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独ソ戦の編集履歴

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独ソ戦

どくそせん

第二次大戦におけるドイツとソ連の戦い。数千万人規模の死者を出した。

独ソ戦とは?

独ソ戦(どくそせん)は、第二次世界大戦中の1941年から1945年にかけてドイツを中心とする枢軸国ソビエト連邦ソ連)との間で戦われた戦争を指す。ソ連での呼称は大祖国戦争。

ナチズム共産主義という相容れない2つのイデオロギーが真っ向から衝突したこの戦争は、戦闘員・民間人合わせて数千万単位の死者を出し、「人類史上最悪の災厄」と称された。


共産主義革命を起こしたソ連は国際連盟に身をおきつつも世界の孤児であり、ナチス党政権下のドイツは反共の急先鋒で、不倶戴天の敵同士だった。

その両国が1939年に締結したモロトフ=リッベントロップ協定(いわゆる「独ソ不可侵条約」)は世界を驚かせた。

欧州を巡る混乱の中、反共包囲網による孤立と疑心暗鬼の中にいたソ連は、イギリス・フランスによるドイツへの宥和的態度に不信感を募らせた。また、ドイツもポーランド侵略にあたり、ソ連と衝突することは避けたかった。両者の利害の一致が、不可侵条約を締結する背景となった。


ドイツ軍のポーランド侵攻で第二次世界大戦が始まると、ソ連はモロトフ=リッベントロップ協定の秘密議定書に基づいて進軍し、緩衝地帯での分割を進めた。このポーランド分割によって、ドイツとソ連は国境を接することとなった。両者の開戦は時間の問題となっていた。


ヒトラーにとってロシア、ウクライナの穀倉地帯はドイツ民族に必要不可欠な東方生存圏であり、ソ連打倒は「我が闘争」執筆時からの目標だった。ドイツと交戦中のイギリスはソ連とアメリカの参戦をあてにしていたため、ヒトラーはソ連を打倒すればイギリスが講和に応じるのではないかと考えた。


1941年6月22日3時15分、ドイツ軍はソ連を奇襲攻撃した(バルバロッサ作戦)。

イギリス、フランスとの開戦は両国のポーランドとの同盟関係から結果的に始まったものだが、対ソ戦はスラブ民族やアジア人を劣等民族と位置づけるナチスの思想上、避けられないものであった。このため独ソ戦は他の戦線と異なり、存亡を賭けた熾烈な戦いとなった。

各国から反共産主義者が義勇兵としてドイツ軍に加わった。ロシア人反共産主義者もロシア国民解放軍ロシア解放軍として同胞と戦った。


開戦当初、反ソ感情が強いバルト三国や、共産党によるロシア化政策に苦しんできたウクライナの一部の住民は、ドイツ陸軍を「共産主義ロシアの圧政からの解放軍」と歓迎し、ドイツ軍に志願したり、共産主義者やユダヤ人を引き渡すなど、自ら進んでドイツの支配に協力した。

しかし、スラブ民族の奴隷化を目論む過酷な占領政策は、親独的な地域住民を対独パルチザンに変えてしまった。パルチザン狩りにより多くの住民が虐殺された。

赤軍が攻勢に出ると、対独協力への報復として殺戮・略奪・追放(シベリア送り)が行われ、戦場となった東ヨーロッパは荒廃した。

緩衝地帯の国家が枢軸・連合のどちらかに鞍替えするといった状況の中、ドイツ東部までの地域がソビエトの支配下に置かれ、戦争は終結する。


太平洋戦争と違い地上戦が主な独ソ戦では、一度の会戦で数百万単位の兵や数千機の航空機、数千台の戦車、膨大な火砲が使用された。

ソ連はアメリカからレンドリースにより大量の車両や航空機、列車を供与された。


スターリンとヒトラーという独裁者が正面から衝突したこの戦いにおいて、ソ連兵1,128万人、ドイツ兵500万人が戦死・戦病死した。民間人も含めると、ソ連は2,000~3,000万人、ドイツは約600~1,000万人が死亡した。

ソ連の戦争死亡者は第二次世界大戦全ての交戦国の中で最も多く、ソ連兵の捕虜の半数以上が独ソ戦最初の年のもので、500万人が死亡している。

ドイツ兵捕虜300万人の内、100万人が抑留中に死亡した。


独ソ戦の経緯

1941年

6月22日、ドイツ軍がソ連領内へ侵攻開始。ソ連の航空部隊はドイツ空軍の爆撃により地上で壊滅した。


6月28日、ドイツ中央軍集団によるミンスク包囲により、赤軍西部正面軍は62万人の兵を失う。


8月5日、スモレンスクが陥落。赤軍兵士30万人がドイツ軍の捕虜となる。


9月8日、ドイツ北方軍集団とフィンランド軍によるレニングラード包囲が始まる。


ソ連は多くの工場を、ドイツ軍の手の及ばないウラルに疎開させた。一時的に生産力が低下したが、やがて安全な疎開先で大量の軍需物資が生産されることになる。


ドイツ南方軍集団が担当するウクライナは、赤軍が開戦前からキエフ特別軍管区とオデッサ特別軍管区に戦力を集中していたため、進撃が遅れがちだった。

ヒトラーはドイツ中央軍集団の機甲部隊を南部に向け、南方軍集団を支援させ、ウクライナに展開していた赤軍60万人を殲滅し、キエフハリコフを占領した。これにより中央軍集団のモスクワ攻略作戦(タイフーン作戦)開始は約1ヶ月遅延し10月2日になる。


10月14日までにヴャジマブリャンスク二重包囲戦で赤軍50万人を殲滅したが、秋の長雨が到来し、ロシアの道路は泥濘と化す。10月25日のモスクワ空襲を最後にドイツ空軍は出撃不能となり、制空権はソ連に移った。

冬の到来で道路が凍結しドイツ軍の進撃は再開されるが、補給線が延び切った上、冬季装備を欠いたドイツ軍は各地で停止を余儀なくされた。モスクワまであと十数キロの地点で攻勢は頓挫した。

短期決戦の目論見は外れ、持久戦の様相を呈する。


日本で活動するリヒャルト・ゾルゲの情報により、日本軍の極東ソ連への侵攻計画は無いと知ったソ連は、10月以降、シベリアや極東の精鋭部隊をモスクワ前面に投入した。11月にはモンゴルの騎兵師団が戦線に投入されたが、戦況にほとんど影響を与えることなく壊滅した。

赤軍は12月初旬から冬季大反攻を開始し、中央軍集団をモスクワ正面から後退させた。ドイツ軍はヒトラーの死守命令によって撤退できず、ドクトリンである弾性防御を捨て、個々の集団による、寒さを凌げる集落を中心とした拠点防御により戦線崩壊を回避した。


1942年

1月18日、モスクワ前面でのドイツ軍の敗退を過大評価したスターリンは全戦線で攻勢を命じたが、兵員や補給の不足でドイツ軍を駆逐できず、イジュムバルヴェンコヴォに突出部を作るに留まり、以後クリミア以外の前線はドン川以西で膠着した。


5月12日、赤軍はハリコフを奪還するべくイジュムとバルヴェンコヴォから夏季攻勢を開始したが、ドイツ軍はこれを南側から断ち切るフレデリクス作戦を実行し、赤軍攻勢部隊は包囲されて壊滅し、南部での戦車戦力の殆どを失った。

独ソの戦力バランスが大きくドイツ軍に傾き、赤軍は東方へ撤退を続けることになったが、撤退速度は早く、前年のように包囲殲滅されることはなく、重火器の放棄も伴わず、損害はなかった。


ドイツ軍の夏季攻勢は戦争経済上の理由から、バクー油田獲得を目的としたブラウ作戦となった。

カフカスへ向かったドイツA軍集団の補給線は延び切り、嶮しい山岳地帯と赤軍の抵抗で進撃が行き詰り、グロズヌイまで60kmの地点で燃料が尽き、11月8日に撤退を開始した。


11月、モスクワ北西のドイツ軍ルジェフ突出部に対し攻勢作戦(火星作戦)が行われ、ゲオルギー・ジューコフ大将が指揮した。赤軍はドイツ第9軍の戦線を突破できず、33万人が戦死した。


ヴォルガ川の要衝・スターリングラードを包囲したドイツB軍集団は市街戦で消耗し、11月22日、赤軍の反撃により33万人が逆包囲されてしまった。ヒトラーは徹底抗戦を命じ、空輸での補給やヘルマン・ホト上級大将による救出が試みられるが失敗した。


B軍集団の包囲で突出してしまったA軍集団にも包囲の危機が迫り、必死の撤退戦が行われた。


1943年

1月30日、ドイツ第6軍総司令官のパウルス上級大将は元帥に昇進させられ、暗に自決を迫られるが、枢軸軍の生き残り約10万人と共に投降し捕虜となる。

ブラウ作戦の失敗がドイツの同盟国に与えた影響は大きかった。

1942年を通しての莫大な被害により、ドイツ軍は東部戦線の定員を充足できなくなった。以降、人的資源に余裕のないドイツは予備兵力の殆どを投入せざるを得なくなる。


3月1日、ドイツ第9軍はルジェフ突出部から撤退し、戦線を整理する。


スターリングラードのドイツ軍撃滅後、赤軍は南部で攻勢に出てハリコフ、ベルゴロドクルスクを奪還したが、ハリコフとベルゴロドはドイツ軍の反攻により再び奪取された。その結果、中央軍集団と南方軍集団の間にクルスクの突出部が出来た。


7月4日、突出部を南北から挟撃するツィタデレ作戦が実施された(クルスクの戦い)。

事前情報により十分準備された赤軍の防御陣地に進撃を阻まれ、ドイツ軍の攻勢は失敗し、シチリア島への連合軍の上陸を理由に中止された。

赤軍は7月12日にオリョールを目指すクツゥーゾフ作戦、8月3日にハリコフを目指すルミャンツェフ作戦を発動し、ドイツ軍はドニエプル川西岸まで撤退した。


1944年

1月14日、赤軍がクラスノエセロ・ロプシャ攻勢を開始し、レニングラードのドイツ軍防衛線を突破。1月18日、レニングラードが包囲から解放された。

2月15日、赤軍がナルヴァ攻勢を開始。エストニアに迫る。3月にドイツ軍の反撃で攻勢は停滞する。


4月8日からの赤軍のルーマニア侵攻戦、第一次ヤッシー=キシニョフ攻勢は失敗する。


4月10日、赤軍は腐海ペレコプ地峡を渡り、ドイツ第17軍をセヴァストポリ要塞へ押し込む。

5月9日、セヴァストポリ要塞が陥落。第17軍は65,100人を失い、海路でクリミアを撤退した。


赤軍の春季攻勢によるドイツ南方軍集団と北方軍集団の後退で、中央軍集団がベラルーシに突出する形となった。

6月6日、連合軍によるノルマンディー上陸作戦。ドイツ軍は二正面作戦を強いられる。


6月22日、赤軍はドイツ中央軍集団撃滅を目指す夏季攻勢、バグラチオン作戦を発動。

ドイツ軍は赤軍が突出部を南から切断してくると予想していたが、赤軍は戦線中央に120kmにわたる破滅的な突破口を開け、平押しに押し潰してきた。中央軍集団は38個師団のうち28個師団を失い壊滅し、赤軍は7月30日、ワルシャワ東方10kmまで達したところで補給の限界に達し、停止した。これにより独ソ戦の趨勢は決した。


8月20日からの第二次ヤッシー=キシニョフ攻勢が成功。ルーマニアは政変により枢軸側から脱落した。


9月9日にブルガリアが枢軸側から脱落した。

赤軍はハンガリー国境の要衝ズクラ峠を突破。


9月19日にフィンランドが枢軸側から脱落した。


10月9日、赤軍がメーメルのドイツ軍を撃破してバルト海に至り、ドイツ北方軍集団の将兵20万人がクールラントに孤立した(クールラント・ポケット)。


10月16日、ハンガリーが降伏しようとしたため、ドイツはファシズム政党矢十字党による傀儡政権を立てた(パンツァーファウスト作戦)。

10月29日、赤軍がハンガリーの首都ブダペストを包囲。


1945年

2月13日、ブダペストが陥落し、ハンガリーのほぼ全土が赤軍の支配下となった。

ドイツ軍は3月6日からハンガリーの油田奪回を目指し、バラトン湖周辺で赤軍を攻撃するが(春の目覚め作戦)、事前に察知されていたため失敗し、オーストリアへ敗走する。


4月16日、赤軍のベルリン総攻撃が開始される。

4月30日、ヒトラーが自殺。5月2日、ベルリンは陥落した。

カール・デーニッツ元帥のフレンスブルク政府は降伏を決断し、全権委任したアルフレート・ヨードルランス(フランス)の連合軍最高司令官ドワイト・アイゼンハワーの司令部に派遣される。

5月7日、発効を5月9日零時として降伏文書の調印が行われた。


5月8日午後11時からベルリン市内のカールスホルストで降伏文書の批准式が行われ、連合軍代表ゲオルギー・ジューコフ元帥とアーサー・テッダー元帥、ドイツ国防軍代表ヴィルヘルム・カイテル陸軍元帥が降伏文書に批准した(調印時間はベルリン時間で5月9日0時15分、ロンドン時間で5月8日23時15分、モスクワ時間で5月9日2時15分)。


ドイツ中央軍集団の残存兵は降伏文書批准後もプラハで抵抗を続け、5月11日、赤軍とアメリカ軍に包囲され撃破された。独ソ戦すべての戦闘が終結した。


pixivでは

戦闘機や兵器の絵が主流だが、場外乱闘閣下これくしょん)している絵も。


大規模犯罪

独ソ戦における犯罪の大部分は通例の戦争犯罪ではなく、ナチ国家は戦時国際法において前提される捕虜の権利の平等をすでに戦前に失効させており、すでに前段階で、イデオロギー的に不可避の結果であり、正当化されるものとして予定され、計画され、指示されたものだった。歴史研究はそこから、戦争犯罪も含めて「大規模犯罪(Massenverbrechen)」と呼んでいる(Dieter Pohl: Verfolgung und Massenmord in der NS-Zeit 1933 bis 1945. Darmstadt 2003, S. 36 f.)。

市民に対する大量殺人

クリスティアン・ゲルラッハの主張によれば(Christian Gerlach: Kalkulierte Morde. Die deutsche Wirtschafts- und Vernichtungspolitik in Weißrussland 1941 bis 1944. Hamburg 1999.)、ドイツ国防軍SS単独で、ベラルーシの一般市民に対する大量殺戮で34万5000人を殺害し、男性は赤色陸軍やパルチザンに参加していたため、それによる犠牲者の大部分が女性と子供であったという。通例では、人間は納屋のような大きな建物の中に駆り集められ、自動小銃や機関銃によって射殺された。その後、もし多くがなお生き残っていた場合、建物が放火された。そうして例えばオクチャーブリスキィ(ベラルーシのホメリ州の町)ではそのような大量虐殺によって190人が死んだ。続いて、村のすべての家屋が燃やされた。ベラルーシではこのやり方で628の村が完全に破壊され、ウクライナでは250に及んだ。

Иди и Смотри (Come and See)

パルチザン戦争

ポーランド、バルカン、ソ連において、ドイツ占領軍は当初から犯罪的な目標を持っていた。「東方総合計画(„Generalplan Ost“)」はスラヴ人口の3000万前後の削減と住民の弾圧を予定していた。ドイツ人たちの措置は野蛮なものとなった。ソ連の占領下の領土における第四学年以上の学校は閉鎖され、ユダヤ人は射殺され、強制労働従事者はドイツ帝国へ送られ、戦時捕虜は非人間的な扱いを受けた。

これらはドイツ占領軍に対する住民の憎悪を増強した。ソ連、ギリシア、(チトー元帥麾下の)ユーゴスラヴィアでは、部分的には共産主義者、部分的には国粋主義者たちのパルチザン軍が戦闘を行っていた。ポーランド国内軍だけがわずかな国外からの援助を望むことができた。絶え間ないドイツ軍へのゲリラ戦で、パルチザンたちはしばしば勝利した。

パルチザンたちはハーグ陸戦規定の意味の戦闘員として評価されず、彼らは戦時捕虜としても扱われなかった。パルチザンの捕虜もしくはパルチザンの嫌疑をかけられたものは処刑された。しばしばパルチザンの攻撃には野蛮な報復、いわゆる「制裁措置(„Sühnemaßnahmen“)」が非戦闘員に対し続いた。終戦間際には、パルチザンたちはドイツ占領軍からより多くの領土を解放した。いわゆるパルチザン闘争の口実の下、国防軍所属者も含め、好ましからざる個々人がより幅広く抹殺された。

ホロコースト

1941年の春にA、B、C、Dの4つが指定された「アインザッツグルッペン(Einsatzgruppen、「行動部隊」)」は、緒戦から直接に、ユダヤ人と共産主義者、もしくはそのようにみなされた個々人に対する大量殺人を前線の背後で開始した。彼らはヒトラーへ、彼の命令の下、定期的にそれについて報告し、ある記述によれば、戦争の最初の年でほとんど100万人を殺害した。国防軍はまた別の行動をとった。いくつかの指揮官は命令を回さず、また別の勢力はSSを積極的に支持した。殺人行動に参加することを拒んだ兵士たちは、通常の場合、処罰を免れても、不利益を甘受せねばならなかった。

国際的に有名なイギリスの歴史家でヒトラーの伝記作者イアン・カーショーは、この戦争の関係を以下のように要約している。

「東方の戦争がジェノサイドへと進んだのは、不慮の出来事ではない。『ユダヤ・ボリシェヴィズム』の抹消というイデオロギー的な目標が中心にあり、絶滅戦争として意識的に構想されたことは決して副次的なものではなかった。それは軍事的な遠征に分かちがたく結びついている。アインザッツグルッペンの進行に伴い、この民族殺戮の本質の始まりは、攻撃の最初の一日目に着手され、また国防軍を通じて支援されていた。ロシア遠征におけるドイツの戦争遂行は、世界がそれを未だかつて見たこともないような、包括的な民族殺戮の政策を展開することを予定していた。ヒトラーは1941年の夏と秋の間に、彼のより狭い取り巻きに、しばしば最も野卑な表現でソ連の打倒による国民社会主義のイデオロギー的な目標について喋っている。同じ月には、彼は再びユダヤ人についての野蛮な一般化を伴う独白を折に触れて表している。それはまさに、反ユダヤ政策の矛盾と明瞭さの欠如から、ドイツ人に占領されたヨーロッパにおける全ユダヤ人の殺害へと具体的な形を取り始めた時期だった」

(Ian Kershaw: Hitler 1936–1945. Deutsche Verlags-Anstalt, Stuttgart 2000, S. 617.)

アメリカのホロコースト研究者、クリストファー・ブロウニングによれば「『バルバロッサ作戦』の準備は重大な事件の連鎖となり、殺人的な『絶滅戦争』は、まずソ連で、間もなくすぐに別の、ヨーロッパ・ユダヤ人に対する体系的な大量殺人へつながるものだった」(Christopher Browning: Die Entfesselung der „Endlösung“. Nationalsozialistische Judenpolitik 1939–1942. Mit einem Beitrag von Jürgen Matthäus. List Taschenbuch, Berlin 2006, S. 318)。それによって、2010年の国際歴史学者委員会の研究の成果が示しているのは、「1941年6月のソ連奇襲の後、外務省がヨーロッパ・レベルの『ユダヤ人問題』の解決に向けたイニシアティヴ」を執ったことだった(Eckart Conze, Norbert Frei, Peter Hayes, Moshe Zimmermann: Das Amt und die Vergangenheit. Deutsche Diplomaten im Dritten Reich und in der Bundesrepublik. München 2010, S. 185.)。ドイツ軍事史研究局の歴史家ロルフ=ディーター・ミュラーは、「別のホロコースト」から二重の観点で書いている。一つは「バルバロッサ作戦」が最初から征服・絶滅戦争として計画され、「スラヴ劣等人種(Slawische Untermenschen)」としてのソ連の市民に対する、ユダヤ人に対して与えられたものと類似の運命として降りかかったこと。もう一つはロシア遠征の始まりから、計画的なユダヤ人の殺害自体が犯罪のフォーカスに据えられていたこと(Rolf Dieter Müller: Der andere Holocaust. In: Die Zeit. vom 1. Juli 1988.)。ドイツ占領期を通して、ドイツに占領された領土の当時のソ連領土では、約300万人のユダヤ人が惨殺された(Ilja Altman: Opfer des Hasses. Der Holocaust in der UdSSR 1941–1945. Mit einem Vorwort von Hans-Heinrich Nolte. Muster-Schmidt-Verlag, Gleichen/Zürich 2008, S. 7, 47.)。

強姦

国防軍

国防兵士による強姦は、2000年の最初まで十分に研究されないままに留まっていた(Birthe Kundrus: Nur die halbe Geschichte. Frauen im Umfeld der Wehrmacht. In: R.D. Müller, H.E. Volkmann (Hrsg. im Auftrag des MGFA): Die Wehrmacht: Mythos und Realität. Oldenbourg, München 1999, S. 719–735, hier S. 733.)。オメル・バルトフは国防軍の、例えば「大ドイツ」師団、第18装甲師団、もしくは第12歩兵師団の進軍が、それらの兵士たちがロシア人の女性と「兄弟のように交流する」ことを妨げたことを思い出している(Rolf-Dieter Müller Hans-Erich Volkmann: Die Wehrmacht – Mythos und Realität. Oldenbourg, München 1999, ISBN 3-486-56383-1, S. 733)。ロシア人の女性との交わりは、彼女たちが「人種的に劣悪(rassisch minderwertig)」であり、そこからドイツの兵士たちにとっては「品位を落とす(unwürdig)」交わりとされていたため禁じられていた。

部隊は最大の自制心を持つよう指示されていた。それによる性病の蔓延の阻止が目的とされた。エージェントもしくはパルチザン活動の疑いが女性たちにはかけられた。強姦を行ったと証明されたドイツ兵たちは、4年から8年の拘留の刑を受けた(西部戦線における衛生兵への判決。Birgit Beck: Vergewaltigungen. Sexualdelikte von Soldaten vor Militärgerichten der deutschen Wehrmacht, 1939–1944. In: Karen Hagemann, Stefanie Schüler-Springorum (Hrsg.): Heimat-Front. Militär und Geschlechterverhältnisse im Zeitalter der Weltkriege. Frankfurt 2002, S. 263, 259.)。ドイツの刑法は戦争中の兵士のためのものだった。

ビルギット・ベックは「乏しい」文献資料の問題を見て取っており、それは明らかに国防軍の「懲戒上官(Disziplinarvorgesetzter)」の権限を持つ人間が、時として、「人種イデオロギー的に動機づけられた征服・絶滅戦争の範囲内で、戦争遂行の確固たる構成要素として、住民に屈辱を与えることの一環として位置づけられた性暴力を、容赦なく追及し罰すること」に関心を示さなかったことにある(Birthe Kundrus: Nur die halbe Geschichte. Frauen im Umfeld der Wehrmacht. In: R. D. Müller, H.E. Volkmann (Hrsg.): Die Wehrmacht: Mythos und Realität. Oldenbourg, München 1999, S. 734.)。2004年に出版された国防軍兵士の性暴力に関する学術論文で、ベックが指摘しているのは、何よりも1941年5月13日の、ソヴィエト市民に対するドイツ兵の犯罪行為を軍事法廷の「訴追の義務」から遠ざけるという「軍事法廷布告」に関するもので、それによって性的な不法行為の刑事訴追の基盤が破壊され、その把握が広範囲にわたって妨げられたという(Birgit Beck: Wehrmacht und sexuelle Gewalt. Sexualverbrechen vor deutschen Militärgerichten 1939–1945. Paderborn 2004, S. 327.)。ドイツ兵によるソヴィエトの女性への強姦は「指示された徴発や略奪に関連した、市民の家屋への宿泊の中で」最も頻繁に行われているという(Birgit Beck: Wehrmacht und sexuelle Gewalt. Sexualverbrechen vor deutschen Militärgerichten 1939–1945. S. 328.)。レギーナ・ミュールホイザーは、独ソ戦を取り扱った2010年の学術論文の中で関連する調査結果を立証し、性暴力で懲罰を受けたか、法的に罰せられた国防軍兵士が最少人数であったと指摘している(Regina Mühlhäuser: Eroberungen. Sexuelle Gewalttaten und intime Beziehungen deutscher Soldaten in der Sowjetunion 1941–1945. Hamburger Edition, Hamburg 2010, S. 145.)。彼女はこのこの状況を、「兵士の強さの表れとしてみなされる」支配的な男性の性行動で、またそれゆえに「国防軍やSS指導部と同様、部隊長たちも性暴力を広範囲にわたって黙認していた」と説明している(Regina Mühlhäuser: Eroberungen. Sexuelle Gewalttaten und intime Beziehungen deutscher Soldaten in der Sowjetunion 1941–1945. Hamburger Edition, Hamburg 2010, S. 154.)。ソ連は戦時中、また戦後に記録された強姦犯罪の事例を発表している。これらは国防軍であろうとSSであろうと警察部隊であろうとこの類の犯罪を犯していたことを明白にしている(Rolf-Dieter Müller Hans-Erich Volkmann: Die Wehrmacht – Mythos und Realität. Oldenbourg, München 1999, S. 734)。加えて、目撃者の記録も公開されている(Catherine Merridale: Iwans Krieg. Die Rote Armee 1939–1945. S. Fischer Verlag, Frankfurt am Main 2006, S. 348; Norman M. Naimark: Die Russen in Deutschland. Die Sowjetische Besatzungszone 1945 bis 1949. Ullstein, Berlin 1997, S. 160.)。

赤色陸軍

キャサリン・メリデールとノーマン・M・ネイマークは、ソ連兵士に強姦されたドイツ人女性の数を数十万人と考え(Catherine Merridale: Iwans Krieg. Die Rote Armee 1939–1945. S. Fischer Verlag, Frankfurt am Main 2006, S. 348; Norman M. Naimark: Die Russen in Deutschland. Die Sowjetische Besatzungszone 1945 bis 1949. Ullstein, Berlin 1997, ISBN 3-548-26549-9, S. 160.)、ハインツ・ナヴラティルとバーバラ・ヨールは200万人ほどと数えている(Barbara Johr: Die Ereignisse in Zahlen. In: Helke Sander/Barbara Johr (Hrsg.): BeFreier und Befreite. Krieg, Vergewaltigung Kinder. Verlag Antje Kunstmann, München 1992, S. 46–73, hier S. 49; Heinz Nawratil: Massenvergewaltigungen bei der Besetzung Ostdeutschlands durch die Rote Armee. In: Franz W. Seidler, Alfred de Zayas: Kriegsverbrechen in Europa und im Nahen Osten im 20. Jahrhundert. Mittler, Hamburg 2002, ISBN 3-8132-0702-1, S. 122.)。ヨーゼフ・ゲッベルスの下でナチのプロパガンダは、「アジア人の群れとしての赤軍のイメージを強化する」ため、ソヴィエト兵士をドイツの腐女子を数えきれないほど辱めた強姦者としてキャラクター化した(Catherine Merridale: Iwans Krieg. Die Rote Armee 1939–1945. S. Fischer Verlag, Frankfurt am Main 2006, S. 348 f.)。


ソヴィエト戦争捕虜の取り扱い

1929年7月27日の戦時捕虜の取り扱いに関するジュネーヴ条約は、署名者には、加盟していない諸国家も含めた拘束力を持っていたにも拘らず、ソヴィエト兵士に対しては適用されなかった。


ジュネーヴ条約

【第八十二条】

(条約の尊重)本条約の規定は一切の場合締約国に依り尊重せらるべし

戦時に於て交戦者の一が本条約の当事者たらざる場合と雖も本条約の規定は之に参加せる交戦者の間に拘束力を有すべし


国際慣習法とみなされる1907年のハーグ陸戦規定(HLKO)によっても、ソヴィエト軍の戦時捕虜に属するものはHLKOに則って取り扱われねばならず、特に1941年7月17日にソ連が声明を出したのは、「相互主義の観点から、これまで署名していなかったHLKOを順守することを望んでいる」ということで、しかし1941年8月21日の「ヒトラー自身に公式化された回答文書」の中で、ドイツ側は「この戦争の舞台において、戦時国際法の規則を守るのはヒトラーの利益ではない」という理由で拒絶している(Rüdiger Overmans: Die Kriegsgefangenenpolitik des Deutschen Reiches 1939 bis 1945. In: Die Deutsche Kriegsgesellschaft 1939–1945. Band 9. Zweiter Halbband: Ausbeutung, Deutungen, Ausgrenzung. Im Auftrag des Militärgeschichtlichen Forschungsamtes herausgegeben von Jörg Echternkamp. DVA, München 2005 (= Das Deutsche Reich und der Zweite Weltkrieg Band 9/1–2), S. 729–875, hier S. 799 f.)。すでに1941年6月16日に「戦時捕虜についての決定(„Bestimmungen über das Kriegsgefangenenwesen“)」が指針を定めていた。「ボリシェヴィズムは国民社会主義ドイツの不倶戴天の敵である。そこから、不服従の最も小さな前兆、特にボリシェヴィキの扇動者に対しては容赦なく精力的な断固たる手を取ること。能動的・受動的なあらゆる抵抗の余すことない排除」(Gerd R. Ueberschär, Wolfram Wette (Hrsg.): Der deutsche Überfall auf die Sowjetunion – „Unternehmen Barbarossa“ 1941. Frankfurt am Main 1991, S. 261 (Dok. 9))。OKWからは、1941年9月8日、より先鋭化させた「ソヴィエト戦時捕虜に対する取り扱いについての命令(„Anordnung für die Behandlung sowjetischer Kriegsgefangener“)」が命じられていた。「ボリシェヴィキの兵士は、ジュネーヴ条約に基づく、あらゆる名誉ある兵士としての取り扱いを喪失する……ソヴィエト戦時捕虜に対する武器の使用は、通例的に、適法であるとみなされる」(Gerd R. Ueberschär, Wolfram Wette (Hrsg.): Der deutsche Überfall auf die Sowjetunion – „Unternehmen Barbarossa“ 1941. S. 297 ff. (Dok. 26))。SS行動コマンドが政治コミッサールやその他の「政治的に容認できない(politisch untragbar)」個々人を探して捕虜収容所を捜索する、いわゆる「コミッサール命令(Kommissarbefehl)」はそのため発布された。これらの捕虜は「特別処置(Sonderbehandlung)」が取られ、それが意味するのは、彼らが強制収容所に収監され、そこで大抵の場合は射殺されるということだった(Christian Streit: Keine Kameraden. Die Wehrmacht und die sowjetischen Kriegsgefangenen 1941–1945. Neuausgabe. Dietz, Bonn 1991, S. 83 ff.)。

最初の一か月の大規模な包囲戦の後のソヴィエト戦争捕虜は10万人ほどで、その多くは露天の、いわゆる「家畜収容所(Stammlager, Stalags)」や通過収容所(Dulag、そこで彼らはしばしば「一時的な通過点でなく、長期的に収納されることになった」)に置かれた(Rüdiger Overmans: Die Kriegsgefangenenpolitik des Deutschen Reiches 1939 bis 1945. S. 804.)。1941年12月の中頃までに、350万人の赤軍兵士がドイツの捕虜となっていた(Rüdiger Overmans: Die Kriegsgefangenenpolitik des Deutschen Reiches 1939 bis 1945. S. 805.)。イデオロギー的な基準と戦時経済的な計算に基づき、ユダヤ人や、「人種イデオロギー的に形作られた食糧ピラミッドにおける最下端の、絶滅されるべき人口グループの、人種的に好ましからぬ人間」に等しいと「ソヴィエト戦争捕虜は位置づけられた」(Rolf-Dieter Müller: Der Zweite Weltkrieg 1939 1945. Klett-Cotta, Stuttgart 2004, S. 175 f. [= Gebhardt. Handbuch der deutschen Geschichte, hrsg. v. Wolfgang Benz, Band 21].)。陸軍の計理総監エドゥアルト・ヴァグナーが、ハンス・フォン・グライフェンベルク少将からソヴィエト戦争捕虜に対するある程度の十分な栄養補給の必要性について言及された際、彼は1941年11月13日、それが一般的な食糧状況から不可能であり、簡潔にこう述べた、「捕虜収容所内の働いていない戦争捕虜は餓死するだろう」(Rüdiger Overmans: Die Kriegsgefangenenpolitik des Deutschen Reiches 1939 bis 1945. S. 809.)。関連するクリスティアン・シュトライトの学術論文によれば、1942年2月までに200万人のソヴィエト戦争捕虜が命を落とし、その多くは餓死によるものだった(Christian Streit: Keine Kameraden. Die Wehrmacht und die sowjetischen Kriegsgefangenen 1941–1945. S. 128.)。東方占領領土相アルフレート・ローゼンベルクは、OKW長官カイテル将軍への手紙の中で、ドイツの戦争経済には捕虜になった赤軍兵士が不足していると苦情を言っている。

「ソヴィエト戦争捕虜の運命は……最大サイズの悲劇だ。360万人の戦争捕虜のうち、今日では残り数十万人ほどが労働能力を有している。その大部分は飢餓状態だ……ドイツの経済、兵器産業は捕虜の取り扱いの間違いのため、報いを受けている」(Gerd R. Ueberschär, Wolfram Wette (Hrsg.): Der deutsche Überfall auf die Sowjetunion – „Unternehmen Barbarossa“ 1941. S. 345 f. (Dok. 43); またRüdiger Overmans: Die Kriegsgefangenenpolitik des Deutschen Reiches 1939 bis 1945. S. 816.)

第一に、増加したドイツの戦争経済への労働配置を通じて、捕虜の死亡率は下降した。深刻な経済的な調査によると、終戦までに250万から330万人の国防軍に捕らえられたソヴィエト戦争捕虜が死亡した(Christian Streit: Keine Kameraden. S. 10 u. いたるところで計算されているのは、「1944年5月1日からソヴィエト戦争捕虜の所在の明らかになっている」ところでは、330万人のソヴィエト捕虜が死亡している。Alfred Streim: Sowjetische Gefangene in Hitlers Vernichtungskrieg. Berichte und Dokumente 1941–1945. Müller Juristischer Verlag, Heidelberg 1982, S. 244 ff., 戦後の関係調書によれば、最低でも〔シュトライトの強調では〕253万人が犠牲となっている。Rüdiger Overmans: Die Kriegsgefangenenpolitik des Deutschen Reiches 1939 bis 1945. S. 820, 様々な記録や方法による比較を通じた最新の研究では、ドイツ人に捕らえられた赤軍捕虜の死亡者の数は250万人から300万人の間で、「230万から280万人――530万人以上のソヴィエト戦争捕虜の、ほぼ半分――が生き延びた」という)。イェールの歴史家ティモシー・スナイダーによれば、これらの人々の大部分は「惨殺されることがあらかじめ計画されていた、もしくは、彼らが餓死へと追いやられるという意図的な目的があった。仮にホロコーストがなかったとしても、これが近代におけるもっとも重大な戦争犯罪として記憶されるだろう」(Timothy Snyder: Der Holocaust. Die ausgeblendete Realität. In: Eurozine. 18. Februar 2010, In: Transit. Heft 38, 2009, S. 6–19, Zitat S. 9.)。現代史研究所の歴史家クリスティアン・ハルトマンは、事実の内容を、国防軍の保護下で「300万人ほどのソヴィエト捕虜が餓死し、凍死し、伝染病で死ぬか、もしくは射殺された」とし、「国防軍の最大の戦争犯罪」と定義している(Christian Hartmann: Unternehmen Barbarossa. Der deutsche Krieg im Osten 1941–1945. München 2011, S. 65.)。

ドイツ戦争捕虜の取り扱い

ソヴィエト戦争捕虜の状態にあるドイツ人の環境もまたカタストロフ的だった。独ソ戦の最初の一か月で捕虜になったドイツ兵はしばしば政治コミッサールの指示、もしくは狂信的な士官の命令で即座に射殺された。この実行は戦争の広い過程の中で少なくなっていき、これは恐らくドイツの「コミッサール命令」への反動や、激化するソヴィエトのプロパガンダを緩和させるためだった。

厳しい気候条件、国土の破壊や、住民も同様に苦しんでいた劣悪な生存条件が、極めて高いドイツの戦争捕虜の間の死亡率の原因となった。数千人が後方地域の収容所への輸送中に栄養失調や体力の消耗によって死亡した。宿舎、劣悪な医学処置と糧食供給、そのため労働環境は極端に厳しいものになった。306万人のドイツの戦争捕虜のうち、ほぼ110万人が命を落とした(Albrecht Lehmann: Gefangenschaft und Heimkehr. Deutsche Kriegsgefangene in der Sowjetunion. C.H. Beck, München 1986, S. 29.)。1941年と42年に捕虜になった兵士たちは90から95パーセントが死亡した。1943年の捕虜は、60から70パーセントが死亡し、1944年には30から40パーセントが死亡し、1945年の捕虜は20から25パーセントほどだった(Christian Zentner: Der Zweite Weltkrieg – Ein Lexikon. Heyne, München 1998.)。1949年以降、ソ連における一般的な状況は向上し、捕虜収容所における生存環境への肯定的な効果を及ぼし、死亡率は通常の規模へ軽減されていった。

赤軍のドイツ帝国東方への進軍により、しばしばヒトラー・ユーゲントもしくはドイツ女子青年同盟の所属員、もしくは関与していない市民までもが白昼堂々捕縛され、東方へ強制労働のため送り出された。ソ連における戦争捕虜は安価な労働力であり、荒廃させられた国の再興に力を貸した。1950年までに戦争捕虜の大部分は解放され、「戦争の行動に関連する、事実上、もしくは想定上の罪」の判決を受けた「犯罪的分子」だけが取り残された(Albrecht Lehmann: Gefangenschaft und Heimkehr. Deutsche Kriegsgefangene in der Sowjetunion. C.H. Beck, München 1986, S. 28–37, Zitat S. 29.)。彼らの最終的な人数は1万人ほどで、1955年と56年の年の変わり目の連邦首相アデナウアーの対話によって釈放された。


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