真弓広有
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まゆみひろあり
南北朝の武士の一人。
1305年生まれ(1369年から没時の年齢(65)を引いて出した計算)。通称は次郎左衛門。
父は隠岐広能(ひろよし)、兄に広家がいたと伝わる。そのため隠岐次郎左衛門広有とも
前半生は詳しくわかっていない。南北争乱のさいは南朝方について
九州を中心に転戦。その後、守っていた場所(筑後と肥後を結ぶ関所)の
近くの山里に隠棲し生涯を閉じた。享年65歳。
後述の伝説の時点で出家していたようで法名は弘寂。
ここまでなら一武将の生涯であるが・・・
広有怪鳥を討つこと
彼の名が知られるようになった話のことで太平記に書かれている。
鎌倉幕府が滅び、建武の新政を行おうと意気揚々に後醍醐天皇がなっていた時
日本に疫病(伝染する病)が襲い掛かり多くの人々が亡くなった。
すると、夜な夜な紫宸殿の上空に不気味な雲と
「いつまで」「いつまで」という鳴き声が聞こえてくる。
これを凶とした朝廷は退治を試みるも誰にするかが思いつかない。
そこで、かつて鵺を退治した源頼政にあやかり弓で退治しようと決められ
隠岐広有に白羽の矢が立った。
早速、広有は鏑矢を携えて退治に向かい、怪鳥が姿を現したとき鏑矢を放った。
鏑矢は見事に刺さり怪鳥は地に落ちていった。
広有たちが確認しに行くと人面に似た顔、曲がった嘴に鋭い爪と長いヘビのような体
翼が約5メートもあったという。
また、いつまでとないたのは「政治はいつまで続くのか、死体をいつまで放っておくのか」
という嘲笑や怨念と言われ人々を恐怖に貶めていた。
これが「以津真天(いつまで、いつまでん)」とされる。
この功績により五位の位と真弓の姓、因幡国(鳥取東部)の荘園を賜ったという。
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