歴史
第二次世界大戦では機械化部隊による機動戦がそれまで以上に活発になり、前線部隊の動きは極めて流動的なものとなった。従来の軽機関銃や汎用機関銃はその重量や運用人員の多さから前線の動きに対して素早い追従ができず、結果として慢性的な火力不足を招いた。味方の機関銃の弾が届かないところでは短機関銃の制圧力が頼みにされたが、拳銃弾を使用するために有効射程は短いものであり、敵との戦闘において小銃との連携は不可欠だった。だが機動戦で薄く散開した兵力では短機関銃と小銃の配備比率を守ることは常に困難を伴った。
開戦以前からドイツ陸軍兵器局ではこうした困難を解決するべく、小銃・短機関銃・軽機関銃の役割を兼ねる新型歩兵用自動小銃の開発が行われていたが、連合軍側がソ連軍のSVTや、アメリカ軍のM1ガーランドといった半自動小銃を大量配備し、小銃の自動化に成功すると、前線の兵士達から同様な主力級の自動小銃を求める声が高まり、G43やFG42の配備を行った。G43は優れた半自動小銃だったが、大戦を通じて400万丁以上生産されたM1に対しまだまだ数が不足しており、かつ接近戦における制圧力は短機関銃に劣っていた。FG42はフルサイズのライフル弾(7.92×57Mauser弾)を使用したためフルオート射撃時の反動が強く、また降下猟兵用の装備として数千丁が量産されただけであり、ともに前線の火力需要を満たしきれるものではなかった。
ドイツ陸軍兵器局は1938年から7.92×57mm Mauser弾と9×19mm Parabellum弾の中間に当る7.92×33mm Kurzpatrone弾を使う機関騎兵銃(MKb)の開発を行っておりワルサー社とハーネル社の試作コンペの結果、ハーネル社設計の42(H)が採用された。
1942年、MKb42は東部戦線とイタリア戦線でテストされ、結果は良好であった。
しかしヒトラー総統がこれに待ったをかけた。当時のドイツ軍は主力小銃Kar98kを中心に、7.92×57mm Mauser弾を装備しており、同口径の7.92×33mm Kurzpatrone弾を前線で混同してしまう恐れ、新たな兵器への更新による訓練課程の見直しや、工場の配分、生産工程、材料などの問題点を指摘し、7.92×57mm Mauser弾を用いる半自動小銃の設計を命じた。
しかしシュペーア軍需相や国防軍の上層部、開発陣は密かに短機関銃(MP)を装ったMP43として開発を進め、ヒトラーから半自動小銃の開発状況を訊かれると、グストロフ財団のMKb43(G)を見せて誤魔化した。
1943年、MP43が国内予備軍に配備されたが、開発中止を命じた銃なのがヒトラーにばれてしまった。再び開発中止が命令されたが、国内予備軍で高評価だったため計画の継続を認めることになった。10月に東部戦線での作戦で本格的に使用され、前線の兵士はSMGよりもMP43を好んで使った事がわかり、ヒトラーも量産を認めた。
1944年、MP43はMP44、次いでGewehr44と改称され大量生産が始まった。
ヒトラーはプロパガンダのため、この種の銃をStG(シュトゥルムゲヴェーア=突撃銃)と類別し、Gewehr44はStG44と改称させたとも言われる。
ドイツの敗戦までにStG44の一族は、ハーネル社、マウザー社など9社で425,977挺の製造に止まり、ほとんどKar98kを更新できず、戦局を覆すほどの成果はなかった。
戦後もAK-47が普及するまでの間、東欧、中東などで使用された。
コンセプト
歩兵小銃としての基本スペックに短機関銃並の軽便さと撃ちやすさを融合させるというコンセプトから開発が行われた。
StG44の優れた点として、
- セミオート、フルオートの切替ができること。セミオートで遠距離への射撃や攻撃時の移動しながらの牽制射撃を行い、フルオートで接近戦、塹壕への突入、移動時の援護射撃、市街地の遭遇戦と、状況や戦術に応じて使い分けることができ、柔軟な運用が可能となった。
- 小口径・軽装薬の7.92×33Kurz弾採用により、小銃弾より反動が少なく、拳銃弾より威力があり、兵士の携行弾薬数も増加。
- ピストルグリップつきのレシーバーの採用で短機関銃のような操作性を持ち合わせていた。
などの点が挙げられる。
戦後のアサルトライフルの礎として
StG44のコンセプトは戦後のアサルトライフル、FN CAMP、H&K_G3等の開発に開発へ大きな影響を与えた。しかし、西側諸国の多くは既存の武器を使用し続け、更には7.62x51mm NATO弾の採用により、アサルトライフルが主流となるのが遅れた。
外見が似通っておりよくコピー品と言われるAK47に関しては、実際には短小弾薬の採用の根拠となった程度であろう。
【ソ連】
大戦中からStG44に注目していたミハイル・カラシニコフはアメリカのM1カービンの閉鎖・撃発機構を元にアサルトライフルAK47を開発した。見かけが似ていること以外に共通点は少ない。コンセプトもカラシニコフの師であるフェドロフの物である。
【ベルギー】
FN社(現・FNH社)の銃器設計技師、デュードネ・サイーブ(デュードンヌ・セヴ)が弱装弾薬を使用するアサルトライフルFN CAMPを試作。しかし、アメリカが自国の7.62x51mm弾をNATO標準弾とするよう要求したため、それに合わせてFALとなる。
【スペイン】
戦後、スペインのCETME(セトメ)へ就職したルートビッヒ・フォルグリムラーが、マウザー社時代に開発していたStG45(M)(秘匿名称ゲレート06)を元に、セトメモデロシリーズを開発。
【ドイツ】
西ドイツ政府がスペインのセトメモデロA2の開発・製造権を買い上げ、H&K社とCETMEが共同開発したセトメモデロBに更に改良を加えたHK31が1959年に西ドイツ軍に採用され、G3となった。
【スイス】
SIG社は、NATO弾より強力なスイス独自の弾薬7.5mm GP11(7.5×55mm)を使用する自動小銃Stgw57を経て、AK-47の動作機構を元にアサルトライフルSG550を開発した。
【アメリカ】
1956年、フェアチャイルド社アーマライト部門のユージン・ストーナーによってNATO弾を使用するAR-10が開発された。ジョンソンM1941軽機関銃の閉鎖・撃発機構を元に、プラスチックやグラスファイバー、軽合金を多用した軽量な銃に仕上がっているが、アメリカ軍のトライアルでM14に敗れ採用されなかった。
現代
ドイツのSport-Systeme Dittrich社がレプリカをBD44の名称で販売している。モダナイズド化さたモデルもあり、レールシステムなどが装備されている。
7.92mmx33弾はコレクター向けに現在も製造されており、レプリカだけでなくオリジナルモデルも使用することが出来る。また、.22LR弾仕様のコピーモデルGSG-StG44がドイツのGSG社で製造されている。
2012年、シリア民兵が保管していた5,000丁のStG44が発見された。
第二次世界大戦中、チェコスロバキアではドイツ軍向けの兵器が大量に生産され、戦後に余剰となった戦車はシリアに輸出されて中東戦争において使用された。
同じ頃に輸出され、AK47の普及にともない予備役として保管されていたのではないかと考えられている。
性能諸元
全長 | 940mm |
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銃身長 | 419mm |
重量 | 5,220g |
口径 | 7.92mm |
弾薬 | 7.92×33Kurz弾 |
装弾数 | 30発 |
関連イラスト
関連タグ
ギラ・ズール(標準装備のビームマシンガンの意匠が、ほぼこの銃そのまま)