概要
人間とは隔たりを設けた別世界に暮らし、言語でコミュニケーションを図り、一定の区間にコミュニティを築いて生活するなど、大方の生活様式は人間のそれと同様である。
しかし人間と異なり念動力を使うことが可能な他、一部の者は神への転生が出来る資格を持つなど、性質、能力は人間を含めたあらゆる生物を超越しているといえる。これはバケモノがこの世の存在の中で八百万の神に最も近いためである。
太古には対を成す存在と言える人間と交流を持ち自分らの文化を伝え彼らの発展に貢献したとされるが、とある理由から次第に距離を置くようになり、現在では一切として人間との袂を分かっている。
生活様式
上記の通り社会形態は人間社会と類似しており、特定の地域にコミュニティを形成し、そこに「宗師」という住民達を束ねるための長を設けている。宗師はコミュニティの中で最も有徳であると周囲から敬慕されたバケモノが就任でき、同時に八百万の神への転生が可能となる特権を得られる。就任から転生までのタイミングは特に問われず、中には宗師の座を得てから間もなくして転生したバケモノも存在した。尚、バケモノ界に於けるコミュニティは地域ごとに異なる文化が発達していることから、単なる集落というよりは人間界でいうところの国家に値するのかも知れない。
以下のバケモノ社会に関する記述はコミュニティが物語の主要舞台の一つである渋天街のみしか明示されていないことから、飽くまで渋天街のみでしか存在しない可能性のある文化や制度等が記されていることを留意されたい。
文明の発展に関しては人間界と比べると最大都市と謳われる渋天街ですら高層ビル等の近代的な建物はなく(見た感じ建造物は大理石のような天然資源を主に活用していると推察される)、道路もアスファルトやコンクリートで整備されていないなど、クラシックな印象がある。バケモノ社会には伝統といった古からあるものを重んじる保守的な文化が根付いている傾向がある節がある他、念動力の行使もできることから、科学技術を発達させる必要はなかったためであると思われる。また自動車や電車、自転車といった乗り物も存在せず、故にバケモノの移動手段は専ら徒歩である(他地域の宗師謁見の旅も、熊徹・九太一向は徒歩で移動していた)。一方、電気や水道(道中にマンホールが確認出来る)は供給、設備されているなど、人間社会と共通しているところもある(発電と水道開通の原理自体は人間界の技術と同様かは不明)。ただし電化製品は普及していないと見られる。
渋天街では教育施設施設も確認されているが、現代日本と同じく義務教育制かは不明。必修科目かは定かではないが、そこでは人間について学ぶ授業がある。何故交わりを絶った人間のことを学んでいるかは定かではないが、渋天街は人間社会と共通する部分もあることから街の発展のために大なり小なりバケモノ界より発達した人間界の技術、制度等を参考にしている可能性があり、人間界に精通する者を育成する目的があると考えられる。また人間に対する知識を身に付けることによって、バケモノ界に人間、若しくはそれに類する存在が矢鱈に侵入するのを阻む意図もあると思われる。他にも、上級階層出身の一郎彦、二郎丸と一般階層と見られる子供たちが一緒に通学している描写があることから、少なくとも幼少年代の者へは平等に教育を受ける権利が適用される模様。更に極めて優秀と認められた者へは、将来有望な人材へと育て上げるための高等教育を受講することも出来る。尚、過去のバケモノと人間との関わりについての史実も学ぶと思われるが、熊徹はバケモノと人間の間柄が断絶した理由を知らなかったことから、彼が青少年期の頃には教育制度が導入されていなかった可能性がある。
また猪王山率いる「渋天街見廻組」なる組織が渋天街の警察活動の一部を担っていることから、人間界に於ける警察組織に値する団体が存在することも伺える。活動内容は人間界の警察のような犯罪者の取り締まりかは不明だが、渋天街程の大規模な都市ともなれば、例え犯罪者が発生しなくても治安維持のための組織が必要となることは言うまでもない。
文化や価値観に関しては、根本から人間との違いが幾つか見受けられ、その代表例の一つに文字の軽重が挙げられる。バケモノ社会は思想を何よりも尊ぶ慣習故に文字は死物と蔑まれ、そのようなもので思想を表せる訳がないという通念が罷り通っている。その割に渋天街の大通りの門の扁額にはデカデカと「渋天街」と書かれていたりする。飽くまでデザインとして採用しているだけの可能性がある他、後述の事情から住民たちはある程度文字の読解も可能であることから、街の名前が文字で著された程度で有れば許容範囲なのかも知れない。また教育施設の人間に関する授業では文字や文章についても学び、そこで最低限の読み書きは可能な程度の文法力を習得することが出来る。更に高等教育を受ける者は、並の人間と同等レベルの読解力が求められる。その一人である一郎彦は、「鯨」という文字を解読していた。
また人間と比べると、全体的に思想は保守的な節があり、街並みがクラシックであることや、伝統的な芸能や技術が廃れることなく継承されていること、遥か昔の先人達の教えが現在まで守り通されていることなどからそれが伺える。猪王山が渋天街の次期宗師候補として住民たちから多大な支持を受ていたのはそのためであろう。現に現実の人間社会では、日本を含めた世界各国で伝統工芸品や文化財に対する関心の低下などから、価値の高さに比例してそれらを受け継ぐ後継者の不足が問題となっている。
ネーミングに於いても人間との差異が見られ、「熊徹」、「猪王山」のようなモチーフの動物とその者の性分が組み合わさった名前や、「九太」、「一郎彦」、「二郎丸」といった生まれた順や出会った際の年齢と願掛けを込められた一字を付けられた名前などがある。いずれにしても人間界のそれとはかけ離れており、実際九太も熊徹からその名を新たに付けられた際は「何だその変な名前!?」と内心動揺しており、楓に対しては本名の蓮で通していた。
食文化は人間と然して変わらず、熊徹は自宅で飼育している鶏が産んだ卵を材料にした卵かけご飯をいつも朝食にしている。他にも鍋料理やパフェ、スイカや干物といった料理やスイーツ、果実、飲み物に於いては、酒類や茶が確認出来る。九太のようにバケモノ界で暮らしていた人間が問題なく食していたことから、バケモノの食事は人間が供しても一切問題ないことは明確である。
服装は個々に多少の違いはあれど、男性は年代問わず七分丈のゆったり目のズボンを履き、腰部には帯を締め、その中にシャツの裾を入れるのが通例である。一方女性は熊徹の門下生を除いてそういった服装はしておらず、中には御洒落に着飾っている者もいる。またモブの中には眼鏡を掛けた者も確認出来る他、渋天街は武を重んじた街であることから刀剣を携帯している住民もいるが、宗師・卯月によって抜刀は禁止されている。
他にも、次期宗師を決する熊徹と猪王山の闘技試合では、「十拍の間失神したら敗北」というルールがありながら、先にダウンした熊徹が九太の叱咤激励により立ち上がるまで明らかに10カウント過ぎているにも関わらず試合が持ち直され(カウントを数えていたレフェリーは九太が乱入した際に予期せぬ事態に困惑し途中でカウントを止めている)、その後猪王山がダウンした際にはきっかり10カウント数えて試合を終了させるという明らかに不審極まりない光景であるにも関わらず、誰一人として疑問や抗議をする者はおらず熊徹の勝利という形で決着が付いた場面がある。
能力については、再三記述するように瞬間移動、幻術、変身などといった念動力が使用できる。しかし劇中では宗師といった上位クラスのバケモノしか披露しておらず、それ以下の層のバケモノの使用は確認できない。最も、それでもバケモノらは問題なく生活していることに加え、渋天街は武を重んじた街であることから、そもそも念動力は余り重要視されていない故に殆どのバケモノには必要ないと考えられる。その念動力を極めたバケモノですら他者を多少驚嘆させる程度にしか使用していないことからも、それを伺わせている。ただし人間界を訪れたバケモノが周囲の人間たちに一切訝しがられることなく徘徊していることから、恐らく人間に存在を悟られないようにする程度には念動力を活用している可能性はある。
これも念動力の一種かは不明だが、自らの姿を元となった獣の姿に変貌させることもでき、熊徹と猪王山はこれを戦闘に応用している。この形態は通常時よりもパワーが増強される反面、スタミナの消耗が激しい。
体躯に関しては個人差がかなり激しく、熊徹や猪王山の様な並外れた巨躯をした者もいれば、多々良、卯月のように子供かそれ以下の小振りな身長しかない者もいる。ただし体格と武芸の実力は比例しないようで、卯月は並の子供に満たない程の背丈しかないにも関わらず、渋天街史上最強の武人とまで謳われる程の実力者であることが、それを実証している。
以上のことから人間社会と共通するところは幾つか見受けられるが、神に近しいクラスに位置する故に肉体、精神、能力といった全てのポテンシャルが人間を上回っていることから、技術を発達させずとも不便さを意に返さず自分らの文化と徳を何よりも大事にする種族であることが伺える。
バケモノのような優れたポテンシャルを持たない故に煩悩や執着心に惑わされやすく、技術を発達させ不便を解消するなどしてそれを補おうとする反面伝統といった古い文化を蔑ろにしてしまいがちな他、時として自らの弱さを攻撃に変えてしまうこともある人間とは対象的であると言える。
ただしバケモノたちは自分らと人間の関係性を「互いに響き合っている」と表現していることから、隔絶されながらも何だかんだでバケモノと人間は切っても切れない間柄にあるのかも知れない。
人間に対する見解
太古こそ人間と交流していたバケモノだが、現在は互いに無干渉な状態が永きに渡って続いている。
その要因は、「闇」と呼ばれるバケモノとは違った念動力を発揮する人間が存在したためである。
上記の通り、バケモノは人間の上位互換といえる種族であることに加え、バケモノ社会には人間を下等動物と見做す気風もある故に、人間にとってバケモノとの交流は自分らの至らなさ、不甲斐なさを思い知らされることから陰鬱になりやすかったと推測できる(彼がその好例であると言えよう)。
そのため当時の人間の中にはバケモノの存在を快く思わない者もいたと思われる。そしていつしか「闇」の異能を宿す者が、バケモノとの交流により闇が深まったことで強化された異能を凶器にバケモノたちに危害を加え初め、バケモノの人間に対する不信感と畏怖が現れたと考えられる。
尚、この闇の異能はバケモノが扱う念動力よりも遥かに強大なパワーを誇り、ある闇の異能者が暴走した際には世界が滅亡の危機に瀕したことから、太古の闇の異能者たちが凶行を働いていた際には人間界、バケモノ界共に相当な打撃を受けていたと想像出来る。
闇の異能力の発現条件は不明だが、バケモノから念動力を教わるといった手段で宿す可能性はなくもない(ただしとある人物は念動力を一切伝授されていないにも関わらず異能を発現していた)。
現在、バケモノは人間との交流は絶ちつつも存在そのものは把握している一方で、人間側はバケモノとの交流の史実があったにも関わらず、その存在が一切として認知されていない。恐らくは人間側にバケモノの存在が知れ渡りすぎると「闇」の異能を持つ者が再び暴走してしまうリスクがあることから、当時の人間たちがバケモノに関する記録を抹消し後世に伝えないようにした可能性が考えられる。
このためバケモノ社会に於ける人間の評価はお世辞にも良いとは言い難く、バケモノと人間は分かり合えないという価値観が一般論である節がある。人間に対して慈心を持つバケモノですらバケモノの街に迷い込んで来た人間の子供をそのまま住まわせようとせずに直様人間界に帰そうとしていたことや、九太が渋天街の住民らから評価されるようになってからも「バケモノ界に人間を受け入れることは間違い」と唱えた議員ようにバケモノ社会に人間が在住することを快く思わないバケモノもいたことから、その根強さが窺い知れる。
しかし慣習や周囲の意見をものともせず確固たる意志で決断、行動するバケモノとそれに育てられた人間が、互いの切磋琢磨によって多大な功績を挙げるという慶事が起こってからは、その話を聴こうと証人二人が開いた店に多くのバケモノが集うなど、それまでのバケモノに於ける人間への見解が見直され始めていることが示唆されている。
抑世界に大打撃を与えたであろう闇の異能者が現在は全くとして姿を現していないのは、信頼関係を築いたバケモノと人間に齎される偉力によって制されたことが示唆されることから、必ずしも両者は分かり合えない訳ではない関係性であると言える。
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