曖昧さ回避
- 高知県競馬組合に所属した競走馬。負け続けて有名になった。
- ゲーム「ウマ娘プリティーダービー」に登場する1.をモチーフとしたウマ娘。→ハルウララ(ウマ娘)
- Fate/GrandOrderに登場する概念礼装。→春うらら
- 遊戯王OCGカードの一枚。→灰流うらら
もしかして
春麗(チュンリー)
概要
ハルウララ/Haru Urara(1996年2月27日~)
1勝もできず、113連敗で競争生活を終えた。
ハルウララ以上の連敗を続けた競走馬は数多くいるが(229連敗のダンスセイバーなど)、全国的な人気・知名度により存続が危ぶまれていた高知競馬場を救う事となった。
プロフィール
来歴
1996年
2月27日、信田牧場(新ひだか町)で誕生。小柄で臆病な馬で、セリ市で買い手がつかず信田牧場が所有した。場長の信田信義は預託料の安い高知競馬でないと競走馬生活を送れないと考え、宗石大調教師に預託した。神経質で手のかかる馬だったため、宗石は「せめて名前くらいはかわいくてのんびりしたものにしよう」と思い「ハルウララ」と名付けた。新人厩務員の藤原健祐が担当になり、ハルウララは藤原にだけは懐いた。
1998年
11月17日、高知競馬場の第1競走でデビューし、5頭立ての5着に敗れた。その後も全く勝利を挙げることはできなかったが、ハルウララは身体が丈夫で年に20走も出走できたため出走手当の収入により廃用とならず、現役を続けることができた。
2002年
高知競馬場の実況アナウンサー・橋口浩二がハルウララを出走の度に「勝てばこれがデビューから○○戦目での初勝利」と紹介した事から注目を集め始める。
2003年
信田はハルウララを引退させて乗馬にするよう提案するが、宗石は臆病なハルウララは乗馬に適さないと判断し、横山貴男に馬主を引き継いでもらい、現役続行となる。
6月13日、高知新聞がハルウララを取材し、夕刊社会面に「1回ぐらい、勝とうな」という見出しで記事が掲載された。高知県競馬組合職員の吉田昌史(広報担当)はハルウララに関する広報資料をマスコミ各社に送付した。
7月23日、毎日新聞全国版に記事が掲載され、同日放送のテレビ番組『情報プレゼンター とくダネ!』(フジテレビ)で取り上げられた。これをきっかけにハルウララは全国的な注目を集めるようになり、様々なグッズが販売された。
12月14日、「ネバーギブアップ・ハルウララ100戦記念特別」に出走し、1番人気で9着(100連敗)。観客5074人が高知競馬場に入場し、多くの報道陣が取材に訪れた。
2004年
3月、安西美穂子が横山貴男から無償でハルウララを譲渡され、馬主となった。
3月22日、JRAの人気騎手武豊が騎乗し、1番人気で10着。入場者数1万3000人、このレースの馬券売上5億1163万円はいずれも高知競馬史上最高記録を更新。
8月3日、113戦目。3番人気で5着。これが最終出走となった。馬主と調教師の間で意見が対立する。
9月15日、安西が馬運車とともに現れ、押し問答の末、「おまえの考えはどうでもいい、馬を出すのはオーナーの勝手だ」「警察を呼ぶぞ」と言って強引にハルウララを拉致し、必要書類の受け渡しもなしに那須トレーニングファーム(黒磯市)へ連れ去った。安西は「高知競馬で走らせていれば競走生命が失われていた」と主張したが、血液検査を行った獣医師から「馬は元気なので高知に返すべき」と進言されていた。
2005年
1月3日、宗石と安西が話し合いを行い、同月中に高知競馬へ戻すことで合意した。しかし安西側が2月になって復帰延期を発表する。
6月に森田健作を応援団長とするプロジェクト「ウララ1勝プロジェクト」を立ち上げ、ハルウララを高知へ戻し2005年中に引退することを発表したり、森田を発起人とする引退後のハルウララが地方競馬を巡業するための寄付金を募る「ハルウララ基金」の設立を発表するなどしたが、いずれも実現せず、10月にハルウララは競走馬登録を抹消され、引退となった。
2006年
10月、安西が千葉県勝浦市の保養施設で「ホースセラピー開校記念パーティー」を開催し、引退競走馬の再利用促進とセラピー活動を実施するためのNPO法人「おうちへ帰ろうクラブ」設立を申請し、2007年10月に認証された。
2009年
夏、安西の意向により繁殖牝馬となるべく新ひだか町の牧場に移送された。ディープインパクトとの交配実現のため募金を検討中であるとコメントしたが、結局、繁殖生活には入らなかった。
2013年
安西がマーサファーム(千葉県御宿町)にハルウララを預託したが、半年ほどすると預託料が支払われなくなり、安西が牧場に姿を見せることもなくなった。
8月、「おうちへ帰ろうクラブ」が解散。
2014年
2月、ハルウララの所有権は放棄され、ハルウララを支援する「春うららの会」に移った。引き続きマーサファームに繋留され、余生を送ることとなった。
2018年
4月、テレビアニメ『ウマ娘プリティーダービー』(関西テレビ、TOKYOMXほか)にハルウララをモチーフとしたキャラクター(ウマ娘)が登場し、再び注目を集める。
2021年
2月24日、育成シミュレーションゲーム『ウマ娘 プリティーダービー』(Cygames)がリリースされ、マーサファームへの見学者も増加している。
特徴
連敗数をネタにされて取り上げられることとなった馬であり、競馬関係者からはかなり複雑な目で見られていた。
特筆すべきはむしろ出走数であり年間20レース、生涯で113回走って致命的な故障を起こさなかったというのだからその丈夫さの方にむしろ注目すべきであろう。だがこれですら記録となるレベルではなかったりする。
この出走数のカラクリは、一回走ると手当てが付くためで、年々減らされはしたがこの制度によってハルウララは勝てずとも堅実に金を稼いでいた。これが廃馬(肉屋行き)にならなかった理由でもあった。
ちなみに負けばかりと言われているが、掲示板に乗った経験なら何度かあり、惜しくも2着といった競馬も見せている。
しかしハルウララの連敗数が話題になるとマスコミが殺到。勝てない馬などさして珍しくもないが、やたらと騒ぎ立てられてハルウララブームが巻き起こる。負けた馬を持て囃すなど競馬に詳しい人間目線ではただの冒涜でしかなく、関係者からの目は冷ややかだった。
廃馬になった馬は馬肉として出荷されるだけである。なんて身勝手なと思うかもしれないが、馬は風雨に晒しても生きていけるような生き物ではない。飼育費用は馬鹿にならないし、結局駄馬と見限られれば食卓に並んでせめて人の生きる糧になるしかないのである。
どれだけ功績を上げた馬であろうが最悪出荷されることすらあるのが競走馬。そんな儚い世界において、それを面白がって持て囃すなど、本来ならあってはならないことなのである。
競馬の関係者は勿論自身の馬にそんな末路は送らせまいと必死になり、日々少しでも勝ち鞍に近づけるよう努力している。ハルウララブームはいわば、そんな関係者の努力を嘲笑うかのようなものであった。熱心な競馬ファンがハルウララ目当てでやって来た客を見て「動物園」と揶揄することもあったという。
確かにハルウララブームは作られたブームだったのかも知れない。
しかし、負けても負けても懸命に走るハルウララに心打たれる人々も多かった。
当時の日本は終わりの見えない不況の最中で、明日に希望を見出して一生懸命に生きる人々はそんなハルウララに自らを重ね、応援したのだろう。
このおかげで廃止寸前だった高知競馬場に活気が戻り、現在でも運営が継続されるキッカケを作った。
もし高知競馬場が廃止されていたのなら、高知競馬の職員が路頭に迷うことはもちろん、高知に所属している競走馬たちも多くは居場所を失い、廃馬になっても全くおかしくなかった。
よって、ハルウララは競走馬のために身を粉にしている競馬関係者から白い目でみられることもあったが、彼女の活躍で多くの競馬関係者や競走馬たちが救われたことも否定できないのである。
これらのことから、お世辞でも誇張でもなく言葉通りの意味で、ハルウララは『高知競馬場の救世主』である。
また、このブームによって競走馬で数字(視聴率)が取れることをメディアに知らしめた事は、すぐ後に登場した歴史に名を刻む名馬ディープインパクトを国民的ヒーローにまで躍進させる土台となったという意見もある。ハルウララブームの後は情報バラエティ番組で競馬を取り扱うことが格段に増え、ディープインパクトが躍進してくると次世代のスターが登場したと言わんばかりに連日連夜特集するような状態になった。
あの大谷翔平が浦河町応援大使として戦後初のクラシック3冠馬となったシンザンの銅像前でインタビューを受けたときも「あまり競走馬に詳しくはないが、ディープインパクト、キズナ、ハルウララ、サトノノブレスは知っている」と名馬と並んで名を挙げたり、競走馬擬人化作品『ウマ娘プリティーダービー』が競馬業界の枠を越えた社会現象になると、「ウマ娘以前はディープインパクトとハルウララぐらいしか競走馬を知らなかった」という声はよく聞かれた。知名度だけなら2000年代を代表する競走馬と言って差し支えないだろう。
その頑丈さゆえに繁殖も考えられたが馬体の小ささ(母も小さかったが血統の良さから繁殖入りした)が危険と判断され実行はされなかった。
どの生物も出産は命懸けだが特に馬は出産後や妊娠中にしぬ場合があり、エアグルーヴやスイープトウショウなどウララより大きい牝馬が死亡しているのも出産の過酷さを物語っている。
血統はビューチフルドリーマーと言われる戦前からある名血統で遠縁には上述の大谷投手がインタビューした銅像のモデル・シンザンがいる。
引退後、老齢になってからソフト競馬においてついに初勝利を収めている。これ自体が朗報であるが、何より老齢になってもこうした競技に参加できる辺り、その丈夫さ・頑健さは本物であった。
現在引き取られたマーサファームに来た当初は怖がりで気が小さく、その上偉そうにしていた扱いの難しい馬だったそうだが徐々に心を開いていき、現在は「うーちゃん」の愛称で呼ばれながら同ファーム内で出来た友達や見学に来たお客さん達と仲良く遊んでいるとのこと。
全盛期のハルウララ狂騒曲
レースの逸話は少ないが、ハルウララブームそのものにはいくつものエピソードが残されており、当時のブームがいかに人々から注目されていたかが窺い知れる。高知競馬場を廃止の危機から救ったことと合わせて、単なる『ブーム』では片付けきれないほど、多くの人々に希望を与え、命や暮らしを救ったのだ。ハルウララはその名の通り、『人々の心に春のような麗らかさをもたらした』のである。
- それまで男性の多かった競馬場に女性も多数やってくるようになる。夫婦や親子で来場する客も増えた。
- 癌にかかり絶望の淵にいた女性がハルウララのレースに勇気づけられ、生きる希望を見出した。
- 自殺まで考えていた人がハルウララのレースを見て踏みとどまった。関連性は不明だが、統計でもハルウララブーム前をピークに自殺者が減少傾向になる。
- 馬場でのハルウララのグッズ販売を騎手たちの夫人まで動員して行っていた。
- 時の総理小泉純一郎首相も強い興味を示しており、予算委員会にて「1回でいいから勝ってほしいなぁ」「負けてもくじけるなという希望を与えてくれるいい話題」と好意的なコメントをしており、武豊騎乗レースの後は「武豊でも勝てなかったか…」と肩を落としていた。
- 国会での競馬法改正を巡る議題で地方競馬を復活させるためのヒントとして名が挙げられている。(※当時の国会での議事録にもあるように、地方競馬だけでなく中央競馬の売り上げも下がり調子で、国民全員に知られるようなスターホースがいないことも問題視されている。ちなみにディープインパクトの登場はこの年の末である。)
- 武豊の騎乗レースではハルウララ専用窓口まで設けられ、待ち時間はなんと7時間。徹夜組まで現れた。
- 当の武豊は当初競馬の本質と離れたこのブームに困惑と辟易の混じった反応を示したが、黒船賞と同日に引退レースを考えていると説明されて騎乗。レースは結局勝てなかったが、大勢の観客による熱い声援に応え、本来勝利馬の特典であるウイニングランまで行った。
- 武豊とハルウララのレースを生中継した関西の情報バラエティ「ちちんぷいぷい」にて瞬間19.9%、平均12.2%で番組の最高視聴率記録を更新した。
- 歌が作られる。
- 等身大像も作られた。2007年に寄贈、地元の工業科の生徒によって専用の馬小屋も立てられ、現在も旧・高知競馬場跡に建設されたテーマパーク「わんぱーくこうち」に飾られている。
- 笑点で何度か題材に使われる。圓楽(馬主役)「また負けたのか!」歌丸(馬役)「あんたと馬が合わねーんだよ!」/楽太郎(馬役)「じゃあ、(顔が馬に似てる)あんたが走ればいいじゃん」他の回答はこちら
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ハローキティ…キティちゃんのアップリケでメンコの継ぎ目を隠していた。公式のコラボグッズも存在する。
春麗…中国では某格ゲーの人気キャラと同じ表記になる。ちなみに父の敵と同じ名前の競走馬もいる。
無事之名馬…日本に伝わる格言のひとつ。能力が多少劣っていても、怪我・病気・故障もなく無事に働く人間は優等生であるとする考え方を表した格言である。
ジッピーチッピー…対サラブレッド戦100戦100敗の記録を持つアメリカ版ハルウララ。非公式のマッチレースでは勝利を収めている。(ただし対戦相手はクォーターホースと人間)
ダンスセイバー…通算229戦0勝という連敗記録を継続しているホッカイドウ競馬所属の現役牝馬。
ラガービッグワン…中央競馬で異例の12連闘をしたことで有名。その年には年間30戦出走という記録も残しており、この二つの記録は未だに破られていない。
ポケットモンスター…実は初代の発売日が彼女の生まれた日である。こちらも長く愛されている。
たいようのマキバオー…ハルウララがモデルとされている。