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曖昧さ回避編集

  • ぐりーんらいなー広島電鉄が保有・運用している3000形グループの愛称。3100形、3500形、3700形、3800形、3900形、3950形。

概要編集

都営バスが運行している都市新バス路線のうち、【都02】系統に付けられている愛称。

大塚駅錦糸町駅を春日通り、清澄通り、蔵前橋通り経由で結ぶ。茗荷谷駅春日駅(文京シビックセンター)、御徒町駅(上野広小路)、蔵前駅を経由する事から丸ノ内線大江戸線の補完、春日通り相互の輸送や山手線丸ノ内線大江戸線三田線銀座線つくばエクスプレス京浜東北線日比谷線浅草線総武線の短絡輸送を担うだけでなく石原地区などの鉄道空白地帯のカバー、小石川、春日地区の学校輸送など、その用途は多岐に渡る。山手線の西側から山手線外の総武線駅を結ぶ事から運行距離は都営バスの中でも長い部類に入るが、乗客の入れ替わりが細かく、収支性、集客性共に非常に優秀な路線である。


都市新バス2番目の路線として整備された本路線、この路線も全身の【塚20】さらに遡れば都電16系統に行き着く。都電時代は錦糸町が終点ではなくそのまま蔵前橋通りを進んで亀戸までの路線だったが、1949年に行き先を錦糸堀へと振り替えて今の形になった。四ツ目通り上、総武線のガード下で折り返し、現在のバス路線と同様、南口の路線と線路は繋がってなかったそう。

その後1971年に都電が廃止されて代替路線として【516】系統が廃止経路をそっくりそのままなぞるように運行を開始した。当初は大塚のみならずなんと江東も所管していたそうだが1年後の江東区内都電大量廃止の際に受け持ちが急増したため僅か1年で撤退したそうだ。江東受け持ち時代は錦糸町〜文京区役所の区間便もあったが江東撤退の際に廃止となっている。

この時期に系統番号の整理を実施【塚20】に変更となった。当時から都電代替路線だった事もあり本数は多く、利用者も終日に渡り多い系統だった。特に繁華街の御徒町へと乗り入れる効果は大きく、輸送の境目となった。

しかしモータリゼーション化の進行で年々春日通りの渋滞が悪化、本系統も渋滞遅延に巻き込まれていく。交通局も黙って見ていた訳ではなく渋滞でタイヤが乱れると錦糸町側を切り捨て文京区役所折り返しに変更して大塚側のダイヤを戻すという方策をとって定時性の維持に努めたが、この方策により輸送の境目だった御徒町、上野広小路では何十分待とうがバスが来ないという事態が発生し逆に乗客からの反感を買う事となった。

その場しのぎの対策が限界を見せる中で、全く似たような問題を抱えていた【橋89】は都市新バス化により収支も集客状況も鰻登りといった状況だった。これに味を占めた交通局は第二の都市新バスの制定に動き出す事になる。そこで目を付けられたのが【塚20】だった。春日通り、清澄通り、蔵前橋通りは道幅が広くバスレーンの整備が容易だった事、長距離を走る事から時短効果が大きく発揮される事、豊島、文京、台東、墨田の4区を走る事から都市新バスのアピールにもなる事から、本系統が次なる都市新バス路線に選ばれた。

バスレーンの整備、シェルターや上屋と接近表示器を取り付けたハイグレードバス停の設置、専用車の増便と内容は【都01】とほぼ同じだったが、この路線から専用車にエアサスとグラインドスライドドアが採用され、【都01】増備車を含め都市新バス標準仕様となっていく。輸送の境目となる上野広小路には横幅を大きく取った専用のバス停が設置され、以降主要バス停にはこのタイプのバス停が採用されることになる。成功例のあった交通局の自信は相当なもので、運行開始前からPRグッズを作成して沿線の小学校に配布していた。

こうして1986年3月【塚20】は【都02】として生まれ変わった。早朝の大塚駅ではセレモニーが開かれ、初便の出発を飾った。愛称は様々な候補の中から"グリーンライナー"か選定され、フロント下の行灯に愛称板を、都章の代わりにヘッドマークが取り付けられた。担当する大塚営業所には専用車が大量に増備されたが当時はそれでも車両が不足しており、不足分は従来車の改造で賄った。

こうして都市新バスとしてのスタートを切った【都02】だったが、その効果は次第に濃くなり、89年度には【塚20】時代より2割り増しとなった。【都01】と比較すると増え幅は小さいが、これは元から【塚20】の利用が多かった事も理由にあり、決して効果が弱かった訳ではなく、乗客数1位の座に輝いた事もあった。

入庫は沿線に大塚車庫が存在した事から錦糸町側、大塚側共に大塚車庫行きで入庫した。沿線に車庫があった事から効率的な運用が可能で、始発も都電時代から大きく変わらず大塚発6時とし、終バスも錦糸町発大塚車庫行きが23時代となるなど、利便性も相変わらず高かった。


こうして昭和時代は大きな飛躍と足場固めで幕を下ろした本系統だが、平成になると鉄道の新規開通と再開発に振り回される時代を迎えた。


まず1990年になると錦糸町駅北口の再開発が始まり、本来使用していた北口ロータリーは閉鎖される事になり、ロータリー完成前と同様、総武線ガード下四ツ目通り上からの発車となるが、錦糸町駅近辺がラケット状のループとなった。蔵前橋通りを進んだバスは法恩寺橋を右折して大門通りを進み、入った所に大平一丁目の臨時バス停があった。そのまま総武線を潜って京葉道路に出たバスは左折、江東橋に止まり錦糸町駅へと出て四ツ目通りガード下で終点となり、そこから正規ルートに戻る形となった。この経路では錦糸町方面が大平二丁目から錦糸公園前を経由しないため錦糸町駅をまたいでの乗車が認められた。またオリナス前にある【都02】専用の大平三丁目停留所は休止となって立ち続けた。

同時期には大江戸線の工事が始まり、春日通りでは車線規制が行われた。車線規制の際はバスレーンに一般車が流れ込み、渋滞が極端に悪化する事となった。1996年には錦糸町駅再開発の進捗により再び発着場所が変更、南口アルカイースト下、現在のタクシー乗り場付近に変更となった。南口発着になるのは都電時代から数えて初めての事であり、錦糸町駅南口発着系統との乗り換えが最も便利な時代だった。そして翌1997年にはついに新たな北口ロータリーが完成、本系統は新たに完成したロータリーに乗り入れる事になり、正規ルートに戻り迂回は見納めとなった。

同時期に上野の歩行者天国が休止となり、休日のプロムナード運転は取りやめとなった。迂回経路は湯島三丁目から千代田線沿いに蔵前橋通りまで向かい左折、山手線を潜り昭和通りを上がる経路をとり、とてつもなく遠回りだった。湯島駅付近に上野広小路、昭和通り上に御徒町駅の休日専用停留所が設置されたが、迂回する他の車に巻き込まれて大幅に遅延する事が常であったそう。また上野広小路の通常使用する停留所は接近表示器付きのバス停だったが歩行者天国中は「プロムナード実施中」の表示を出して対策していた。

92年以降は大江戸線工事による車線規制対策として夜間の上野近辺を迂回しており湯島三丁目交差点を右折し【上58】の上野松坂屋停留所を上野広小路として使っていた。これに関連して上野広小路停留所は接近表示器付きのバス停から移動が容易なダルマポールに変更された。この迂回は大江戸線開業後も2002年まで続く。

このように大江戸線開業の足音が迫る中で【都02】系統の分断が噂されるようになる。春日〜両国(石原)間の本系統と大半の区間が被る事や丸ノ内線と乗り継げば新大塚〜石原と路線の7割が鉄道路線と被る事から、分断は現実的だった。


こうして運命の2000年12月12日、大江戸線開業による大改変を、本系統は減便のみで乗り切った。確かに並行路線は開業するが、それ以上に錦糸町へ直通する事が大きかったのだろう。この改正で本所一丁目止まりの区間便が朝の1便を除き廃止されたが、錦糸町への通し便は僅かな減便のみで持ち堪えた。懸念事項だった大江戸線への乗客流出も大江戸線の駅は地下深くにあり地上から距離がある事や他路線への乗り換えが遠く、時間を要する事から乗客流出は想像よりも下回った。

こうして大江戸線開業を乗り越えたが、近年では増便傾向にあり、現在は大江戸線開業前の本数に近づきつつある。

2010年代に入ると所管面で動きがあった。2015年に本系統を所管していた大塚支所が再開発のため閉鎖されることになる。【塚20】時代から担当し2008年の支所格下げ以降も引き続き大塚所管で残ったものの、ついに古巣の大塚を離れる事になった。これに伴い2014年から車両にも変化が現れた。

まず大塚所属車両は全車グリーンライナーのサボ、ヘッドマークを装備しており、都市新バス仕様車以外が本系統に入ることを原則禁止していた。ノンステップバスが配置されて以降は車両の違いは無くなったが全車都市新バスのサボとヘッドマークを標準仕様で取り付けるようになる。しかし新たに本系統を所管する巣鴨営業所への転属準備、また他営業所への転属も発生するためヘッドマークは都章に交換、グリーンライナーのサボもノンステップバス表記に反転させており、転属の準備を行った。

そして2015年の改正から全便巣鴨営業所へと移管された。移管後はヘッドマークの装備は原則禁止となり、サボもノンステップバス表記がほとんどとなった。またこれに伴い入庫方法が変更。錦糸町側は従来通り窪町小学校(旧大塚車庫)まで営業だが、大塚側は大塚二丁目までに短縮された。これは不忍通りを経由して巣鴨に回すためであり、大塚側は窪町小学校まで営業できないためである。しかし始発、終バスの時間は巣鴨移管後も据え置きとなった。

巣鴨に移管後は同所の【草63、64】と共に巣鴨の看板路線として営業している。車両も新車が優先的に使用されるが、稀に古参車が入る事もあり、朝夕のみの運用で顕著である。コロナ禍で若干の減便はあったが、現在も利便性の高い主要路線として君臨しており、この先の活躍も期待できるだろう。



都02乙系統編集

本系統には派生系統として、【都02乙】系統もあり、大塚→巣鴨担当だった頃にはこちらも「グリーンライナー」を愛称にしていた。

もともとは【楽67】系統で、有楽町駅を起点に、一ツ橋・神保町駅・文京区役所・大塚車庫・護国寺を経て、池袋駅東口に至る路線だった。 【都02】ともその前身の【塚20】とも何ら関わりはなく、強いて言うならば文京区役所〜大塚三丁目間で共に春日通り経由する程度だった。この路線も元々は都電廃止代替路線で、都電17系統がその基となる。池袋から数寄屋橋を結ぶ系統だった。池袋駅を発着する数少ない都電系統として丸ノ内線開業後も本数、利用者ともに依然として多く、当時は後に都市新バスとなる【塚20】に収支、乗客共に大きな差をつけてリードしていた。丸ノ内線開業後もその勢いは衰えなかった。地下鉄の停車駅が少ない事と、丸ノ内線は大塚経由なのに対し都電は護国寺経由と経路が違った事も大きかった。そんな本路線も1965年にバス代替となったのだが、その代替方法が特殊であり、まず65年に文京区役所以南を廃止し、池袋駅〜数寄屋橋で路線バス517系統の運用を開始した。バスと廃止となる都電が併存する稀有なケースだったがこのケースも1年後に全路線がバス代替となって都電は廃止された。都電廃止後は発着場所が数寄屋橋から有楽町駅に変更され、形が出来上がった。池袋駅の発車場所はグリーン大通り上、都電乗り場跡地に専用の乗り場が設けられ、池袋駅の中でも一際特別感のある路線となった。その優遇ぶりに違わず、池袋側は本数が非常に多く設定され、基本は有楽町駅行きとしながらも朝夕ラッシュ時には一ツ橋、また都電時代を引き継いだ大塚二丁目止まりも設けられ、大変な賑わいを見せていた。

しかし賑わいの黄金時代も当時の地下鉄開業ラッシュに消えていく事になる。

大きな変化が訪れたのは1974年有楽町線池袋〜銀座一丁目開業である。東池袋駅護国寺駅有楽町駅と本系統の独壇場だった地区に駅が設けられ、乗客の大半を失った。起終点が鉄道で結ばれた事や独自区間の護国寺近辺での優位性が消失したことは大きく、本系統の衰退に直結した。本数は減りに減り、大塚二丁目行きは大塚への入出庫に絡めた運用のみとなり、一ツ橋行きは消滅寸前にまで減便された。1979年には都電跡地の乗り場が解体され、現在の道路脇地下鉄出入口付近に変更された。

1975年には日に17175人いた乗客は1981年には9151人とほんの数年で半減してしまった。

当時ただでさえ地下鉄開業による乗客減に苦しんでいた都営バスは利便性よりも合理化に舵を切るようになり、本系統もその合理化の餌食となった。1982年には一ツ橋以南を切り捨て、有楽町への乗り入れを廃止、同時に系統番号は【池67】に変更された。

しかし一ツ橋などという中途半端極まりない行き先では乗客など集まるはずはなく、一定の需要があった二重橋、日比谷方面への乗客を切り捨てた影響は大きく、さらなる乗客減に苦しめられる。需要も土日の後楽園ゆうえんちへの輸送と神保町、水道橋近辺のごく僅かな乗客のみだった。もうこの時期になると路線のほとんどが地下鉄と並行しており、バスのみの独自区間が存在せず、必要とされているかすら怪しい路線だった。

乗客は1985年に5000人を割って以降は何とか下げ止まったもののもうかつてのような勢いはどこにもなく、本数も減らされた事から都市新バスにして救済することもままならなかった。86年に同じ大塚の【塚20】が都市新バス化されて以降は余計に立場がなくなり、春日通りで【都02】を待っている時にたまたま来たから乗車したというような乗客が多くなった。もうその客が居なければ存続できないような状況だった。

このような中で1989年に【池67】の廃止計画が持ち上がる。内容は護国寺付近で並走する【上58】の早稲田側を切り捨てて本系統の池袋駅乗り入れを接合すると言った大胆なものだったが、一ツ橋近辺は三田線と完全並行する【水59】共々根絶やしにする予定だったが文京区からの苛烈な反対運動に逢い、何とかこの時の廃止は免れた。

1990年の改正で本系統は【都02乙】に名前を変えた。都市新バスへの整備が始まったのかと思いきや、単純に春日通りを並行する【都02】と売り上げを一括りにするという完全に事務的要因だった。輝かしい都市新バスへの整備などは一切行われず、ただ名前ばかりのハリボテの都市新バスとなった。これにより運用も殆どが文京区役所止まりとなり、一ツ橋へ向かうのは朝のごく僅かな便のみになった。ここで今の運行形態が確立される。

車両も都市新バス仕様車が回ってくることなど一切なく、大塚の古参車、挙げ句の果てには中型車が回ることがデフォとなっていった。本数も【都02乙】時代には約20分間隔になり、2000年の大江戸線開業により文京区役所が春日駅に改名されたタイミングで25分間隔にまで減らされた。

この時になれば名前の通り【都02】の区間便のような扱いを受け、先述の春日通りでたまたま来たから乗る客以外は池袋から小石川方面への丸ノ内線で拾いきれない乗客を僅かに拾うのみとなった。

2004年には行き先が東京ドームシティに変更された。元々文京区役所の周りを回り込むように折り返していたため、その回送経路を営業化した形となる。

この時点で回送経路も変わり、従来大塚車庫〜池袋を回送していたものを大塚車庫〜春日駅を回送するようになり、従来入庫便として存在していた池袋駅〜大塚車庫の便は終バスのみに削減となった。

これは後の移管に向けた準備だったのか、2008年の大塚の再開発に伴う敷地縮小と支所格下げを受けてこの年から管轄が巣鴨営業所に移管された。巣鴨移管後は回送経路が不忍通り経由になり、池袋側の入庫便は大塚二丁目で打ち切りとなった。

その後は路線面をの動きはなく、車両は大塚時代から引き続き古参車主体の配置となり大塚末期にはマニアから所謂"ボロライナー"と言われる幕式の車両が専ら運用に入っていた。巣鴨に移管後はヘッドマーク、サボをつけた車両はなくなった。

次に動きがあったのは、2015年の大塚支所の閉所である。これにより【都02】が巣鴨に合流、この玉突きで本系統は小滝橋営業所に移管となった。小滝橋移管後は回送は春日駅から【上69】の経路で回送か、小滝橋〜高田馬場駅を【飯64】で営業、高田馬場〜池袋を明治通り経由で回送の2パターンが多い。【上69】の営業で入庫する事もあったが、この営業入庫はのちに廃止となった。また巣鴨への入庫系統だった大塚二丁目止まりは護国寺発着に短縮された。これも【上69】の経路で小滝橋から護国寺を回送している。また小滝橋移管後は古参車が学02に回されがちなため、新車から古参車まで満遍なく運用に入るようになった。

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