※一部猟奇的な表現に注意。また、個人差があるがトラウマを発症したり再発しかねないので、この先の閲覧は、怖いもの見たさがあっても自己判断と自己責任でお願いしたい。
概要
「準備は良いかな牡蠣くん達よ。さてと…いただくとするか。」
「いただく!?」
ヤングオイスター(ズ)とは、「不思議の国のアリス」にて、アリスを諫めるために紹介された小話の一つである「セイウチと大工 (Walrus and Carpenter)」に登場する牡蠣の子供(たち)である。「セイウチと大工」は教訓めいた展開になっており、親や年上の忠告を聞かなかったり油断したばかりに破滅することになる牡蠣たちが描かれている。
「不思議の国のアリス」は、アニメ・実写・サイレントムービーの短編・長編問わず、膨大な数の映像作品が存在する。仕方ないことだが、この「セイウチと大工」は表現に限界があるのか、古い時代の実写ではお察しに思える出来もある(表現上の規制も関係しているので、一概に批評できない)。
ここで紹介するのは、ディズニー制作版「ふしぎの国のアリス」と1933年に作られた実写映画に挟まれたアニメシーンである。1999年の実写版にも一応触れておく。
名称
「Young Oysters」や「Curious Oysters」などと表現される。日本語では、「ベイビーオイスターズ」や「オイスター坊や」、「リトルオイスター」などとも。「ヤングオイスター」という呼称は、国内では主にディズニー版の「不思議の国のアリス」で見られた子牡蠣達の名前に使われ紹介された。この呼称が日本で一気に認知されたのは、ツムツムにて彼らが登場したからである。とくにツムツム界隈では「ヤンオイ」という略称もある。
特徴
原作などでは、リアルな牡蠣として描かれるが、いずれにしろ「足がないが足がある」状態で描かれ、原作の描写に準拠するなら、出かける際には「正装とシューズ」を持ち「顔を洗う」または「顔にローションを塗る」など教育が行き届いている。1999年の実写版では、牡蠣の貝殻に、目を模したフジツボが2つ付いている。また、年上の牡蠣が誘ってきたセイウチに反撃していた。
(これはかなり可愛く印象付けてあるイラスト)
ディズニー版では、レイマンを彷彿とさせる姿をしており、キャディーのハットまたは赤ちゃん用の首巻きにも見える殻と、顔(というか全身)の下はピンクのパジャマとシューズが見れるが、実際の体は見えない。デザイン稿のひとつはこちら。商品によっては、上半身が裸だが確認できる。殻はベッドになっており、毛布を羽織っている。殻は、往年のディズニーの女性の後ろ髪に似ていなくもない。
子牡蠣ながら、それなりに肥えて肉厚&牡蠣汁たっぷりな部類に入るらしい。なお、けっこう老け顔で、ほうれい線や魚のような口、目皺がほとんど常にあるほか、表情によっては顔に皺が出る(一部媒体ではおぞましいほど皺だらけである)。輪郭はひょうたん型のように下側の方が幅がある。
ディズニー版の性別は、♀っぽいが厳密には不明(ツムツムでも、どちらでも取れる仕様になっている)。声に関しては後述。
ちなみに母親の鼻が真珠になっている。原作では、肥えていたのと普段動かない水棲性なためか、浜を1マイル歩いたら疲れていたが、ディズニー版ではかなり軽快に踊り跳ねながら歩いている。なお、シーン毎にだんだんと警戒心や不安、あるとすれば罪悪感が薄れていく様子が見られる。
- 実は、このデザインにもあるフラグが隠されている(下記参照)。
なお、牡蠣の総数は不明だが、原作では生き延びた年長の牡蠣達もいた一方、1933年度版(親牡蠣+12匹)とディズニー版(親牡蠣+24匹以上?)では、親牡蠣のみを残して他はみな冒険に…ではなく、自分たちに目を向けて接近してきた捕食者たちの欲求を充たすために、セイウチの空っぽの胃袋への死出の旅に出向くこととなる。
顛末
(セイウチは、ディズニー版では牙がないため,肥えたトドやオットセイにも見えるが、口髭がセイウチの牙に見える形状である。)
ある年の3月、夜のはずなのに太陽の気まぐれで明るく、月が業を煮やしていたあるおかしな日、殺伐とした浜辺を、(単に砂が多く目に入るという理由だけで)悲嘆に暮れ泣いていた大工とセイウチが歩いていました。
しかし幸運なことに、セイウチと大工は牡蠣共を発見しました。更に幸運なことに、この牡蠣たちの大半または一匹を除いてほぼ全員は、本当は未熟で引っ込み思案、臆病なくせに怖いもの知らず、何より好奇心にあふれていました。親(または年上の兄弟/姉妹)の忠告と、自分たちの種族が獲物としてよく狙われていることも忘れるほどに・・・。
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セイウチと大工に運悪く発見された後、好奇心を唆され、とある笛吹き男の報復に使われた子供たちや、ピノキオでロバにされて売られて行った子供たちを彷彿とさせる恰好で丘に誘い出された。そして1マイルほど行った浜辺で悪夢が展開される。ディズニー版では、大工が6秒でレストラン(という名の墓場)を瓦礫から作り出し、牡蠣達を収容する。そして太陽と月は別にして、誰も見ていない小屋(一部俗称「牡蠣小屋」)の屋内で、粛々と弱肉強食の掟に則った行為が繰り広げられた。その光景は、もはや「事件」ではなくて、世に在り来たりな「事象」でしかない。
なお、ディズニー版ではセイウチが大工をも騙して彼に前菜を作らせている間に牡蠣たちを独り占めしてしまい、怒った大工がセイウチを追い回すというオチだが、原作では大工も牡蠣たちを屠っており、あくまで大工の取り分が少なかったが食えるだけ食っていたので、この話を聞かされたアリスたちが「セイウチと大工のどちらが悪か」という話に花が咲いた。
- 方々で言われている事だが、アリスは「なぜ牡蠣達は喰われなければならなかったのか?」という疑問を抱く事なく、牡蠣達の死ではなくて「どちらがより好かない奴か」に興味を示すというジレンマが発生している所にもミソがある。つまり、アリスの内包する危うさがここにも表れている。
ちなみに、牡蠣は「R」のつく月は食べ頃または食中毒の危険性が低いとされており、母牡蠣が注意していたのはこのためである。また、ファンによる考察を拝借すれば「リスクのR」または「後悔(Regret) のR」や「(危ない)理由のR」や「思い出せのR」とも取れる。
母牡蠣が、セイウチが子牡蠣らを誘う際にウィンクしたのは、一瞬でセイウチの魂胆を見抜いたか、以前に同じ手を見てきた事を示唆させる。その際に、誰が巻き込まれたか、誰か喰われたのか、同じセイウチだったのか、など考えられる。別のセイウチだったなら、歌って誘い出す方法がある程度認知されているのかもしれない。同じセイウチなら、よっぽど閃きとウィットに富んでいるのか、または手順の良さも加えて、かなりヤりなれていると思しい。一方の大工はKYで抜けている部分がある一方、超人的な大工とキッチンの腕前を持つので、サヴァン症候群の気がある。
原作では、セイウチが話し掛けていたのは4匹だけだが、とくに数の上限を設定していなかったところ、見事に大漁となったのである。つまり、どんな言い訳も通用しない、牡蠣共の自業自得である。言い訳をしようとこの世でもあの世でも地獄逝きなのだが(喰われた牡蠣共が泣き言や恨み節を、セイウチ達に言っても無意味無影響で聴こえすらしないのだが、情けなく喚いているのを見ると、送られた世界は間違いなく地獄である)。
牡蠣共は全員喰い殺されたのだが、セイウチがより肥えた牡蠣共を、大工がそれ以外を、というようにセイウチと大工の力関係が示唆されている(単に、身体の大きさが違うセイウチと大工が、それぞれがなるべく満足できるように配慮したのかもしれない)。
それまでに劇中で出てきた食べ物を飲み物などが自ら食べられたり飲まれたりするためにメッセージを置くなどしていたのに対し、こちらの未熟で愚かな牡蛎共は、被捕食という、己らが望んだり期待した展開どころか真逆の死、しかも選択の余地も余裕も与えられなかった必然の運命によって命ごと消費されて消滅していったのも印象的。
「被食」とは、牡蛎共日頃から最も怖れてきた事であり、それを回避するために一生を費やすようなものである。そして今回、自分たちにとって、その「一番恐ろしくておぞましくて嫌で起きてほしくなくて避けたい事」が、想定外なタイミングと形でやってきて、結局は自業自得で自ら死と地獄に飛び込む羽目になった。親などの忠告を裏切り騙された時点で、牡蛎共の存在意義は、「食品」であるという以外に一切消え失せた(元々そうなる運命とも言えるが)。
なお、死した牡蠣、特に2番目に喰われたかあの世に旅立った牡蠣が嘆き悲しみなどを唄う例があり、これは1999年度版でも少し触れられたが、食事にアクセントとして牡蠣を付けるのが好きなおいぼれセイウチが、牡蠣共の命を「子供がジャムを舐めるよりも強欲に」消費して、その涙が全て嘘だと死んだ自分達は見抜いている、いつか腹の上に足跡をつけてやるぞ、という恨み節を付けている。なお、「ハウス・オブ・マウス」の第51話「House of Genius」ではこのシーンを再現している(ただし登場時間は2秒足らずで、相手はなぜかドナルドだが)。
教訓
子供だけでなく、保護者や大人にも通じるメッセージが込められている。
- 「知らない人には付いていくな」
- 「世界が優しさと思いやりだけで出来ていると思うな」
- 「親切にするのが常識の人もいればその逆も本当にいる」
- 「過度な好奇心は身を滅ぼす」
- 「怖いもの見たさは、時に本当に恐い状況を誘発する事がある」
- 「自分に非がなくても、自分が普通通りに注意していても、自分の仲間や他者の落ち度で捲き込まれる事は珍しくない」
- 「逆に、自分の楽観で他人や家族を絶望に陥れてしまう事もある」
- 「危機管理は普通や平均的では足りない」
- 「本当の危機は、自分の想像を越える形とタイミングでやって来る」
- 「最も恐れている事は、逃げ場を奪ってやってくることがある」
- 「周囲から、自分がどのように見なされているのかを常々忘れてはいけない」
- 「憶えているだけでもダメなので、安全で気を抜ける時こそ危機管理と対策をするのが大事である」
- 「何となく大丈夫という楽観も危険である」
- 「一時の欲求よりも大事なことがある事をしっかりと身に染みさせろ」
- 「(親や年長者が真っ当なら)彼らの言うことを聞け、また、そう思われる大人であれ」
- 「教育は、してもし足りない筈なのに、いざという時には全然してこなかった事に気づく」
- 「気づいた時にはもう遅い」
- 「いくら後悔しても、自ら招いた運命からは逃れられない」
- 「破滅はひょんなことから一瞬で訪れる」
- 「九死に一生などという甘い奇跡を期待しても、起こらないものは起こらない」
- 「自分の身を守るのは自分」
- 「どんな理由があろうと、残酷に判断すれば全て自業自得」
- 「(女子や幼い男児に限らず)世の中を甘く見てると喰われる」
事が起きてからいくら努めて学んでも遅い、自分がそういう立場になったら悔やんでも悔やみきれない事になるので気を付けて欲しい、という作者の想いや願いが込められているのかもしれない。
なお、当のアリス本人にはあまり響かなかったようである(これも、一般的な人の姿であるという警鐘なのだが)。
その他
- ディズニー版は単エピソードで放映された事もある。また、他のディズニー作品でもあるが、言語ごとにBGMのトーンが異なる場合がある。
- 有名な話なので、銅像などが建てられた場所も一ヶ所ではない。
- ビールや時計などの広告や、牡蠣料理店の名前、ネックレスの題材などに使われる事もある。
- 数多の音楽集団や映画などでもネタに使われる。
- アリスという名前の著者が料理本を出す際にも、ヤングオイスターズを思わせる表紙にしたりするなどもある。
- どういうわけだか、アリスとノースリーブの牡蛎共が誰かを糾弾するような絵が出された事があるが、もちろんそんな場面は全く存在しなく、発生する可能性も全くないので、牡蛎共が喰われ苦しみ恐怖や狂乱などに飲まれ果てて命ごと消費されていった運命は変わらない。こちらの絵の牡蛎共は、元々のアリスとの対比が不明なので何とも言えないが、多少は映画版より大きく、原作で喰われずに済んだ年上の牡蛎達…とも考えられなくもないが…。もちろん、この後にちゃんと問題なく全員喰われた可能性もなくはない。顔は、眉毛が太くていつもの通りの醜悪さである。
- この小話は、古今東西関係なく多くの読者や視聴者に強い衝撃を与えてきた。また、牡蠣の末路を想像し考察する人も少なくなかった。未熟で愚かだった牡蠣たちかもしれないが、自然界の掟とはいえ、一度の誤判断で生涯を終えるのは酷な気がしなくもない。感受性が豊かな人には安定したトラウマ必須案件であり、これが原因で牡蠣が食べられなくなった人もいる(まあ、牡蠣毒に当たる可能性がほぼなくなるので悪いこととは言い切れないが)。
- 子供の時から日常的に牡蠣などを食べていた人は平気だったとか。
- 単なる犯罪への教訓のほか、冷戦、人類性善説への警鐘、資本主義と格差、政治家や支配者層の詭弁とポピュリズムに踊らされる民衆、宗教問題、落ちぶれた貴族層と労働者などを皮肉ったものともとれる。セイウチの手袋が破れてるのもポイント。ディズニー版の最後の追いかけっこは革命にも取れる。
- 自ら身内の忠告を無視してセイウチ達に追いて逝った「罪」に対する捕食という「罰」や「報い」、つまり罪人はいつか必ず自滅する、「自業自得」とその「結果」、「地獄」、「断罪」とも捉える事ができる。1933年度版で、親牡蠣が先に眠りに落ちたのが「試されている」、親牡蠣のいびきからでる泡が「誘惑」や「罠」、生き残るチャンスを無下にして泡に乗った瞬間が「運命の岐路が決した奈落への入り口」、牡蠣達の逃走を阻んだ大波が「運命」、捕食が「天罰」、セイウチの胃が「奈落」であり胃液が「地獄の業火」と置ける。
- つまり、愚衆政治とその結果もたらされる国民の自業自得と読める。「罰」とは、自身だけでなき子孫や他者に与える苦しみも含む。
- 「Curious Oysters」つまり「好奇心旺盛な牡蠣たち」という名称も、「好奇心に殺された牡蠣たち」というパンチの利いた意味を含んでいる。「好奇心猫を殺す」と似たようなニュアンスである。
- あろうことか関連商品ではセイウチとオイスターズがセットになっていたりなど、かなり辛みの効いたものとなっている。
- だが、最も不気味な商品の一つは、ドアノブの口に牡蠣共が収まっているマシュマロケースである。
- ヤングオイスターズをネタにした画像などでは、「可愛らしくて擬人化された悲劇 or 運命」を皮肉るものもある。
- 意外だが、ディズニー版の大工はけっこう人気があり、一番好きという人もいる。
- アリスインナイトメアシリーズでも、牡蠣達が踊り子になっていてより人型に近い、セイウチと大工のキャラクターが凄まじいなど、かなりおどろおどろしい演出になっている。しかも、劇として呼び出した魚の観客も、「死」であるセイウチが同様に喰らい尽くす。牡蛎達は、潰されたりしたメンバーもいるが、被食以外の死因があるのかは不明。「絶対の平等」である死を文字通り被食生物全員にもたらしたが、その直後にセイウチと大工も死ぬ。「平等」に。
- ちなみに、上記の通りツムツムで知名度を一気に上げたが、ここでは無念を晴らすかのごとく強キャラまたはウザキャラとなっている。その強さは美女と野獣の野獣よりも野獣と形容されることがあるほど。ただし、後に下方修正されたらしい。
- ディズニー版で、死出の旅に向かう牡蠣共を見送る魚たちは、ピノキオが魔鯨モンストロに向かう際に見ている魚たちと極めてそっくりらしい。
- ハウス・オブ・マウスでもモブで出たことがある(「The Mouse and the Oyster」という文学作品があるが、全く関係ない)。
- バイナルメーション版もある。
- テレビアニメ版では、セイウチと大工は疑いをかけられるが本当の意味でのヴィランではなく、牡蠣たちも誰も死なない。
- 「ソニック」シリーズの敵である Wily Walrus はこのセイウチがモデルともされている。
- ビートルズの「アイ・アム・ザ・ウォルラス」は、この詩から発想を得ている。また、ティム・バートンの絵本「オイスター・ボーイの憂鬱な死」のタイトルと内容は、この詩を彷彿とさせる。
- マイリトルディズニー版もある。
- 「キン肉マンⅡ世」において、心優しいセイウチンを非情な戦士にするためにネプチューンマンが荒療治というか精神改造のためにこの話を利用して聞かせた。
- One Pieceにて、四皇が一人、ビッグ・マムことシャーロット・リンリンが、自らの息子を殺すほどの「発作」に襲われ、キングコングのごとく暴れ回っていた際に、それを鎮静させるために喰われたクロカンブッシュも、もしかするとヤングオイスターズがモデルなのかもしれない(同編のモデルは不思議の国のアリス)。
- インターネットで散見される、「ディズニー史上最も陰惨な死/子供には刺激が強すぎる展開/驚くほど不適切な叙情詩と音楽/場違いで不適切すぎる音楽」などのアンケートでは上位に食い込んでいる。それどころか、「ディズニー史上、最も子供の精神衛生上よろしくない8つの死」では見事に一位に輝いた。また、セイウチと大工は「ディズニー史上最も質の悪く狂ったヴィラン」にノミネートされたこともあり、TVシリーズなどで姿を見せることも(例え集的な場面でも、当然牡蛎共はいない)。最も気味の悪い曲や場面とされる場合も。
- 確認が取れていないが、ディレクターズカット版では、セイウチが牡蠣らを食べる直前に散々に性的暴力を奮うという噂があるらしい…。
- この手の話は、スペイン or サンスクリット・パンチャタントラの三匹の小魚など他にもある。
- 海外では、TV放送時にこのシーンをカットしたり、親御が後で録画テープから削除したりなどもあるとか。
- 最近では、セイウチ共への天誅としてジュディ・ホップスとZPDの面々に、セイウチと大工を未成年者誘拐罪、幼児虐待罪、殺人罪(幼児虐殺罪)などの罪状で逮捕させる創作も見られる。
- ジョニー・デップ出演のアリスシリーズなのか別件のショートフィルムかは不明だが、2017年に公開される最新作で、ついにこのシーンが描かれる可能性が出てきた。ただし、2016年公開の新作で、「セイウチと大工」を省いたことを残念がる声が挙がってきているとか。
- 東京ディズニーシーには、ほとんど牡蛎共のグッズはないらしい。
なお、犠牲になった牡蠣達を可哀想に思う声もあれば、見た者のSっ気を開花させてしまうこともある。これには、上記の通り、牡蠣らのデザインにも一つの理由がある。
- かわいいという意見が大多数の一方、実は「不気味」、「皆同じ姿で怖い」、「微グロ」、「気持ち悪い」、「いじめたくなる」、「潰したくなる」、「親の忠告を無駄にして親より先に逝くとは何たる糞牡蛎だ」、「見ていてイライラする」、「喰われるのが待ち遠しい」、という声も少なくない。それどころか、「(牡蠣達が)あの様になるからこの話が好き」という意見が目立つ。特に、奇形っぽい輪郭と皺っぽい顔、光彩がなく、まるで穴が開いたようで口と質感がそっくりな目が不気味とされる。人によっては、話自体ではなくて牡蠣共そのものがトラウマという人もいる。
- 実は、この「目」も、感情移入ができる母牡蠣の目とは異なっていて、あえて生理的に不気味なデザインにしてあり、感情移入がしにくい様に、喰われるのが楽しみに感じる様に、というディズニー側の配慮も推測できる。比較的似た姿のピグレットやポニョの妹達には感じない何かを抱かせる独特のデザインである。なお、コンマ単位では地獄の餓鬼や老人、浮世絵みたいな表情をしている感がある。
- また、ヤングオイスターズが一瞬だけ普通に近い目をしていたが、次に殻を開いた際にはオイスターズの目に戻っていたので、今となっては、あの瞬間が生死を分ける最期のチャンスであり、それを示したサインだったのかもしれない(生き残った母牡蠣の目は常時普通の目であり、それに近い目をしていた最期の時だった)。
- 日本語版の牡蠣共の声は「おばさん臭い」、英語版は中の人が男性で「よくわからない」と言われる事があるが、他の言語版よりも「不気味」で感情移入がしにくい声調である(狙った演出である)。
- 持って生まれた顔そのものが死相という、つまり生きる事を許されず、死ぬために生まれてきた(デザインされた)、食べ物としてそれ以上もそれ以下の価値もない虚無に溢れた存在である。
- 皮肉なことに、彼らの顔が、もっとも年齢に見合った、皺から解放されたのは断末魔の叫びを挙げているその時である。彼らオイスターズには、何かのカルマがあったのだろうか。場面が進む、つまり死の時が近づくにつれてイキイキ(逝き逝き)としているのも合致する。
動画
(ディズニー版のセイウチの動きは、実演されたものを模写して作られた)
外部リンク(微グロ注意)
関連タグ
海外アニメにおけるみんなのトラウマ一覧 吐き気を催す邪悪(アニメ・マンガ系)
以下、そういうものがお好みの人向け(閲覧注意)
かなり猟奇的な考察が紹介されています。気分が悪くなったりトラウマを発症する可能性があるので、閲覧するのをもう一度お考えください。
上記の通り、ディズニーのアニメとは思えないような壮絶な最期を迎えたオイスターズである。が、当たり前だが、子牡蠣達の最期の光景や絶命の瞬間を描いた作品やリアルに描写した文章などはかなり少ない。あるとしても、著者や作者ごとに描写が異なる。
一方、誰もがお断り願いたい様な死に目に曝された牡蠣たちが、実際にどんな壮絶な運命を辿ったのかを、その悲劇性や凄惨性、怖いもの見たさの延長からか想像してしまう人は決して少なくなかったはずだ。ここでは、そんなタブーにスポットライトを当てたいと思う。しつこいほどに、考えられる限りの臨場感たっぷりに。
原作はあえてドライなのだが、創作では4コマ風、殻の残骸の心情、または牡蠣の霊魂の心情を描いた文はあり、母親の心情を謳った作品もあるが、原作または後の創作では、セイウチについていく彼らを見ても母親自体はあんまり気に留めていない感もある(自然界の厳しさを表現している感)。彼らに降りかかった惨劇を予感していたのかは不明だが。いずれにしろ、牡蠣の描写が非常にバラエティー豊かで、比喩表現から擬人化、ダミー人形化やグロまで豊富な品揃え。
創作によっては、セイウチと大工が貝毒に当たって牡蠣達と同じ世界に逝くバージョンもあるが、「R」が付いた月の出来事なので、これは起こり得ないだろう。「アリス殺し」というラノベでは、牡蠣毒、ではなく牡蠣を喉に詰まらせた窒息で、向こうの世界のグリフィンやこっちの世界の人物が亡くなっていた。
牡蠣共が昇天するシーンや、殻の模様を泣き顔に見せたりなどはあるが、直接の描写は極めて少ない(上記のキン肉マンでのエピソードでは、牡蠣達の死骸、しかも殻ではなく身を描いてはいたが)。
準備段階
原作準拠
さあ、「食事」を始めようとするか。
でも、まさか僕たちじゃないでしょう!?(少し青ざめる)
ここまで親切にしておいて、そのあとにこれじゃあんまりだ(それはあまりにもひどい事です)っ!!
素晴らしい夜だ。
良~い眺め(光景)じゃないか…。
原作では、誘惑された個体らの他、それらに誘われた者々、空気を読んで追従した者々もおり、みんな纏めて道連れになる。
1マイルほど歩かされてから惨劇が展開したが、この1マイルというのは、つまりもはや引き返せないし海にも逃げられない距離であり、陸地しかも砂の上なので素早く動くことも出来ないし疲れ果てているという最悪に不利な条件である。これも、セイウチたちの計画通りなのだが。
セイウチ達は牡蠣共を座らせた。牡蠣共は何かの話を期待しているが、目にしたのは目の前で堂々とパン&調味料を準備し、「万事全てが揃った」「食事」について話す捕食者達。
- しかも、そこは未熟で愚かな牡蠣共のこと、喰われると知りながらまだ状況(世界)を嘗めていた。地獄逝きの運命が確定しているにも関わらず、この場に及んで捕食者達が牡蠣共を「いじめる」のは礼儀じゃないと言い始めたのだ。もっとも、相手の口から言葉が出てくるというより、すぐに自分たち全員がその口の中とその先にに不可逆的に入れられて永劫に出てこなくなるのだが。
目的のためとは言え、「友になった」(と牡蠣達は思っていた)相手を何の躊躇もなく貪り喰える精神力を恐れる声も。
また、嘆願する牡蠣共を無視しながら、その悲鳴を聞いて次に捕食者達が発した言葉は「もう一枚パンをくれ。」であり、黙々と目の前の仕事に集中していた。愚かな被食者共の肉と魂を、一匹ずつ地獄に送りながら。
捕食はあくまでも自然な行為である。
一見、牡蠣共に対する暴虐にも見えるが、太陽が月の邪魔をしているがそれが自然界で成り立つように、親御の愛情を裏切った牡蠣共に天罰が下るのも、また自然界のありきたりな事象の1つであり至極当然の必至の運命である。
1999年度版では、演出上の都合とはいえ、牡蠣共が自ら陸に上がってセイウチ達に挨拶をしたため、独特の雰囲気である。
1933年度版
1933年版では、牡蠣殻が事前と事後で少し様相が違う。
年長者の牡蠣がいない。また、「Oyster Bed」がそのまんまベッドであった。
親または保護者の牡蠣が忠告したにも関わらず、その牡蠣が寝るのを待っていて、そのいびきがなった気泡に乗って行ったのだから自業自得の度合いが上がる。まあ、原作にしろディズニー版にしろ、自業自得には変わらないが。
こちらでは、ディズニー版では省かれた、牡蠣たちによるセイウチへの助命の嘆願が含まれている。このとき、一度はセイウチから逃げた牡蠣たちが大波に翻弄されて浜に戻り、皆が手をつないで回し車状になり、一匹がそれを漕いで逃げるという高等戦術を見せるも岩に当たって自滅、尻餅をついたところをセイウチによって「まとめられた」。このプレスされた際にダメージを負ったのか、その後セイウチと大工が取り分を振り分けている際には、悲鳴を上げているだけでなく顔面や全身が歪み、手足を必死にバタつかせているものの身動きが取れないでいた。ダメージとして考えられるのは、バーガーにされた際、互いの殻が顔面(というか全身に)深く食い込んだ事である。
その後の運命は一緒。
突然に大波が発生して、牡蠣共の逃走を阻んだのは、親の忠告を足蹴にした天罰であり、捕食の掟、つまり最初からそうなる運命であり、そこから逃げるのは許されない、つまり自然界に逃走を拒否されたということになる。
ディズニー版
1933年度版に同じく、年長の牡蠣がいない。
ヤングオイスターの総数は、1933年度の倍、最大で24匹かそれ以上に見える。
全体的に、ファンシーな作風がカオス度や猟奇性、おどろおどろしさをかきたてており、マジキチ、作者は(薬を)キメているに違いないと言われる事がある。双子が笑顔で話を締めくくるのも特徴。
セイウチが牡蠣たちを拉致する為に水中に入っていくシーンでは、水中に入る直前に思わず邪悪な笑みがこぼれ、水面下に入る直前にそれを引っ込めるという細かい描写がされている。
こちらは、母牡蠣の愛情が原作と比べていくらか強い。
セイウチが卑怯にも、母牡蠣の殻を強制的に閉じたため、母牡蠣が殻を開けるのに時間がかかった可能性もある。また、当初のプロットでは、大工が牡蠣を探すために掛ける言葉が母牡蠣のセリフになっている。
セイウチが止めていなかったら、おそらく大工はハンマーを持って海に入り、海中でか陸上に水揚げしてからかは曖昧だが、そのままハンマーで殻を叩き割り、中身を引きずり出したり吸い出したりしていただろう。また、セイウチにどつかれるまで大工は平然と「途中で腹が減ったら、俺達はつまみ食いさ。」と言ってのける。
建てた小屋にセイウチと牡蠣たちが入っていくシーンでは、大工が牡蠣たちを後ろからまとめてハンマーを使ってぶんなげている。このシーンからも、もはや客や対等な立場ではなく「物」や「ご褒美」として「消費者」の立場から見ていることが伺える。この愚かながら無垢な獲物達が、さながらブラックホールの如く大口を開けて待っている奈落もとい墓場に勢いよく吸い込まれていく様相は、これから一匹残らず彼ら全員に訪れる破滅の瞬間の光景を比喩していたのかもしれない。また、場面によっては牡蠣共の体の一部が欠損しているように見えることがあり、心霊写真や最終絶叫計画のように、ある種の凶兆だとする意見もある。
時間帯的には夜だが、描写では真昼間に思える時間の出来事であり、ディナーの筈がランチに見える。
媒体によってはオイスターズたちもナプキンをしていて、ランチテーブルに付いていたが、これも大きな皮肉である。牡蠣共が「語らい」と優雅な食事を期待して自身に付けたナプキンも、結局は自分たちの残骸から出た海水や牡蠣汁を拭くために使われてしまったという事である。
これまた媒体によるが、牡蠣共にそれぞれイスが用意されていた場合と用意されていなかった場合がある。イスがあった場合は、大工が戻ってきた時には誰も座っていない小さな椅子が乱雑して倒れたりしていて、雰囲気を醸し出している。完成作品では、牡蛎共の座椅子は打ち捨てられたオールまたは木片であり、ここでもセイウチと大工に対してはきちんと椅子があるが、客人どころか獲物としか見ていない牡蛎共への対比が出ている。また、ある程度の高度がだけでなくて椅子でもないので、背もたれ等はないが咄嗟には逃げにくい構造になっている(どちらにせよ、臆病で弱いくせに親の忠告を無視して陸という墓場への道に出てきた牡蛎共の事、逃げるのではなくて硬直したり、もはや半殻なのに、つい癖で殻に籠るなどの動作をしてしまうので全く問題なく殲滅&全滅させられる&ゆっくりとたっぷりと堪能できるので、食事をする側からしたら実に良質な案件である)。
レストランのメニューには当たり前だが牡蠣しかない。
こちらでのオイスターズのセリフは「いただく?」("Feed?") だけになっているのが特徴で、残酷性を下げているように思えるが、それ以外の部分で猟奇性がアップしていた。この「feed」とは、「食事」なんて生易しい表現ではなく、直接「捕食」を表す単語である。
- 英語版では、それまで女性的な描写がされていたオイスターズが、唯一のセリフで男性の声が充てられていた。声の掠れ具合といい、半分思考が停止しかかっていたのだろうか。一方、日本語版で牡蠣たちは全員女子の声であり、英語やヨーロッパ言語版ではオイスターズの声が無音である場面(セイウチにかき集められるところ)が、日本語版では自分たちの最期の直前にパニックを起こして恐怖の叫びまたは断末魔をあげている(海外でも疑問に思われているが、本国ではこの類の叫び声は規制にあったのかもしれない)。セイウチが言う「準備はできたかな?」の「準備」とは、「喰われる準備」と「(苦しんで)死ぬ準備」である。また、このシーンではセイウチが「(腹が空きすぎて)死にそうだよ」とこれまた原語版のそれとは別のベクトルで意味深な表現をしている(「あんたたちがタイプで~」または「あんたたちが大好きで~」と言ってるようにも聞こえる)。この時、セイウチは上手い事腕を動かして、ほとんど全員の牡蠣たちがセイウチを直視する、つまりこれから入る羽目になる喉元がよく見える格好に持ってきており、視聴者からは牡蠣たちの表情が見えなくなっていて、想像を駆り立てられる演出である。もはやこれまでな終了決定の牡蛎共は、逃れるや助けが来る事など微塵もあり得ないセイウチの腕にホールドされ、互いに押し付けられてガチャガチャ殻同士が激しく擦れるため、その音で余計に(ほぼあり得ないだろうが)思考の入る余地がカキ消され、互いに声が掛け合う事など更にあり得ないが、パニックがもっともっと跳ね上がった事だろう。そして、もはや2度と吸う事も浴びる事も触れる事もない者場の空気などとおさらばする瞬間、つまり肉の洞窟であり地獄の入り口に送られる瞬間が、最大限に近い恐怖と苦しみという特典付きで漏れなく全員にやって来た。そして、後は死が来るだけの、やたら浅いのに底なしの胃液と酵素の沼では、思考停止すら許されない死の一時が展開された。
口の中に押し込まれて流されたり吸い込まれていった際には、メチャクチャな行動というか反応をしていただろう。ちなみに、セイウチが最初に2個だけ持ち上げたところを見ると、仲間を喰い殺す光景を見せつけながらも一匹も残らず地獄に送り込む自信があったと見える。それほどまでに、この牡蛎共は未熟で愚かで弱小な食品なのである(たとえば、丸腰の健康的で食い甲斐のある人間が猛獣にとってそうであるように、獲物としてはこれほど理想的な物はいないだろう)。
- 一部出版物では、小屋に収まった後、最期の直前に談笑するシーンでなぜかオイスターズの顔だけ真っ青になっており…けっこうなフラグである。
過程
原作でも映像作品でも、牡蠣たちの詳細な死に様は不明。
食事に関しては、後述の通り、吸い込んだのか咀嚼したのか、素手だったのか食器を使ったのか、一匹ずつ頂いたのか全員ご一緒したのかで分岐する推論がいくつかある。全員ご一緒だった場合、一度喉元で詰まって、そこから1匹または何匹ずつ押し出されて行っただろうか(現実の牡蠣なら、無理やり全員一緒に流れ落ちる事もできる)。現実では、生きたまま丸飲みするのが欧米流、というか在りし日の世界での主流派。
セイウチならだいたい踊り食いだろうし、大工も踊り食いまたは食器を使う。いずれにしろ、生きたまま喰われた点では変わらない。ちなみに、牡蠣たちの断末魔、というか空気に触れていた(セイウチの咥内に放り込まれる直前)、牡蠣たちが最期を遂げる瞬間とそれまでのセイウチや大工とのやり取りの様子を知りたいという声もある。泣いたのか叫んだのか喚いたのかパニックを起こしたのか来ない助けを呼んだのか etc.。抵抗を見せようとする事すら、彼らの非力さと臆病さ、混乱具合からはなかっただろうが。
大工が食べた場合は、吸ったのか咀嚼したのか、食器を使ったのか、などパターンが分岐する。セイウチと大工で、胡椒や酢を浴びて喘いだ後にテーブルの真ん中に固まって震える牡蠣達を手短に端から処したのか、何かの方法で一網打尽にしたのか、など様々なパターンが想像できる。したがって、特に捕食者が二名いた場合、それぞれの死因が統一されない可能性が出てくる。
1933年度版やディズニー版では、自ら命綱である殻を半分置いてきてしまったことで抵抗も時間稼ぎもできず(したところで無意味だが)、皮肉なことに半分残った殻は彼らの皿(→死に台または墓標)になってしまった。彼らを平らげたセイウチは言葉ではこの犠牲者たちに「深く同情する」と言い、「哀れみの涙」を流すが演技の可能性がある。しかもこのとき、一番肥えた牡蠣を品定めしていた。というか、確かに涙を流していたが、それはあくまでも自分が喰った数を隠すためと「もう獲物がいなくなってしまった」からである。また、泣いていたもののそのすぐ後に牡蠣達(が収まった場所)をいとおしげな目で眺め、腹ごと牡蠣達を揺らして更に外圧を加えて潰し、満足気に語りかけていた(肉は柔らかいし骨がないので、セイウチのこの動作で圧死はしないだろうが)。
ちなみに、捕食の際には塩や酢、からしや胡椒などで味付けされている。原作準拠だと、間にパンなどを挟んで消化していたので、体内で牡蠣バーガーになっていた。パンを用意してくれとセイウチが大工に要求したのは、たしかに、愚かにも絶対にあり得ない背伸びした接待を期待する牡蛎共(を喰らい尽くして殺す自分)のためであるが。「時は来たぞ牡蛎共よ、食べ物や何かについて語り合う機会がな。」という文字通りの殺し文句の意味は、牡蛎共の味を堪能して自分に語りかける自分、または、肉の壁を隔てて、もはや自分たちを命の最期の地獄に収用した存在に対する、声の届かない牡蛎共の発するもの(牡蛎共の言葉が足りてなかろうが全員残らず喰われ殺されるのには変わりないが)、例え届いたとしても決して救いは全くない、あるいはセイウチが牡蛎共に胃の中で(自分達こそが食べ物であり消費物だという)遅すぎる談義や後悔に華を咲かせていろ、とも取れる。
1999年版の実写版では、セイウチと大工は牡蠣達を「物」のごとく扱い、さっきまで普通に会話していた存在を「おびえ震え上がる牡蠣達に、当たり前の表情と調子で普通に会話しながら全く抵抗感なく普通に食べる」という寒気がするような振舞いができていた。こちらでは、ごく普通に当たり前の様に仲間を食べ始めたセイウチに対し、あわあわガクブルしながら、仲間が目の前で順番に喰われていくという展開になった。しかも、まるで見せ付けるかのごとくしっかりゆっくりと食べていた。こちらのセイウチ達は、やたらとエキセントリックな青緑の柏餅みたいな牡蠣の身が口に入った後に汁を飲んでた。また、死んで天に登っていく途中の牡蠣を、今度は双子の一人が捕まえて、まるでビスケットかピスタチオの如く殻ごと食べるという衝撃のシーンがある。ちなみに、喰われて昇天中の牡蠣達いわく、セイウチの喰いっぷりは「子供がジャムを舐めるように」との事。
- こちらの大工は、牡蠣たちが全員喰い殺されたと知りながら「さて、楽しい遠出だったね。もう遅いから家に帰ろうか。」とわざと語っている。
創作によっては、半両関わらず殻ごと胃に収まっている場合があるが、この場合はいくら防御態勢に入っていてもいつかは胃液に侵食されていくので、時間稼ぎができるのが異なるが、普通のバージョン同様、命綱の意味がない。
イラストによっては、大工がたいそうドデカい鋸を用意していた。これは、仮に抵抗して殻を閉じた牡蠣の殻を抉じ開けたり、貝柱を真っ二つにするためだと思われる。
歯のない口を潰れるほどに噛み締めるか大口を開け続けていたのか、などなど、どんな表情を浮かべて死を堪能していたのかは不明。
ディズニー版
こちらでは、さらに性悪なことに、すっかり胃袋に収まった牡蠣たちを腹ごと揺らして「ご一緒できた事、そっちが思うよりも遥かにこっちは楽しんだ」と語り掛ける。この時に牡蠣がまだ逝っておらず意識があったなら、凄まじく残酷な光景である。大工の呼び掛けに返事はないのは当たり前(大工の声が体内に聴こえていたのかは不明だが、いずれにしろそれどころではない)。どんな表情をしていたのかは定かではない(当然、後でセイウチが大工から逃げる際には、腹の中では更にGや衝撃、振動などが来るだろうから、何が起きてるか把握するなど不可能であり、それどころかそんな思考を持つ余裕など全くないので、余計に恐怖と狂乱が追加されたことだろう)。
そこにあったのは静寂だが、対照的に、肉の壁を隔てた死刑部屋の内部は、阿鼻叫喚の叫びと牡蠣のキーキーまたはピーピー音声が響き渡っていたことだろう。
セイウチの言葉選び自体もおぞましい。また、事実上の捕食シーンのBGMもあえてファンシーなもの、しかも日本の音楽でいう「チャン、チャン♪」というギャグ調の〆のリズムにされている…。しかも、牡蠣らがメニューを見た場面、つまり己らの間違いと待ち構えている運命を悟ったシーンの時だけ背景が暗黒になっている。
なお、セイウチは、胎動を感じる母親のように、胃の中の牡蠣共の動きが良くわかっただろうか。狂乱して、無駄にも関わらず、(胃の中にスペースがあれば)死に物狂いで動き回ったり、もがきにもがくその様を、実に良く観察できたかもしれない。牡蠣共の最期の動作につられて反応する胃壁の感覚はさぞ楽しいものだっただろう。声まで聞こえているのなら尚更面白く、獲物全員の絶命の過程を更によく楽しむ事ができただろうか。それを聞けば聞くほど、愉悦や満足感に浸り、捕食者としての誉れとも言える。妊婦が我が子の胎動を愛しむのとは180°全く違い、腹の中で死に際してうごめく or 喰われ尽くされる感覚をしっかりと味わう様を、これまた(もちろん妊婦のそれとは別の意味で)セイウチは自らの血肉となるために命ごと消化される食品としていとおしく感じ、生きながら消化され苦しみ尽きる様を楽しむのかもしれない。それどころか、当たり前の食事を済ませただけなので、腹の中で起きている阿鼻叫喚の地獄など、端からどうでも良い「現象」として見なし、すぐに忘れるのかもしれないが。
媒体によっては、セイウチと大工が平和的に捕食を遂行するものもある。また、陸に上がった瞬間からオイスターズの血色がほんの少しだがどす黒さを帯びており、これが死相だった可能性もなくもない。
オイスターズがこの世を去った時の顛末は、海外での考察を更にふくらませて直訳すれば、以下の様相になる。
「(セイウチが)大工に対する裏工作をしていたのと食事後の殻の残骸、盛大に溢れた塩、曲がった食器、そしてセイウチのしゃっくりを見るからに、大急ぎで素早く食したのだろう。
最初は数が多くて逃がさないように抑えてたので、軽く塩を振ってから手を使わずに頭を牡蠣に寄せて次々に吸い取った、数が減って余裕が出てきたら多少は食事を楽しもうとスプーンで掬ったりナイフやフォークで殻から剥がしたりして喉に流し込んだ、のではないか。
死の滑り台であるセイウチの喉とその先を滑り落ちている際、一匹ずつだろうが団体だろうが、既に半狂乱で思考が追い付いていなかったのかもしれない。急ぎだったので咀嚼する暇もないだろうから、牡蠣たちは胃袋に生きたまま収まったに違いない。
(セイウチの胃が普通程度 or 牡蠣共が大きめなら)身動きなど到底無理な話であり、もみくちゃのぐちゃぐちゃでソーセージの中身のごとくぎゅうぎゅう詰め。全員仲良く胃酸漬けになり、どんなに叫びもがこうとしようが無駄な努力、胃液と粘液にまみれて臨終の時が近づいていく。自分たちの血肉が胃の持ち主の血肉に変わるために一度は泥々になるその過程を、胃酸による苦しみの他、パニック・恐怖・絶望・狂乱・もはや無駄な生への執着と救済への願い・こんなはずではという想いを含むありとあらゆる後悔などにまみれながら、残りの一生全てにおいて味わい尽くす(その一方で、棺桶である胃袋が自分たちを味わい尽くしている)。
(セイウチの胃が巨大 or 牡蠣共が小さめなら)セイウチが大工に言い訳をしている最中には、己らのどん詰まりであり死地である胃酸の沼から逃れようと、胃壁を死に物狂いでよじ登ろうとしていたのだろう。それも狂ったように、我先にと互いを跨ぎながら。全員が既に胃酸に浸かっていたのか一部だったのかは不明だが、どちらにしても胃に取り込まれた物を消化するために水位が上がってくる、一方、牡蠣たちはもはや互いを踏み台にしようと関係なく胃酸から逃れようとしていた。 救いを求めてひたすら上を目指していたり、行き先のない胃袋で狂乱になっていた事は想像に難くない。もはや来る事のない明日や青春を見ようと必死になって…。
こんな絶体絶命、阿鼻叫喚な惨状では、仲間を思いやる余裕などとうに消え失せるのが当たり前。激しい生存競争、というよりは群がる際に蹴落としたり踏みつけたりがあったのかもしれない(どちらにしても全員が一緒の世界へ逝くのだが)。パニックを起こして這い回り、論理的な思考すら機能してていなかったのだろうか。
牡蠣たちは輝かしい青春を夢見てきたのだろうが、それももはや絶望的。しかし、その欲求に執着していたからこそ余計にパニックが大きくなったに違いない。ここまで来たら、もはや九死に一生などという甘い奇跡が起きる訳もないのだが。
いずれにしろ、例え苦労して天井や何らかの理由で酸の底に到達したところで、もはや食道へも腸へも、自らの力ではどうしようもないほど道は固く閉ざされていた。基本的に、胃は最低限の仕事をするまでは堅牢な一つの部屋と化すものである。」
脆弱で食べ頃(死に頃)な牡蛎共なので、死に方のオプションも増える。太陽の日差しがある陸に愚かにも揚がってきているので、セイウチの熱で焼死する可能性については小さいのかもしれない。また、哺乳類と違って窒息もないだろうし、丸呑みされて死に逝くので圧死も考えられない。となると、やはり一番時間がかかり、一番恐ろしくて苦しみと恐怖の大きく、思う存分たっぷりと阿鼻叫喚(自らの愚かさの痛感、果てのない後悔と絶望と恐怖と狂乱と困惑とパニックと絶叫、もしあるとすれば悲壮、などなど)の死出の過程てまある、胃液と酵素による消化死である。非常に弱くて柔くて食べられ易い肉質なので、胃液と酵素の仕事量と効果(つまりダメージ)の度合いは不明。少なくとも、牡蛎共の目や口などからも胃液と酵素は入り込むので、内外から焼かれ崩されて、セイウチの血肉の養分へと変換されていくのだ。どんなに嘆き悔やもうが(もし泣くのなら)泣き叫ぼうが、もはや、愚かさに溢れる牡蛎共にとっては後のまつりである。たとえば哺乳類のような失神や痛覚の喪失も許されず、絶対的に平等に徹底的に処理されていく。
創作では、運命を諦めて神に祈ったりしていたが、それはあくまで教養と痛覚と恐怖と混乱を抑え、死を受け入れる余裕が必要であり、精神的に成熟・達観し、死を受け入れる覚悟や準備が出来ていなければ無理な話なのでありえない。自暴自棄になる可能性も、性格的・状況的にありえないだろうか(肉体がどんどん破壊されていくのに感情に浸る余裕などない)。絶望や恐怖に呑まれた個体は、狂気に蝕まれて発狂したり、仲間同士の感情を最後に取り戻して心中に近い感情になった…のかもしれないが、常に胃酸と胃壁の外圧に曝されるだけでなく、まさかの時に死を覚悟し受け入れる精神力などないに等しい幼子のこと、今まで自分らの死など考えた事などなく、まさか自分達がこんな事になるなんて微塵も思った事ないままこの日を迎えてしまったのだろう。おそらくは大半または全員が、モラルや人間性を喪い、それまで隣にいた仲間が頼る存在どころか一気に別のものに変貌したと思われる。協力して足場を組んで天井を目指す、という協力があったとは考えにくい(誰かが酸に浸かり続けなければならないし、酸に浸かっていてそんな余裕など生まれるとは思えない)。生まれてこの方、人生の苦しみなど経験せず、希望に溢れ夢を見続けて人生を謳歌してきたからこそ、こうなった時のダメージも一塩。
酵素も内包物の消化に役立つが、この酵素自体で獲物、というか内包物の牡蠣共が苦しみを覚えるのかは不明。
なお、人間基準の消化力と消化のプロセスに、このセイウチのそれらが準拠するならば、最初に喉を通りすぎて自らの墓場であり奈落または地獄の胃へと落ち下っていく際、一度は喉の下側などで一度は押し潰され、ゆっくりと身動きが取れないまま墜ちて逝く。牡蛎共は柔らかな肉をしているので、地獄への落とし穴であり後戻りなど一切ない一方通行の直通道である食道に押し込まれて流されていく際に潰されても死なないので、安心して阿鼻叫喚の苦しみと恐怖と断末魔が入り乱れる、最期の地獄の一時を思う存分味わい尽くせる(実際は味わい尽くされるのだ)。一度にどれぐらいの牡蛎共が死のベルトコンベアである食道を経るのかは不明(例え仮に各々が死の瞬間を迎えるタイミングに差があったとしても、ゴール地点であり、自身らの処理場である胃にご一緒して収まり、一番の見所でありクライマックスである死のプロセスには一緒に巻かれ取り込まれて養分として吸収されていくので大丈夫なのである)。そして、己らの命と肉体が尽き滅び、完全に存在と存在意義ごと消化され無に帰すのだ(消化される事が存在意義なので、そのためだけに生まれて生きてきたのだが)。また、(当たり前だが所詮は食べ物であり食用専用の消耗品である牡蠣共には地獄の苦しみをたっぷりと受けながら死ぬ運命しかないのだが)圧迫され続ける食道内で少しでも身動きをとろうとする事すら、軟弱で未熟で脆弱で肥えた愚か者である牡蠣共にはできず、どちらにしろ、手足が顔よりも小さく短いので、食道を自分で移動することなど不可能であり、手足も本体に密着させられる直立型なので恐怖と狂混乱も一層大きくなる。死の粘液まみれで身動きすらできず、直立のまま、頭から先でも足から先でも相応の恐怖と狂混乱に支配される。頭から先の方が、人間的な感覚ではより激しい恐怖と脳の思考処理が置いてきぼりにされるほどの狂混乱に支配されるだろうが、人間とは違うので頭に血がのぼるのかは不明。どんな苦悶・阿鼻叫喚・恐怖と狂混乱の表情と仕草と叫び声を上げていたのかは想像するしかない。
他のディズニーの世界では、潰される程度は当たり前なので当然死には至らないが、この世界の牡蠣共はどうなのか不明。喰われる身の部分などは軟体だし、脊椎動物のような動きをするものの、先の通り顔が本体で他はエーテル体などの可能性もある。すると、食道で締め付け圧迫されても死なず、ちゃんとそこで死ぬべき墓場というか死刑部屋である胃袋に未来永劫に収まり、そこで一方通行の不可逆的なプロセスを踏んで肉も魂も消化され消失するのだ。
- セイウチは大型の個体で体重1.2t、最大で体重の6%の食事をするらしい。劇中でのサイズを見てみると、場面ごとに捕食者と被捕食者共とのサイズ比が変容している。牡蠣共がある程度大きい場合なら、胃がある程度膨らむ余裕があるとは言え、24匹前後入った状態で胃の中でわちゃわちゃするスペースがない感もある。この場合だと、胃袋いっぱいにオイスターズが詰まっている状態であり、もみくちゃのぐちゃぐちゃのがんじがらめ、更には胃壁の外圧が強いだろうから身動きすらまともに取れない。それに合わせて胃酸も量が変わるので、この時の胃袋はもはや胃液の水槽状態になっている事だろうか。牡蠣なので窒息する事はないが、セイウチが自分たちを味わった一方、自分たちは胃酸に蝕まれて自分の体が胃液と一体化していく感覚をたっぷり味わえる。目や口などからも胃液が侵入するため、外からも内からも焼かれる。各々があの世に旅立ったタイミングは不明。
ろくに使える腕や足が牡蠣には備わってないだけでなく、胃壁などにガッチリと嬉しくないホールドをされ、大勢いた事が仇となって自分たちの体で詰まって身動きできないため、脱出のための努力はおろか身動きを取る事もおそらく不可能であっただろう。
- 脱出しようという魂胆で胃の入り口に到達して、殆どあり得ないだろうが、仮に胃の弁に細い手を捩じ込ませられても、上記の通り胃の閉鎖能力は高く、こじ開ける力などないはず。その場合、弁に手 or 頭または首から上を取られて身動きが取れない(せいぜいジタバタできる程度)まま胃酸に飲み込まれていったのだろうか。万が一、何らかの理由で胃の弁が開いたとしても、ほぼ垂直で濡れた食道は登れないので逝き先に違いはないが。
また、ディズニー版はパジャマと靴があるが、悲劇的な事後の後には殻しか残されていなかったので、あれらはもしかしたら肉体の一部分なのかもしれない。なお、関連商品では上半身が裸だが実在し、そこにスカートだけ着用しているものがある。なお、ディズニー以外のバージョンでは、ご丁寧に衣服と靴が主を失った殻と共に遺されていた場合も。
パジャマが紙の如くペラペラなシーンがあったので、パジャマと靴には実体がない可能性もなくもない。というと、顔の部分が全身であり、この場合は抵抗するどころか手足すらないので1秒でも早く死んだ方がマシという状態になる。胃袋にスペースがなければ顔だけの牡蠣達がぎゅうぎゅう詰め(空腹の胃袋なので磨り潰されたりはしないだろうか)、胃袋がある程度大きいなら胃酸の中でバチャバチャやっている事になる。そのうち、段々とバチャバチャが減っていき、胃液に新たな添加物が混ざり始めていく…。
この牡蠣たちは泣くのかは不明。
なお、悪意ある言い方をすれば自業自得の運命を迎えたわけだが、自分たちが獲物として有名であるという事は忘れていなかったのか、丘の上でも敏感で疑り深い部分が見え、セイウチの一挙一動に細かく反応してその度に不安な顔を見せていた。また、しょっちゅう首をすくめる動作などからして、かなり怖がりでビクビクしており、牡蠣の生態故か、ナニか発生した時には体が動かなくなると思われる。ただし、気づいて後悔した際にはもはや時すでにお寿司だったが。また、本格的に命尽きる以前に一度2匹だけ持ち上げられているが、このときはセイウチがかざした手を見て恐怖を覚えたのか悟ったのかは不明だが、防御姿勢というか恐怖反応を見せていた。が、基本的には殻に隠れる性分のためか、襲われた際に逃げるなどの動作を行わず、恐怖を覚えたら体が固まる傾向にあるのかもしれない。また、少なくとも日本語版以外では声を挙げる事すらできなくなる可能性があり、大工が歌いながら作業していたとはいえ、牡蠣共の断末魔やパニックの悲鳴は聞こえなかったのだ。
セイウチの歌にのせられて、期待に胸を躍らせて素早く飛び出して逝った彼らであるが、自分達の共同墓地、というか処理場に収まるのも、うるさかったかどうかは不明だが素早かった。死の苦しみであり、自分達が処理される地獄は、牡蠣である故に失神せずにたっぷりと味わえる。
彼らの終焉の地であり、人生のどん詰まりの場所であるセイウチの胃は真っ暗だろうし、牡蠣たちは咀嚼されていなくてもお互いの体でがんじがらめになっていたり潰されている可能性もある。なお、彼らの胴体は実際には頭の部分にあるのかもしれないので、そうだとしたらセイウチの内臓内での彼らの様子は少し変わってくるのかもしれない。いずれにしろ、殻のない牡蠣なぞもはや最弱の生物の一種だろうに、先に胃にあった内容物や後から入ってきた接種物に磨り潰されたり、溶かされたり、なんてこともあり得なくない。他には、人間だと一酸化炭素中毒や酸欠の可能性もなくはないが、彼らは哺乳類ではないのでどうなるかは未知数であり、酸欠や恐怖で失神できたとしても、溺れる心配がないので再び目を覚ましてしまうかもしれない。
一部媒体では、かき集められた後に塩を振るわれてから吸われていた。なお、セイウチが一匹ずつ吸ったと取れる場合が多いが、媒体によっては全員一緒に一呑みにされて臨終していたとされている。ディズニー版では、遺骸(殻)に海水または体液か肉汁かの液体が残っており、なぜかぐにゃぐにゃに曲がったフォークなどもある。食器が実際に使われたのかは不明だが、一匹または数匹ずつ流し込んだり味わった際は、違う味を楽しむために後の個体には使ったのかもしれない。
フォークなどが曲がった理由は不明だが、劇中での牡蠣達の非力さと臆病さ、混乱とパニックの加減を見る限り、最期の抵抗を見せた可能性はあまり大きくないし、仮にしたとしてもさすがに食器は曲がらないだろう。そこら辺で拾ったものであったら最初から曲がっていたのとは思えない(立場が下の大工が、キレイな食器を使っていた)。急いで牡蠣たちを蹂躙する際に焦って力がこもっていたので、牡蠣の殻でフォークなどが曲がった可能性があるが、これだとセイウチの貪欲さ&いかに性急に現場が進行していたのか見えてくる。
いずれにしろ、すでに牡蠣共がセイウチの体内に旅立った後、後から追いついた大工が、これから刺し殺す or 切り殺したり喰い殺すつもりでいる相手に対して遊びを誘うかに思える口調で呼びかけるのも、考えてみればゾッとさせられる。
ディズニー版では、後に殻を開けた母牡蠣は、閑散で無牡蠣と化した海底を見てどんな運命が子牡蠣達に降りかかったのか悟るのだろうか。陸上に捜しに来る可能性もあるが、セイウチが母牡蠣を捕食対象と見ていなかったので危険はまだ少ないであろうか(あの世界では、羊肉のように年齢で牡蠣の肉質や味などが変化するのだろうか)。
死後、魂も消化されセイウチの糧になるのか、それとも、生き地獄の次に本物の地獄や奈落の底が牡蠣共が送られてくるのを楽しみにして待っているのかは不明。本物の地獄の方でも、獄卒や獣などに喰われたり切り刻まれたりされるので、死ぬ前に経験したことの復習が未来永劫にできる。
現実の牡蠣に準拠
原作準拠だと両方の殻が付いていたので手や道具で殻をこじ開けたと思われる。
肉汁まで飲み切って用済みになった殻は、そのまま海に投げ捨てられたりポイ捨てされた。
捕食について述べると、ルイス・キャロルの挿絵では最後の一匹が「吸われて」いる最中だった。つまり、現実の牡蠣のごとく、少なくとも「吸えて流し込める」身体構造だと思しい。また、上記の通り、仮に咀嚼されておらず、胃袋の内部で動けるスペースがあったとしても、こんな状況でろくに使える手足ではないため、生存のために努力したとしても結果はご察し。
体内では、咀嚼されていない場合なら体内でゆっくり消化されたのかもしれない。
セイウチらが元々腹ぺこだったので他の内容物に磨り潰された可能性は低いが、胃液で溶けたのか、はてまた腹の中でショック死または絶望死、呼吸困難や圧死、胃酸や他の消化物がオイスターズの体内に過剰に侵入、出血多量や酸による傷害、何らかのために毒死や感染症を発症、衰弱死、または(牡蠣の代謝的にあまり考えられないが)餓死や疲労死したのか、それか何らかの方法で自害したのか。だが、人間とは違って窒息や呼吸困難に陥る可能性は低いと思われる。
上記だと、セイウチが空腹だった状況を考慮して、なおかつ丸呑みしたと仮定すると、やはり胃酸に溶かされたと考えるのが普通か。咀嚼されたのであればかなり早く死が訪れた事になる。なお、全員の死因と落命のタイミングが一致しない可能性もあるが、とくに原作にてセイウチの獲物にされたメンバーと大工のランチまたはディナーとして胃袋に消えたメンバーとでは、味わった死が異なるのかもしれない。ちなみに、どの段階のどの時点まで牡蠣たちの意識があったのかは想像にお任せする。
創作によっては、殻も顔など体の一部であるため、この場合は体の中身を全部抜き取られ、同時に目や口なども付随して持って逝かれてしまったことになる。
まあ、比較的まだ救いがある場合を考えると、すぐに咀嚼されて絶命、被摂取後すぐに失神、腹の中で諦めが付いた、後は生物としての防衛反応が出た場合だと、死の直前などにはアドレナリンが出て快楽感が発生したり効率的に失神できるが(場合によっては幽体離脱的な幻覚も)、それがこのオイスターズみたいな、あの世界のおかしな体をした生物にも同じなのかは不明。
最後に
下記をご覧いただければ把握できるが、ディズニー版限定だと、この一連の惨事が実際にあったかどうかで議論がある。
否定派の意見
あまりにも悲惨な最期を遂げてしまった牡蠣たちであるが、実は彼らは、まだ生きている可能性がある事が、作中で示唆されている。
それは、ディズニー版の物語の終盤で、ハートの女王に斬首刑を宣告されてしまったアリスが、法廷から逃げ出す、クライマックスのシーン。
トランプたちから追われている最中に、アリスは今までこの世界で出会ってきた者たちと、一堂に会する場面がある。
その一つに、岩の上にいるドードーを中心に、皆が輪になって踊っているシーンがあるのだが、その中に、オイスターズ達も楽しげに踊っている姿が、確認できるのである(しかも、セイウチと大工と、一緒に)。
確認できる数は、六匹。あの話に出てきた彼らと同一人物なのかは、定かではないが、セイウチと大工は同一人物である事を考えると、彼らも同一人物である可能性は、極めて高い。なら、なぜ彼らは生きていて、しかもあの悪魔と、一緒になって踊っているのか。
これはつまり、「セイウチと大工」の話自体が、教訓を教える為の、お芝居だった事を、暗示している事に他ならない。人数が足りないが、それはただ単にスペース不足の問題であり、姿は見えないが、おそらく残りの牡蠣たちも、生きている可能性は高い。
これは、あくまでもディズニー版のみの描写であり、ただの推測に過ぎないのだが、彼らの迎えた結末を、さすがに不憫に思ったのか、スタッフ達がああいった形で配慮し、再度、出演させたのであろう。
というか、もっとぶっちゃけた言い方をすれば、そもそもこの「ふしぎの国のアリス」という話は、アリスが昼下がりに見た夢の世界の話であり、夢から目覚めたアリスのいる世界(現実)で、実際に誰かが死んで、天へと旅立ったというワケでは、ないのだ。
そして、アリスが冒険をした世界そのものというのは、夢の中の世界、要するに「なんでもアリ」な世界観なワケなのである。
だから例え、その世界の中で死ぬような災難にあった人物が出てきたとしても、なにせ夢の世界の出来事なので、一度死んだ人物が、あとで何事もなかったかのようにケロッと復活していても、まったく不思議ではないのである(というよりも、夢の中の話なので、現実と違って、生死の問題があまり意味を持たなくなっているのだ)。
肯定派の意見
原作準拠なら、上記のダンスシーンはないことである。また、「ハウス・オブ・マウス」にて喰い殺された牡蠣達の恨み節が再現されているだけでなく、TVシリーズなどでの集合場面でも牡蛎共の姿だけないのだ。
ちなみに、原作だと親牡蠣のほかに年上の牡蠣たちやそれに従った牡蠣たちは助かっており、ディズニー版でも海底にいたオイスターズ(24匹前後)と比べてセイウチたちに追いて逝ったオイスターズの数が少ないため、理論的には生き残った牡蠣たちがいることになる。喰われていなかった生き残りの牡蠣たちの可能性も否定できない。
しかしながら、喰い散らかされた遺骸(殻)を数えると、半殻なのでやはり24匹前後分になる。とすると、最初の一団、というか第一波を喰い尽くした後にセイウチまたは大工が再びあの海底に向かった可能性もなくもないが・・・。
後は、生き地獄を味わったオイスターズとは別の牡蠣の集団とも考えられる。その場合、何らかの理由でセイウチと同席しているか、またはまた騙されてこのあと同じような運命を迎えたのかもしれないが…。
ただ、最後のダンスシーンに限らず、結局はアリスの想像の世界での出来事に近いのだが、仮に実在していた場合は、それまでいなかったキャラクター達が突然出現したため、あのダンスシーンが走馬灯に近い現象、つまり幻覚の可能性もある。
追加動画
- アリス・イン・ナイトメア版(かなおどろおどろしいので閲覧注意)
追加タグ
バッドエンド ダークユーモア 行き止まり お先真っ暗 後の祭り 後悔先に立たず ド畜生
全滅 皆殺し 一蓮托生 罠 トラップ 生き地獄 阿鼻叫喚 地獄絵図 カニバリズム(ディズニー版)
MAC(ウルトラマンレオ)、バードンの犠牲者など - 状況的には似た立場だが、バードンの場合、犠牲者が厳密に嘴などや啄まれる段階で死亡したのか、呑まれて死亡したのかは不明。