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老舍

ろうしゃ

老舍とは、中華人民共和国の小説家、劇作家、北京出身。本名は舒慶春(じょけいしゅん)、字は舍予。「人民芸術家」と称された。文化大革命で犠牲となった代表的な著名人でもある。代表作に小説『駱駝祥子』『四世同堂』、戯曲『龍鬚溝』『茶館』。
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概要編集

貧しい子供時代編集

1899年、老舍は北京満州八旗の家で5人兄弟の末子として生まれる。1900年、義和団の乱紫禁城の近衛兵だった父が死亡し、母が他家の雑用、洗濯女などをして貧しい少年時代をすごす。


慈善家の支援を受けて私塾に入学したのをきっかけに、新制小学校、北京師範学校を卒業。1918年、19歳で小学校長赴任。その後北京北郊勧学員などを務める。


1922年、洗礼を受け、キリスト教に入信。


英国での講演編集

1924年、英語学習のため聴講していた燕京大学のイギリス人教授の紹介で渡英し、ロンドン大学東方学院で漢語講師を務める。ホームシックをきっかけに創作活動を始め、1926年、処女長編小説『張さんの哲学』(老张的哲学)、1927年『趙子日』、1929年『馬さん父子』を立て続けに執筆し中国の雑誌「小説月報」に掲載される。


1930年に帰国し、斉魯大学・山東大学で教鞭をとりつつ、作家活動を展開する。帰国後、老舍は1931年に胡絜青と結婚し、同年、長編児童小説『小坡の誕生日』を発表し、さらに『猫城記』『離婚』『牛天賜伝』『趕集』『桜海集』『蛤藻集』を発表する。


戦時帰国編集

1936年、作家活動に専心するため山東大学を辞職、代表作『駱駝祥子』を発表。1937年の盧溝橋事件以後、抗日運動に身を投じ、北京から武漢へ単身赴き、中華全国文芸界団結抗敵協会の理事となった。翌年、武漢で編集者・作家の趙清閣とねんごろになったが1943年に夫人が3人の子女を連れて重慶に来たため、表向きは関係を終わらせざるを得なくなった。1944年、抗日戦争を題材にした大河小説『四世同堂』を執筆開始。


戦後の創作編集

戦後、1946年に、アメリカ国務省の招きを受けて渡米し、『四世同堂』第三部を脱稿。趙清閣とシンガポールへ駆け落ちを提案したが、実行には至らず、周恩来の呼びかけに応じて1949年12月帰国。北京市文学芸術界連合会などで指導的立場に立った。


1950年、『龍鬚溝』を発表。翌年、北京人民芸術劇院(旧)で焦菊隠の演出により上演される。1957年、『茶館』を発表。翌年、北京人民芸術劇院で焦菊隠・夏淳の演出により上演される。


文化大革命の迫害編集

1966年、文化大革命が起こり、同年8月23日、老舍は紅衛兵によって「走資派」、「牛鬼蛇神」、「反動文人」として集団リンチを受け、翌日行方不明となる。


8月25日、北京徳勝門外の太平湖 のほとりで老舍の遺体が発見された。侮辱に耐えかね抗議自殺をしたと推定されている。


名誉回復編集

1978年初、老舍は平反を果たし、「人民芸術家」の称号を回復した。


北京市の八宝山革命公墓、左下隅の濃い緑色の花崗岩の老舍の浮き彫りの銅像、いくつかのさざ波しぶきのブロンズ像の周りに刻まれた波紋、アラバスターの短い壁の2つの側面、背景として浅い浮き彫りに作られた菊花の一面、老舍の抗日戦争前に書かれた服従の誓いの一文が刻まれている:「自分の義務を果たすために、文壇の駒は、ここで眠る。」


関連タグ編集

中国人

満州族

小説家

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