や自然災害の被災者や犯罪被害者・貧者・病人といった、辛い目に遭っている人間を見ると、「善行はいつか報われ、悪行は必ず罰を受ける」という世界観と「わけもなく辛い目に遭っている人がいる」という現実の辻褄を無理矢理合わせようとする。そのため、「被害者にはきっと問題が何かあったのだ」という先入観が生じてしまう。
結果として、被害に遭っている者が真実に反するいわれのないバッシングに晒され、悪党の犯罪行為よりも、むしろ善人の些細な落ち度の方が責められる原因ともなってしまう。
この公正世界信念に対する疑義は古くは古代中国でも唱えられた。司馬遷は「殷への忠義を貫くため周の粟を食すことすら拒絶し、山で採れる蕨や薇を食べながら隠遁した伯夷と淑斉の清らかさは明らかであるのに、餓死した。対して悪逆の限りを尽くした大盗賊の盗跖が一体どのような善行を働いたから、天寿を全うできたというのか。天道などというものは存在するのか」と問いかけている。
pixivなどでも「努力してるのに評価されないのはおかしい」、Twitterにおいては「あの人は私より下手なのに万バズだ」等の言説がしばしば見られる。
これらも「努力すれば・絵が上手ければ、評価されるはず」という一種の公正世界仮説である。実際には流行ジャンルであるかどうかなど様々な要因で評価されるにもかかわらず、である。
評価されるには、突き抜けて上手くなるか、評価されるための工夫が必要である。