未成年の主張(僕のヒーローアカデミア)
みせいねんのしゅちょう
漫画『僕のヒーローアカデミア』第324話(コミックス33巻)及び、アニメ第137話のサブタイトルにして、同話におけるヒロイン・麗日お茶子の主張。
荒廃した社会での孤独な戦いの後、再び雄英高校へと帰還した緑谷出久。そこで彼が見たものは、緑谷出久の避難所への受け入れを拒絶し、抗議活動を行う避難民達の姿だった。
避難所に集まった人々の中にはヒーロー達の説明に納得し、雄英高校を出久の拠点とすることに理解を示してくれる者もいた。
しかしいつ避難所がヴィランに襲われるのかも分からない環境の中で、全ての人々が彼らの説得に応じてくれた訳ではなかった。
社会秩序の崩壊によって当たり前の生活を奪われ、誰もが不安と恐怖で押し潰されそうになっていた。
そしてそんな人々のやり場のない憤りは、死柄木弔のターゲットである特別な少年・緑谷出久に対して向けられた。
その光景を目の当たりにした出久は、疲れも癒えない身体のまま、再び雄英高校に背を向ける。
お茶子はそんな出久の手をそっと後ろから握った。
振り向いた彼女の瞳には、強い決意の光が灯っていた。
人々のフラストレーションが最高潮に達しようとしたとき、お茶子は跳んだ。
メガホンを片手に校舎の屋上へと飛び上がり、人々の批難の眼差しを一身に浴びながら、彼女は叫んだ。
小さな体を精一杯に震わせて、麗日お茶子は人々に訴えた。
緑谷出久が誰よりも困難な道を歩もうとしていることを。彼らだけではなく、自分達も不安であることを。自分達もまた皆と同じ隣人であることを。この苦難を乗り越えるためには、皆の力が必要であることを。
いつの間にか広場の狂騒は収まっていた。
誰もが彼女の声に耳を傾けていた。
そして人々が曇りのない瞳で後ろを振り返ったとき、そこで彼らが見たものは、ボロボロの服を身に着け、疲れ果て傷ついた一人の少年の姿だった。
緑谷出久は「特別な人間」ではなく、ましてや得体の知れない怪物などでもない。
「特別な力」を託されただけの、ただの普通の高校生だった。
「ここを!!!!!」
「彼の!!!!!」
「ヒーローアカデミアでいさせて下さい!!!!!」
お茶子の言葉に震え、いつも通りに大粒の涙を流しながら、ついに出久はその場に崩れ落ちる。
そこへ、かつて彼に救けられた子供と大きな女性が駆け寄り、デクを助け起こす。
降りしきる雨の中、人々は3人が涙を流して身を寄せ合う光景を眺めながら、憐れむように、恥じ入るように、茫然と立ち尽くしていた。
麗日お茶子の成長とヒーロー観
雄英高校に入学した当初、お茶子は「お金を稼いで両親に楽をさせてあげたい」という現実的な想いからプロヒーローを目指していた。
しかしヒーローを目指す仲間達との経験を経て、徐々にその想いに変化が生じていき、やがて彼女は「ヒーローを応援する人たちの喜ぶ顔が好きだった」という自分自身の夢の原点を自覚するようになる。
ヒーローインターンにおける死穢八斎會との戦いの中で、オーバーホールに命懸けで立ち向かう出久の姿を目の当たりにしたとき、彼女の内面に「人を救けたい」という感情が芽生えた。しかしそれは出久の想いとは異なり、むしろ人を救けるために必死に戦う出久のような人間に対して向けられた感情であったと言える。
『ヒーローが辛い時 誰がヒーローを守ってあげられるだろう』
これは単行本22巻212話、B組とのクラス対抗戦の中で、彼女の口から語られた疑問である。
この問いへの答えとして、「ヒーローが辛いときに守ってあげる」存在とは、彼女自身がそう在りたいと願う姿であるのと同時に、プロヒーローではない者を含めた社会に生きる全ての人々を指し示していることが明らかとなった。
一連のシーンを通して、彼女は避難民達に出久の想いを訴え、それと同時に「困難な道を歩む人の力になりたい」という彼女自身の想いを訴えている。
その想いは「いつも疲れた顔をしていた両親の力になりたい」という幼少期の彼女の想いの延長線上にあるものであり、彼女が多くの人々との出会いを経て人間的に成長したことを表現するものとして描かれている。
社会の分断
根津校長はA組が出久救出作戦のために雄英高校を発つ前、そしてお茶子の演説の最中に、これまでヒーロー社会が向き合い続けてきたひとつの社会問題について言及している。
『不理解 不寛容 何れも"あと一歩" 近寄る事の出来なかった人々の歩み』
『私は思う。この困難な一歩を道と成した時 そこにオールマイトをも超える最高のヒーローが誕生するのだと』
彼自身はこうした問題を「ヒーロー」や「敵(ヴィラン)」、「一般市民」といった立場に限ったものではなく、ヒーロー社会における様々な分野に通じる問題として語っている。
一見すると抽象的で理解が難しい根津校長のこの発言は、お茶子の説得の後、人々の前に立った一人の避難民の言葉によって、具体的な意味が示されている。
『俺あよう、こうなるまで気付かんかったよ。俺は"客"で ヒーローたちは舞台の上の"演者"だった』
この発言を通して彼は、心のどこかでヒーローと敵の戦いを自分とは違う遠い世界の出来事のように感じていて、それが全てではないにせよ、プロヒーローの活躍を「娯楽」のように考えていたことを打ち明かしている。
実際にこうした風潮は物語の初期から様々な場面に散りばめられており、例として単行本11巻91話において、オールマイトとオール・フォー・ワンの戦いをテレビやラジオを通して観戦し、彼らが命を懸けて戦う姿を楽観的に批判する人々の声があったこと等が挙げられる。
かつてオールマイトは、目に見えない不安と恐怖に怯える人々に希望と安心を与え、混迷の最中にあった社会の在り方を一変させた。
オールマイトが社会に与えた影響は、犯罪発生率の低下という統計上の事実以上に、人々の意識を変えるという点で大きな意義を持っていたと言える。
しかし長く続いた平和の中で、いつしか人々の中ではヒーロー達が不安や恐怖と立ち向かい続けているという実感が薄れていき、ヒーローと一般市民の生きる世界の間には、舞台の「上」と「下」、あるいは「救う者」と「救われる者」という互いに交わることの無い分断が生じていた。
彼は自身の発言を通して、目の前の苦難を乗り越えるためには、人々がヒーロー達と同じ視点に立ち、失敗を重ねても尚戦い続けるヒーローの想いを理解し、受け入れなければならないことを訴えている。
それはこのとき初めて人々がヒーローの立場へ、ヒーローが一般市民の立場へと互いに歩み寄り始めたことを意味しており、このことは後に描かれる死柄木弔、オール・フォー・ワンとの最後の戦いに向けての重要な布石となっている。
これを語るのは、ヒロアカ第1話で出久と並んでヴィランVSシンリンカムイの戦いを見ていた、頭に3つの十字突起を持つあの男性だった。
社会の分断と「敵(ヴィラン)」
一連のシーンの中では、「ヒーロー」と「一般市民」に加え、更にもうひとつの「分断」が示唆されている。
お茶子は人々への説得の最中、涙を浮かべたトガヒミコの顔を一瞬だけ脳裏に思い浮かべている。
それは説得の最中に彼女が覚えた一抹の違和感の正体であり、「みんなの笑顔」を想ったとき、彼女自身がトガヒミコを無意識に「みんな」の中から排除していたことを自覚したことを表している。
作中登場する様々な敵達の過去を紐解くと、彼らが犯罪者になるまでには、自身の"個性"と社会との不調和や自己実現の挫折があり、周囲の不理解や不寛容が、道を踏み外す大きな要因となっていることが明らかとなる。
しかしそれとは裏腹に、社会に生きる大多数の人々からは「敵(ヴィラン)」もまた自分達とは違う世界に生きる存在、あるいは生まれながらの怪物のように見なされ、敵となった人々の想いや境遇からは目を逸らされてきた。
それはプロヒーローにとっても同様であり、多くのプロヒーローは社会を脅かす敵を打ち倒すことで人々からの支持を得て、経済的、社会的な恩恵を受けてきたという側面がある。
ヒーロー社会には「ヒーローと一般市民」の間だけではなく、「ヒーローとヴィラン」、「ヴィランと一般市民」の間にも深い分断が存在している。
彼らの間にまたがる不理解と不寛容こそが、今もなおヴィランが生まれ続ける原因の正体であり、全ての人々の笑顔を願う彼女達が真に立ち向かうべき問題であるということが暗に示されている。
人々の団結
全面戦争後の超人社会では、正規の戦闘訓練を受けていない一般市民の戦闘が各地に被害を拡大させた原因の一端を担っており、以前と変わらず、一般市民が直接ヴィランに立ち向かうことは現実的な解決策ではないと言わざるを得ない。
そうした中、演説の中でお茶子は「泥に塗れるのはヒーローだけでいい」ということを避難民達に伝えており、その上で「ヒーローが泥を払う暇」を与えてもらえるよう人々に対して協力を願っている。
全面戦争においては様々な要因によってヒーロー達がバッシングを受け、人々からの支持を失ったことでプロヒーローが次々と引退するという悪循環が発生していた。
これは多くのプロヒーローが純粋な善意ではなく金銭や名声を目的として活動していたためでもあるが、別の角度から見ると、プロヒーローという存在そのものが、サイドキックやスポンサー、サポートアイテムの製作者のような直接的な協力者達だけではなく、実際には目には見えない多くの人々の支持と協力によって成り立っていたという事実が浮き彫りになったとも言うことができる。
彼女が避難民達に求めたのは、ただ「緑谷出久が休む場所を与えること」であり、命を懸けて敵と戦うことだけが、困難に立ち向かうための戦いではないことを人々に訴えかけている。
また、一連のシーンの中では、麗日お茶子がヒーロー科の学生であることも特筆すべき点である。
お茶子自身がそれを意図していたかどうかにかかわらず、ヒーローの卵としてのモラトリアムに置かれた彼女は、子供と大人、ヒーローと一般市民との間にいる存在であり、それ故にヒーローと避難民達の双方の立場に立って、互いの分断を繋ぐ架け橋となることができたのだと言える。
物語の転換点
お茶子の説得は避難所の人々の意識を変えただけではなく、より大きな視点で見たときには、これまで一方通行だったヒーローと人々との関わり方を変化させるストーリー上のターニングポイントとなっている。
一連の出来事の顛末は、ホークスのこのような発言によって締めくくられている。
『オールマイトが緑谷くんに繋いだ』
『緑谷くんをA組が繋いだ』
『ウラビティが人々(みんな)と緑谷くんを繋いだ』
『そして人々(みんな)が もしも全員が少しだけ "みんな"の事を思えたなら』
『きっとそこは ヒーローが暇を持て余す 笑っちまうくらい明るい未来です』
この発言によって、作品を通してのストーリーの流れが端的に説明されているのと同時に、平和の象徴・オールマイトから紡がれてきた平和への願いが、ヒーロー社会の中でどのように受け継がれてきたのかが表されている。
一段目は物語の一話から最終章に至るまでの出来事、二番目はデクvsA組、三段目が未成年の主張のシーン、そして四段目はA組と避難民達が手を取り合う目の前の光景を表している。最後の五段目は、彼が思い描いた作中の未来の光景であり、お茶子の行動によって、この社会が平和な未来に向けての大きな一歩を踏み出したということが表現されている。
全面戦争終結後の緑谷出久の戦いから、雄英高校への帰還に至るまでの一連のエピソードは、公式に「黒いヒーロー編」と呼ばれている。
その中でもこの「未成年の主張」は原作やアニメのファンの間で特に評価が高い一話であり、公式の製作陣からも僕のヒーローアカデミアという作品全体を通しての屈指の名場面として度々取り上げられている。
一連のシーンの中には漫画、アニメという媒体において用いられる様々な表現技法やレトリックが組み込まれており、これまでの物語の集大成であるのと同時に、結末に向けてのストーリーの方向性を決定的なものとしたという点で、大きな意義を持つ一話であったと言える。
実は「未成年の主張」には明確なモチーフが存在しており、タイトルに関しては1990年代から2000年代にかけて放送されていたバラエティ番組『学校へ行こう!』の人気コーナーのひとつ「未成年の主張」に由来していると言われている。
↑イメージはだいたいこんな感じ。
コーナーの内容は、番組のメインキャストであるV6のメンバーが様々な学校を訪れ、そこに通う生徒達が学校の屋上から思い思いの本音を叫ぶといったもの。
学生ならではの面白さや感動的な名シーンも多く、番組内でも特に人気の高いコーナーの一つだった。
また「未成年の主張」のコーナータイトルそのものも、NHKが1954年からスタートさせた成人の日のラジオ番組企画(かつ弁論・演説の全国大会)である「青年の主張」(ラジオ第1放送番組『青年の主張』→NHK青年の主張全国コンクール。のちのNHK青春メッセージ。2004年に終了)が大元のネタ。
この大元のネタは「青年(成年・成人)の仲間入りをした人たちに、それを記念して将来への抱負や社会の行くべき方向性を語ってもらおう」という意図の企画であるが、それが転じた「未成年の主張」の企画意図自体は「大人(青年)にならないと言いたい事(主張)を言ってはいけないなんておかしいじゃないか。そうじゃなくて子ども(未成年)だって言いたいことはいっぱいある。それを主張させてもいいだろう」というものであった。
また、それに加えてバラエティ企画としての「未成年の主張」のシチュエーションには更に元ネタとなる作品が存在しており、「学校の屋上で学生が叫ぶ」という内容は、1995年にテレビドラマ「未成年」において、主人公が屋上から自身の主張を叫ぶシーンにインスパイアされている。
ドラマ「未成年」の最終話には、主人公「ヒロ」が友人である「デク」の無実を学校の屋上から人々に訴えかけるシーンがあり、その姿には出久の無実を訴えるお茶子の姿に重なるものがある。
このタイトルは過去の作品へのパロディであるのと同時に、作中の世界に生きるお茶子や雄英生徒達が抱く大人達の社会への主張という意味も込められていると言えるだろう。