概要
人はなぜ不運な目にあった被害者を責めるのか?という問いに対する回答。
公正世界仮説をもつ人々は、「世間は努力が報われ、正義は勝ち、悪事には天罰が下るような公正な世界である」ことを前提に物事を考えるようになる。
そうすると、「いつか成功できるのだから努力をしよう」「悪事は天罰が下るから自粛しよう」「たとえ罪に問えなかったとしても罪人は死後地獄で裁かれ、善人は死後天国に行ける」という、建設的な発想で生きていく原動力になる。この考え自体は古今東西問わず存在しており、神話や寓話など様々な媒体を通してこうした考えを持つことは概ね肯定的にとらえられてきた。
しかし、この考えの最大の欠点は世界は公正でも何でもないし、個人の努力と行いだけではどうにもならないことがあるという事実を無視していることである。歴史上万人に恨まれながらも自らの罪を認めず、畳の上で死んでいった人物もいれば、何の罪もなく虐殺の対象とされた人物の例は枚挙にいとまがない。しかし、公正世界仮説を持つ人々が、犯罪被害者・貧者・あるいは犯した犯罪や過ち以上の被害を被っている人間を見ると、彼らは「公正な世界である」という認知バイアスと「辛い目に遭っている人がいる」の思考の辻褄を合わせようとする。
そのため、「被害者が辛い目に遭っているのも公正な結果なのだから、被害者にはきっと辛い目に遭うに値する問題があったのだ」という先入観が生じてしまうことがある。
結果として、被害に遭っている者が真実に反するいわれのないバッシングに晒される原因ともなってしまう。
この公正仮説世界に対する疑義は古くは古代中国でも唱えられた。司馬遷は「殷への忠義を貫くため周の粟を食すことすら拒絶し、山で採れる蕨や薇を食べながら隠遁した伯夷と淑斉の清らかさは明らかであるのに、餓死した。対して悪逆の限りを尽くした大盗賊の盗跖が一体どのような善行を働いたから、天寿を全うできたというのか。天道などというものは存在するのか」と問いかけている。
悪党の犯罪行為よりも、むしろ善人の些細な落ち度の方が責められることはよくある風潮である。
特に近時は、ネット上での犯罪被害者叩きや、ちょっとした言動がきっかけでバッシングに遭い自殺をした著名人の件、政府の勧告を無視して仕事のために現地に向かい拘束・殺害されたジャーナリストやその家族へのバッシングが相次ぎ問題視されたことで、公正世界仮説の弱者バッシングに伴う負の側面が強調される傾向にある。
関連タグ
公正:残念ながら世の中には様々な不平等がまかり通っているのであり、独占禁止法等の様々な法律で不平等を是正してようやく「公正」な社会がうまれるのである。