出自
宇多源氏・佐々木氏一族の長岡経秀が肥前国へ移住し、経秀の子経直が鍋島を名乗ったのが始まりとされるが定かではない。また経直の娘と少弐教頼の間に生まれた子・経房が3代当主となったことから少弐氏の末裔ともされる。
経房の子・清久の時に龍造寺氏の家臣となり、清久の子・清房の時には主君である家兼の娘が正室に、亡くなった後は家兼の跡を継いだ隆信の生母・慶誾尼が嫁いだ。
清房の子・直茂は主君の義弟という立場とその才覚から隆信に重用され、1584(天正12)年の冲田畷の戦いで隆信以下龍造寺家の主要武将が戦死した後を取りまとめた。その後は隆信の子・政家を補佐し、豊臣秀吉から龍造寺領の統治を命じられ実質的な支配権を得た。そして関ヶ原の戦い後に徳川家康より肥前佐賀35万7千石を安堵された後の1607(慶長12)年、政家とその子・高房が相次いで亡くなったことにより、直茂の子・勝茂が佐賀藩を相続するよう幕府より命じられ、名実ともに鍋島氏による支配が確立された。
幕末の藩主・直正は海外文化を取り入れ明治維新後に議定となった。華族令施行後に侯爵に叙爵された。
分家
子爵家
- 小城鍋島家
勝茂の庶長子・元茂を祖とする家。1642(寛永19)年までに数回の加増で小城(佐賀県小城市)7万3千石を分地され立藩した。
- 鹿島鍋島家
勝茂の九男・直朝を祖とする家。1642年に鹿島(佐賀県鹿島市2万石を分地され立藩した。
- 餅ノ木鍋島家
直茂の次男・忠茂を祖とする家。
忠茂は元々2代将軍・徳川秀忠に近習として仕えて5千石を与えられたが、1609(慶長14)年に鹿島2万石を分地された。しかし1642年、忠茂の子・正茂の時に勝茂より直朝を養子入れするよう圧力を受け、拒絶の上で2万石を返還し宗家と義絶した。
以降は5千石の交代寄合として幕末まで続いた。
- 蓮池鍋島家
勝茂の五男・直澄を祖とする家。1642年に蓮池(佐賀県蓮池町)5万2千石を分地され立藩した。
男爵家
- 貞次郎系鍋島家
11代藩主・直大の次男・貞次郎を祖とする家。1919(大正8)年に男爵に叙爵された。
- 幹系鍋島家
忠茂の三男・茂貞の子孫・藤蔭の婿養子となった幹を祖とする家。
幹は明治維新後に出仕し、栃木・青森・広島県知事を歴任した後に貴族院議員となり、1895(明治28)年にそれらの功を賞されて男爵に叙爵された。
- 白石鍋島家
勝茂の八男・直弘を祖とする家。生後すぐに家臣の成富茂安の養子となり、1646(正保3)年に鍋島姓を下賜された。
知行高は2万石だったが、実高が8,100石だったため維新後は士族となり、1897(明治30)年に男爵に叙爵された。