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富士の編集履歴

2011-11-26 00:01:10 バージョン

富士

ふじ

日本における最高峰である富士山の通称。また、それにちなんでいろいろなものの名称となっているが、本項目では列車愛称としての「富士」について説明する。
  1. 富士山のこと。
  2. また、1.に似た形態の円錐形の山についても「○○富士」と呼ばれることがある。郷土富士(きょうどふじ)、ご当地富士
  3. 静岡県の都市である富士市(ふじし)の通称。また、同市には「富士」駅が存在する。
  4. 山梨県に路線を有する中小私鉄富士急行(ふじきゅうこう)
  5. 自動車メーカー、富士重工(ふじじゅうこう)
  6. 日本軍戦艦「富士」のこと。日本最初の戦艦であった。
  7. 東京と九州を結んでいた列車の名称。

ここでは、列車名の「富士」について解説する。


特急「富士」

栄光の特急「富士」


列車名の由来

列車名の由来は日本を代表する山である富士山からとされるが、1929年9月に鉄道省が公募により初めて列車愛称を命名したものである。現在記録されている限りでは「さくら(当時は『』と表記)」と並び、日本最古の列車愛称である。


日本初の特急列車

この列車のルーツは1912年に新橋(のちの汐留) - 下関間で運転された1・2等特別急行列車「第1・第2列車」である。この列車は下関釜山行きの鉄道連絡船と接続し、朝鮮満州中国・さらにはシベリアを経由してパリロンドンに至る国際連絡運輸の一翼をになう列車であった。そのため車内設備は当時の日本の列車としては最高水準を誇り、それまで和食が一般的だった食堂車に加えて、洋食を提供する専用の食堂車を連結していた。最後尾には展望車も連結されていた。

1942年11月、関門海峡をくぐる関門トンネル開業に伴い長崎駅まで延長。上海航路への接続も取ることになったが、ほどなく太平洋戦争大東亜戦争)の戦況悪化に伴い博多駅までに短縮、さらに1944年には廃止に追い込まれた。


戦後における「富士」

戦後における「富士」の名称は、戦前に日本を代表する列車名称であったことから「それにふさわしい列車が出るまでは」と使用に慎重な姿勢が続いた。


しかしながら、1950年には富士山麓電気鉄道(→富士急行)に直通する電車準急に一時期「富士」の愛称をつけていた。が、先ほどの理由もあってか、すぐに愛称を変更したようである。当時の使用車両は国鉄の70系および80系電車であった。


1961年10月1日東京 - 神戸・宇野間の151系電車特別急行列車に「富士」と命名。

つばめ」「はと」「こだま」と並び東海道本線の昼行特急列車群の一翼を担う。

ここで特急列車としての「富士」が復活を遂げることとなる。当時の「富士」は神戸・宇野方面にクロ151形・パーラーカーを連結、東海道特急にふさわしいグレードの編成であった。また、宇野発着の列車は宇野で宇高連絡船に接続しており、四国への連絡列車的な性格も兼ねていた。


1964年9月30日には、翌日に控えた東海道新幹線開業により、東海道本線の電車特急は新幹線列車へ移行し、全廃されることとなった。

これにより、「富士」の愛称は九州ブルトレへと引き継がれていくことになるのである。


寝台特急「富士」

1964年10月1日以降、「富士」は日豊本線直通で東京 - 大分間を結ぶ寝台特急ブルートレイン)となりそれ以前から既に運行されていた東京-西鹿児島間急行「高千穂」の上位格の列車となった。


はやぶさ」および「みずほ」の項でも述べるが、

大分発着であった一部の「みずほ」が分離される形で寝台特急「富士」は誕生している。

このとき既に「みずほ」には20系が充当されていたため、「富士」は運転開始当初より20系を使用した寝台特急となった。

なお、運転形態については大分「みずほ」のそれを引き継ぐ形となったため、14編成のうち後ろ6両は下関で切り離し、前の8両が大分へ向かう形となった。


1965年には運転区間を西鹿児島まで延長、日豊本線を全線走破することになり、運行距離は1574.2kmに延びた。これは九州ブルトレ、なかんずく日本国内の定期列車としては最長距離を運行する列車で、1980年に「富士」自身が運転区間を短縮するまで破られなかった。


1975年には24系24形を導入、翌年にはこれを24系25形とし2段B寝台として居住性の向上を図った。またA寝台も1人用個室となった。


さて、「富士」といえば戦前期の特急に使われていたことで有名な、富士山をかたどったテールマークが特徴であった。戦後のブルトレ化で機関車牽引となったためにヘッドマークが用意されたが、これは一般的な円形のマークであった。


1985年に東京-下関間の牽引機がEF66に変更されると、戦前期のテールマークと同じデザインのヘッドマークが用意された。


また、1986年には4人用個室「カルテット」が登場する。しかし同年のダイヤ改正で「富士」は「はやぶさ」と共通の編成となったため「カルテット」は「あさかぜ1・4号」に譲る形となった。


JR化後

1989年には1人用B個室寝台「ソロ」を投入、さらに1990年には運転区間を南宮崎に延長して更なる旅客の獲得を模索するも、90年代以後は利用者の低迷が続き、1993年には食堂車が営業を終了、1997年には再び大分発着に短縮されてしまう。


1999年には系統整理により、東京と九州を結ぶ「九州ブルトレ」は「さくら・はやぶさ」と「富士」だけになってしまった。もともと「はやぶさ」と「富士」は共通の車両で運用していたため、結果的に「富士」は「24系25形+14系15形」の編成で運行されることとなった。


しかしその後も利用者の低迷は続き、2005年に「さくら」が廃止されると全車14系15形に変更の上「はやぶさ」との併結列車となる。


2009年3月13日には「はやぶさ」とともに廃止となり、東京から九州へ向かう寝台特急「九州ブルトレ」がここに消滅した。なお、ラストランは上り、下りともに大幅に遅れてしまった。


日本の鉄道史に燦然と輝くネームドトレイン「富士」。

次にその栄光の名を与えられるのは、果たしてどのような列車なのであろうか。


関連タグ

JR九州

はやぶさ(列車)みずほさくら:姉妹列車。いずれも2011年に新幹線愛称として返り咲いた。

さらば、九州ブルトレ

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