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概要

広島県生まれ、福岡県育ち。小学4年生時から野球を始め、沖学園高、三菱重工長崎を経て1997年ドラフト2位逆指名で福岡ダイエーホークスに入団。


ルーキーイヤーの1998年からいきなり51試合に登板。2年目の1999年はセットアッパーとして大車輪の活躍を見せる。工藤公康からは「死神」と呼ばれるほど先発投手から勝利投手の権利を奪ってしまうことも多々あったが、「篠原が投げると負けない」という不敗神話を作り上げてチームの優勝、日本一に貢献。松坂大輔との最多勝争いには敗れたものの、中継ぎだけで14勝を挙げて最高勝率のタイトルを獲得した。

2000年もセットアッパーながら9勝を挙げて活躍したが、後半には打ち込まれるようになる。オフに先発転向に挑戦するが、2001年は防御率6.26と打ち込まれ、2002年も防御率は0点台ながら19試合登板に終わってしまう。この時のフォーム改造が原因でに故障を抱えてしまう。

2003年はオールスター出場を果たし、10セーブを挙げてストッパーとして日本一に貢献。

しかし2004年2005年はほとんど一軍での登板がなかった。2006年に復活するものの三瀬幸司馬原孝浩らの台頭で出番が減少。

2006年の50試合登板から2007年37試合、2008年21試合と登板数が減っていき、2009年は左ひじの故障で一軍登板なし。オフに戦力外通告を受け、横浜ベイスターズへ移籍した。


横浜移籍1年目の2010年は20試合登板で5年ぶりの勝利をマーク。しかし防御率が11.70を記録するなどさんざんに打ち込まれた。

それでも2011年は37試合連続無失点をマークするなど左のセットアッパーとして活躍。34歳にして自己最多67試合に登板した。オフにFA権を行使して残留。

2012年は50試合に登板。主に左のワンポイントとして起用されるも防御率4.91と消化不良のシーズンになった。

2013年をもって現役引退。翌年から同球団の投手コーチを務める。




人物

・若いころの投球スタイルはキレのあるストレートを中心とした豪快な投球が持ち味だった。

後にスライダー主体の変化球で打ち取る技巧派へ転向。変化球は他にカットボール、チェンジアップなどを操る。

・ホークスの福岡移転後初となる日本一を達成した1999年は、藤井将雄吉田修司ロドニー・ペドラザとともに強力リリーフ陣を形成。先発が弱かったチームを安定して支え、藤井がリーグトップの26ホールド、篠原は前述のとおり中継ぎで14勝を挙げ最高勝率を記録している。

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