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岡田武史

おかだたけし

日本のサッカー選手、指導者、教育者(城西国際大学特任教授、学校法人今治明徳学園学園長)。元日本代表選手・監督。

日本サッカー選手、指導者。1956年生まれ。


大阪市出身。選手としては1980年より1990年まで古河電気工業サッカー部(現ジェフユナイテッド千葉)でプレーした。またサッカー日本代表として国際Aマッチ24試合に出場。


小学校時代は、大阪球場を本拠としていた南海ホークス(現在の福岡ソフトバンクホークスの前身)が運営する「南海ホークス子供の会」に入会して野球に明け暮れ、ホークス応援のために大阪球場へと通う野球少年だった。

しかし中学校の時、1968年メキシコシティーオリンピックでの代表チームの活躍で脚光を浴びたサッカーに熱中、大阪府立天王寺高等学校の2年時に大阪選抜、次いで3年時にユース代表に抜擢され(高校生で選出された者は岡田を含め3名のみ)クウェートで開催されたアジアユース選手権に出場した。

1浪後、早稲田大学政治経済学部に入学。当初はサッカー同好会の「稲穂キッカーズ」に在籍していたがそれを知った日本サッカー協会(JFA)の理事たちにに呼び出され怒られて翌日サッカー部(ア式蹴球部)に入部する。

早稲田大学時代にはユニバーシアード日本代表に選ばれた。


大学卒業後は、マスコミ業界への就職を志望していたが叶わず、1980年に古河電工に入社。社員として働く傍ら、古河電気工業サッカー部(ジェフユナイテッド千葉の前身)に入団。大学時代と変わらず頭脳派のディフェンダーとして日本サッカーリーグ(JSL)で活躍。1985年に9年ぶり2度目のリーグ優勝、1986年に日本のチームとして初となるアジアクラブ選手権優勝に貢献した。


引退後、同チームコーチを経て1995年に日本代表チームコーチに就任。1997年10月、加茂周代表監督の更迭に伴い代理監督(のち正式監督)就任。日本代表初のワールドカップ進出を果たした。1998年フランス大会本大会では3連敗でグループリーグ敗退し監督辞任。


その後Jリーグ1部のコンサドーレ札幌監督(1999年~2001年)、横浜F・マリノス監督(2003年~2006年8月)を務めた。


2007年12月、当時のイビチャ・オシム代表監督が緊急入院したことに伴い急遽後継の代表監督に就任。南アフリカ大会予選は通過したが大会前の強化試合等で成果が上がらず、本大会出場決定時に掲げた「ベスト4」どころか前回指揮時と同じ3戦全敗を予想する声が多くを占めるなかで本大会でも引き続き指揮をとることとなった。


しかし迎えた本大会では格上とみられていたカメルーンデンマークを破り(カメルーン戦は日本代表初の海外本大会での勝利でもあった)、強豪オランダにも善戦し2勝1敗でトーナメント進出を果たした。トーナメントでは1回戦のパラグアイ戦でPK負けしトーナメント初勝利はならなかったが、戦前の評価を大きく覆す健闘をみせた。


南アフリカ大会終了をもって代表監督を退任、日本サッカー協会(JFA)理事を務めた。


2014年11月、四国サッカーリーグ・FC今治の運営会社に出資し、同チームのオーナーに就任。(その後JFLに昇格、2018年にJ3リーグ昇格を確定。 )

2018年に公認S級コーチライセンスを登録抹消、指導者としては引退している。


現在はFC今治運営会社「株式会社今治.夢スポーツ」代表取締役、日本エンタープライズの社外取締役、城西国際大学特任教授、日本サッカー協会参与(名誉役員)、ジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ理事を務めている。


更に2020年10月、「学校法人今治明徳学園」がFC今治(株式会社今治.夢スポーツ)と連携協定を締結。代表取締役社長の「矢野将文」と代表取締役会長の「岡田武史」が学園経営に参加。(2023年に学園長に就任。2024年4月、今治明徳高等学校本校を「FC今治高等学校明徳校」、矢田分校を「FC今治高等学校里山校」と改称している。)



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