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南海ホークスの編集履歴

2019-10-29 04:37:37 バージョン

南海ホークス

なんかいほーくす

大阪球場を拠点としていたプロ野球球団。親会社は南海電気鉄道。1989年に「福岡ダイエーホークス」に球団名を変更し、福岡へ本拠地を移動した。

福岡ダイエーホークス

福岡ソフトバンクホークス


歴史

この記事では一時期の名称である「近畿日本軍」「グレートリング」についても合わせて記述する。


創設から終戦まで(1938~1944)

巨人阪神から少し遅れた1938年に、「南海軍」として誕生した。

親会社は南海鉄道(のちの南海電鉄)。

同年8月27日に公式戦に参戦し、これが球団の始まりとなった。


1939年鶴岡一人(当時は「山本一人」)が入団し、いきなり本塁打王を獲得。しかし、戦争に召集されたため

またしても低迷してしまう。


以後、主力選手が次々と召集されたためにチームの戦力は落ちてしまい、1943年には球団初の最下位に沈んでいる。


1944年には、親会社の南海が関西急行鉄道と合併し近畿日本鉄道(近鉄)となった。

この年は戦局の泥沼化により野球を続けられる状態ではなかったため、この年の夏季を以って戦前のプロ野球は終わった。


なお、近鉄バファローズは近鉄が南海から分離した後に誕生したため、この年の成績は近鉄の歴史に含まれない。


戦後まもなく(1946~1949)

1946年、プロ野球の再開によりリーグ復帰。同年初優勝。この年近畿グレートリング(近畿日本グレートリングとも?)を名乗る。

翌1947年、近畿日本ホークスに改称。当時の近畿日本鉄道の略称は近畿日本から来る「近日」で、球団も「近畿」「近日」と呼ばれた。「近鉄」の名が使われるようになったのは翌1948年の近鉄百貨店改称からであり、更に翌年の1949年に設立されたバファローズの前身「近鉄パールス」は発足当時から近鉄の名を使用している。


なお、同年に近畿日本鉄道は難波営業局と天王寺・上本町両営業局の分離を行うこととなり、1947年6月に難波営業局は南海電気鉄道として再発足した。これに伴い球団の経営権も新・南海が獲得し、同月南海ホークスを初めて名乗ることになる。


グレートリング時代の1946年より長く山本一人(後に結婚前の鶴岡一人に戻す)が監督を務めた。


2リーグ分裂、鶴岡の時代(1950~1968)

2リーグに分裂後はパシフィック・リーグ(パ・リーグ)に加盟。奇しくも分離後に発足したパールス後のバファローズとは同じリーグに所属した(関西の鉄道系4球団の内、阪神を除く3球団がパの所属である)。


1951年からリーグ3連覇を達成するが、日本シリーズでは何れも巨人に敗北。1954年野村克也が入団。

1959年には、杉浦忠の活躍でリーグ優勝。日本シリーズでも4連勝のスイープで巨人を一蹴した。日本シリーズでの巨人との対決は通算5度目であったが、念願のシリーズでの初勝利となり、同時に2リーグ制で初の日本一となった。

なお、前年に妻を亡くした山本監督は、姓を元の鶴岡に戻したが、鶴岡姓で戦った初年度がちょうど日本一を奪還した年でもある。


世間が東京オリンピックに沸いた1964年は、助っ人投手ジョー・スタンカの大活躍でリーグ優勝。

御堂筋決戦と呼ばれた阪神との日本シリーズは、4勝3敗で5年ぶりの日本一に輝いた。


1965年限りで鶴岡は辞任を表明し、蔭山が監督になることが決まっていたが指揮を執ることなく急死したため、

鶴岡が留任することとなった。


そして1968年限りで今度こそ勇退。終戦直後から足掛け23年に渡る鶴岡政権が幕を閉じた。


野村兼任監督(1970~1977)

1969年飯田徳治が監督に就任するもわずか1年で辞任。


1970年からは野村克也が34歳で選手兼任監督に就任。


前後期制がスタートした1973年に前期優勝の阪急を破り総合優勝を決めたが、これが南海として最後の優勝となった。


1977年は総合で2位につけるも、この辺りから野村沙知代が介入することが増え、球団は公私混同を理由に野村を解任することに踏み切った。

野村は翌年選手一本でロッテオリオンズに移籍。その後は福岡から埼玉に移転した西武ライオンズに移籍し1980年限りで引退。


野村去りし後(1978~1988)

野村の後任となったのは広瀬叔功だったが野村の残した成績に遠く及ばず。


1985年は年明け直後の1月4日久保寺雄二が急死。その影響もあって最下位に終わる。


1988年には杉浦が監督に就任。門田博光が40歳にして44本塁打を打って本塁打王に輝き、「不惑の大砲」と呼ばれた。

しかし4月23日に南海の川勝傳オーナーが死去。

「わしの目が黒いうちは絶対に南海は身売りさせんぞ!」と言っていたが、ダイエーへの売却が発表された。

なお、10月19日には阪急もオリックスへ売却となり、パ・リーグの老舗2球団が相次いで身売りされることとなった。


結局野村の退任後は優勝はおろか1度もAクラスに上がることなく、連続Bクラスは1997年まで20年に渡り続いた。

(ちなみに広島東洋カープは1998年から2012年まで15年連続Bクラス。)


本拠地が大阪から福岡に変わり、元号が平成に変わった1989年より福岡ダイエーホークスとして新たなスタートを切った。


その後

南海時代の本拠地だった大阪球場は老朽化により1997年限りで閉場となり取り壊された。現在は「なんばパークス」が置かれ、当時の歴史を残す資料館が置かれている。

だが頑なにこの人の資料を置かないのはいかがなものだろうか?あぶさんすら置かれているのに。

※一説に、後妻であるあの夫人が電話で資料を載せないように頼んだとか、氏本人が「不義理をかけたのでこちらから縁を切る形にしてもらった方が良いだろう」と考えたとか、色々その理由が言われている。

 また、あの人の先妻は南海電鉄の重役の娘であるとか、あるいは後援会長ないし有力者の娘であるとされる。その先妻を裏切る形で後の後妻との不倫を行い(なお後年の本人の証言によると、先妻から不倫を始めたと語るが、ワンサイドの主張なので推して知るべしであろう)、それに電鉄幹部(特に川勝社長)が激怒したせいであると言われている。

 なんばパークス建設時には川勝傳社長の長男である川勝泰司・元南海社長及び会長が会長職として健在だった他、泰司氏の後に後を継いだ山中淳元会長がかなり後年(後妻の死去年前後)まで不動産開発関連の最高責任者であったことなどが関係していると考えられる。


2006年オフに南海時代から在籍し続けた大道典良(大道典嘉)が戦力外通告を受け、これにより南海時代からホークスに在籍した選手はいなくなった。

2007年限りで大道と同期の吉田豊彦が引退し、大道が最後の南海戦士となったが2010年限りで引退したため、ここに南海戦士はいなくなった。

なお、大道は南海時代には一軍出場はなかったため、一軍出場経験がある人物に限れば前述の吉田が最後となる。


関連動画

南海ホークスの歌

1952年(昭和27年)発表。歌は灰田勝彦

球団売却の1988年まで使用された。


関連タグ

パシフィック・リーグ(パ・リーグ)


南海ホークス福岡ダイエーホークス福岡ソフトバンクホークス


レールウェイズファミスタシリーズに登場する架空の球団で、南海・阪急・近鉄の混成チーム。

いずれも関西の私鉄が親会社だったが、現在は球団を保有していない。


あぶさん水島新司の漫画。背番号90はあぶさんに配慮して長らく欠番だったが、現在はスアレスが着用。


間寛平:南海時代からのホークスファン。


関連タグ

南海電気鉄道

南海キャンディーズ

なんばパークス

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