生没年 1824(文政7)年~1883(明治16)年
官位 正二位 権大納言→従一位
尾張徳川家連枝(分家)の尾張高須藩主・松平義建の次男。異母弟に一橋徳川家当主・徳川茂栄、陸奥会津藩主・松平容保、伊勢桑名藩主・松平定敬などがいる。また母の規姫は水戸徳川家当主・徳川治紀の娘であることから、その弟である徳川斉昭は叔父、息子で15代将軍となる慶喜は従兄弟に当たる。
経歴
1849(嘉永2)年に宗家である尾張藩主・徳川慶臧が亡くなったことにより、尾張藩主となる。就任後は藩政改革に力を尽くし、後の将軍継承問題では一橋派の一人として日米修好通商条約では調印に反対したため安政の大獄で隠居謹慎となる(尾張家の家督は茂徳が相続した)。
1862(文久2)年に赦免され翌3年、茂徳に変わって子の義宜が藩主となり補佐役となる。
1864(元治元)年の長州征伐では征長総督となるが長州藩の恭順により寛大な処置を行った。1867(慶応3)年の大政奉還に行われた王政復古で新政府の議定となる。翌4年1月、藩内の佐幕派を粛清・一掃する(青松葉事件)。閏4月、議定を免ぜられ中央政界から身を引く。
1871(明治3)年に名古屋藩知事。1875(明治8)年に義宜が亡くなり、再度尾張徳川家当主となる。1878(明治11)年から旧臣授産のため北海道八雲村の開拓を行わせた。