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経歴編集

2004年のドラフト会議で、九州共立大から自由獲得枠で当時の福岡ダイエーホークスへ入団。


1年目は新人王有力候補であり、初先発初勝利を記録したがそれ以降は不調に終わる。

2年目の2005年から抑えに転向し22セーブを記録すると、2007年には38セーブでセーブ王に輝く。

2008年は右肩炎症を起こして長期離脱するものの、11セーブを記録。同年10月6日に日本人最速となる通算100セーブを達成。

2009年は、新入団のブライアン・ファルケンボーグ攝津正とともに勝利の方程式を組み、それぞれの頭文字から「SBM」と呼ばれる(S=攝津正、B=ブライアン・ファルケンボーグ、M=馬原孝浩)。この年は29セーブを記録。


2010年はSBMに甲藤啓介も加えた、「SBM48」が誕生。(48番は甲藤の背番号)シーズン終盤の西武3連戦では中島裕之との12球の勝負の末見事三振に打ち取る。チームは勢いに乗じて逆転優勝し、この年は32セーブを記録。自身2度目となる30セーブを達成。

2011年は開幕直前に母親が他界。開幕戦は1軍には帯同しなかった。その後合流したが調子が上がらず、登板した試合全てで失点したり、同点弾を浴びて好投した岩嵜翔のプロ入り初白星が消えてしまったりしたため、4月に二軍落ち。その後調整を重ね、5月に復帰するとシーズン初セーブを記録。ファルケンボーグも抑えを務めたため、記録したのは19セーブとなったが、優勝が決まった10月1日の西武戦で見事0点に抑えて自身初の胴上げ投手となる。ちなみにこの日の先発は岩嵜だった。


2012年1月寺原隼人のFA移籍による人的補償でオリックス・バファローズが馬原の獲得を発表した。

移籍1年目は故障のため振るわなかったが、2014年佐藤達也平野佳寿と共に勝利の方程式を形成。自己最多の55試合に登板し、チームの優勝争いの原動力になった。

2015年は一転して不振に陥り、活躍できなかった。オフに球団からの大幅減俸を飲まず自由契約になるが、自身の力に限界を感じたため現役を引退した。通算セーブ数は182。


引退後は、野球選手への体のケアを学ぶべく柔道整復師と鍼灸師の国家資格を取得、2022年シーズンからは独立リーグ・九州アジアリーグ火の国サラマンダーズの監督として指揮をとる。


人物編集

最高球速は158km/h。落差のあるフォークとカットボールを武器とする。愛称は「マハラジャ」など。

よく一度ランナーを出してから締める、四凡をする事が多く、たまに逆転負けを喫する「馬原劇場」を展開する劇場型投手であった。


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