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安土桃山時代から江戸時代前期の武将・大名。長州藩の支藩である長門長府藩初代藩主。

概要編集

プロフィール編集

  • 生没年:1579年(天正7年)~1650年(慶安3年)
  • 極官:正三位参議
  • 幼名:穂井田宮松丸→毛利宮松丸

生涯編集

毛利元就の四男である穂井田元清の次男。

天正12年(1584年)、兄の宮鶴丸が12歳で病没したため穂井田家の嫡男となる。

翌天正13年(1585年)、宮松丸は子供のいなかった毛利本家当主の従兄・毛利輝元の養嗣子となり、元服時に豊臣秀吉の偏諱を受け毛利秀元と名乗った。

しかし、輝元が1595年(文禄4年)に側室の二の丸殿との間に実子の松寿丸(後の毛利秀就)を儲けると家督相続を固辞し、1599年(慶長4年)に長門一国と周防国吉敷郡などで18万石を与えられ独立大名となった。


文禄の役では14歳にして初陣。伯父の小早川隆景、従兄の吉川広家らとともに活躍。続く慶長の役でも奮戦した。

関ヶ原の戦いでは秀元自身には戦意があったものの、東軍に内通していた広家に押し留められて戦うことはなかった。このとき出陣しないことを責められて苦し紛れに「弁当を食べさせている」と言ったことから「宰相殿の空弁当」という言葉が生まれた。大坂城に帰還後は立花宗茂らとともに徹底抗戦を訴えたが、受け入れられなかった。


戦後、改易されたため改めて本藩から長門国豊浦郡と厚狭郡を与えられ櫛崎城主となり長府藩(現山口県下関市)6万石の領主として西の守りを任された。大坂の陣の前後において対立していた広家や福原広俊らが引退した後は、益田元祥や清水景治(宗治の次男)と共に秀就時代の初期の執政を勤め治績を上げた。しかし、寛永7年(1630年)頃から秀就に反抗的になり翌寛永8年(1631年)に後見役を辞任。その後はますます反抗的になり遂には秀就の弟の毛利就隆を誘い長州藩からの独立を画策したが幕府の仲裁を受けた。その後は幕府の仲裁もあり秀就と和解、自身は江戸に住み徳川家光の御伽衆となった。

1650年(慶安3年)没、享年72歳。


長府藩はその後幕末まで続き、明治維新後は子爵に叙された。また秀元の長男・光広の孫・吉元は長州藩第5代、次男・元知の孫・重就は第7代藩主となった。



逸話編集

  • 最上義光と同じく大力であり荒木村重のように碁盤の上に人を立たせてそれを両手で持ち上げた話が残っている。
  • 伯父の隆景からは器量に優れ、祖父の元就に似ていると言われた。
  • 江戸城に出仕した際弁当にの切り身を入れていた所、そのような「高価で珍しい魚」を羨ましがった諸大名が秀元に群がり、ほとんどを奪われてしまったという逸話がある。ただし秀就にも全く同じ逸話がある。


創作では編集

戦国大戦編集


信長の野望編集

それまでは中途半端に低めの能力値だったが大志ではそれなりに底上げされた。それでも父・穂井田元清、叔父・小早川秀包、従弟・吉川元長&広家と比べると厳しい。


関連タグ編集

戦国武将 毛利家

毛利輝元 毛利秀就 小早川隆景 吉川広家

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