帰ってきたアントニー・フォッカー
この戦闘機はオランダのフォッカー社で開発された。
しかしフォッカーといえば、かの「レッド・バロン」の名で知られたマンフレート・フォン・リヒトホーフェンの愛機であるフォッカーDr.1や、あらゆる戦闘機に優れて大戦中最強と謳われたフォッカーD.7など、第一次世界大戦で連合軍を散々に悩ませたドイツ戦闘機のメーカーだったはずである。それがどうしてオランダに移ったのだろう。
何という事はない、彼アントニー・フォッカーは元々オランダ人だったのである。
第一次世界大戦終結後、ベルサイユ条約によりドイツでは航空機の開発が禁じられた。もちろん飛行機屋も廃業である。そこでフォッカーは故郷に本社を移し、こうしてオランダで飛行機作りを続けることにしたのだ。
貨物列車に工場の備品や冶具をありったけ積み込み、オランダに帰るとあわただしく工場を立ち上げた。ひとまず戦闘機を作って経営を安定させる一方、旅客機の開発にも取り組み、この分野でもよく知られるようになっていった。現在でもフォッカーF-27「フレンドシップ」旅客機は、世界中を駆け回るフォッカー社のベストセラーである。
カンタン・確実・頑丈!
さて1930年代といえば、ちょうど航空機の性能が良くなり、主翼が1枚で済むようになっていった頃である。未だ技術的に熟していないこともあり、この頃の代表機もI-16や九七式戦闘機のような見慣れたような機や、またはI-153のように複葉の古臭い機が混在している。これは過渡期にはよくある事で、失敗のない従来型か、多少冒険しても高性能を求めるか、といった要求の違いによった。
このフォッカーD-21は、元々オランダ領東インド政府が自国防衛用に注文していた戦闘機であったので単葉、車輪は固定式で、設備の整ってない植民地用とあって設計は頑丈・簡便に、整備は簡単に、そして値段は安く収まるようにまとめられた。固定式の車輪は飛行中に空気抵抗になり、飛行性能を落としてしまうが、そのかわり取り付けは頑丈にできて、何より「車輪が下りない」機械事故は絶対に避けられる。以上、フォッカーD-21はそこそこ先進的で、確実な戦闘機を目指していたのだった。
戦闘機、爆撃機に撃墜さる。
が、東インド政府は試作機完成の間際になって発注を取りやめ、替わってマーチンB-10の導入を決定。こうして完成直前に納入先が無くなり、途方に暮れてしまったフォッカー社であった。フォッカー社は大きな企業ではないので、このまま在庫を抱えたまま生産費が払えなければ、倒産しかない。
どこの国でもいい、どうか買ってくれないか!
爆撃機偏重の戦間期
『なんちゅうたって重爆ですな、飛行機という飛行機は重爆撃機にしてしまえ。戦闘機なんか重爆の編隊火網で追っぱらってしまえばいい。重爆はよくやるです。チャチな戦闘機など役に立たんです。重爆だけで結構です』
黒江保彦「あゝ隼戦闘機隊 -かえらざる撃墜王-」(P.42) 光人社NF文庫
こうした決定の裏事情としては、当時の世界で流行していた「空中艦隊構想」というものがあった。将軍たちの間だけでなく、飛行兵たちの間でさえこのような風潮があり、各国の軍備が爆撃機偏重になるという傾向はよくあった。直接敵対国に接していないイタリアでも、「戦略爆撃理論」が提唱され、また各種爆撃機が開発されていたことからも、その事はよくわかることだろう。
また1930年代は各国ともますます技術が向上し、Do17やブレニム、SB-2のように優秀なエンジンを複数搭載し、空力よりもパワーで高速を目指す「戦闘機よりも速い爆撃機」が次々に実用化されていた頃である。
対する戦闘機はというと格闘戦ばかりを目指し、そのため翼面荷重を低くできて要領も分かっている複葉機がいまだ生産される事態になっていた。そして、果たしてそうした複葉戦闘機が実戦でどう活躍できたのか。その答えはすぐ明らかになった。
救いの手に救いの手
そこで手を上げた国がフィンランドである。
空軍は脆弱であり、主力機といえばせいぜい第一次世界大戦レベルからほとんど変わらない、しかもドコのナニとも知れないような機(実際、リストを見ても全然想像できないレベルである)を少数だけ使っているような有様であった。なにしろ酷い金欠なのである。これだけ買うために纏まったカネを用意するだけでも、とんでもない苦労をしたのであった。
それでもやっと来た待望の新型機だ!助かった!
そんな貧乏国に、そこまでして軍備整備を急がしめるに至った理由。それがドイツ再軍備宣言、そしてスペイン内乱である。急速に風雲急を告げる欧州情勢を機敏に感じ取り、今さらながら軍備の重要さに気づいたのだ。新型機を求める救いの手に、買い手を求める救いの手。お互いの利害が一致した、まさに救いの一手であった。
ちなみにフィンランドはオランダ植民地政府がキャンセルする前にもD21を注文していたのだが、フォッカー社は上記の通り大きな企業ではないため、外国にまで売る余裕はないとして断っていた。そしてフォッカー社が植民地政府のドタキャンにあった後、これはチャンスだとばかりに再度購入を打診したのだ。
そういう状況ならば相手の足元を見て安値で買い叩くこともできただろう。しかしフィンランド人は律儀にも適正価格での購入を申し出た。フォッカー社もそのことに感謝したようで、技士をフィンランドに派遣して生産の手助けを行なったという。
一方その後・・・
オランダで植民地政府の対応が問題視され、フォッカーD-21を本国で採用する動きも始まった。
しかし上述の理由から、フォッカー社はフィンランド向けの生産を優先した。
こうして各国で採用された機は4か国で、
オランダ:36機
デンマーク:3機
フィンランド:90機(完成機7機+ノックダウン14機+ライセンス生産)
となった。
中でも、とくにフィンランドは幸運に恵まれて、ちょうど発注取止めになった最新鋭機をそっくり購入することができた。そして、このことは来る冬戦争において重要な意味を持つことになる。
フォッカーD-21とは
構成
この機は1930年代の戦闘機としてはかなり洗練されている。
主翼は単葉式で、複葉式のような張線がないので空気抵抗低減には大きな効果がある。このように機体前半部は金属製ではあるが、軽量化のために胴体後半部などは羽布張りで構成された。構造は単純で頑丈なので、敵機から追い回された際にも無理がきくようになっている。
エンジンはイギリス製のブリストル「マーキュリー」、試作型がⅥ(645馬力)、生産型はⅧ(830馬力)を採用した。これはブレニムと同じエンジンだが、この事はフィンランドでのその後に大きく関わることになる。
武装
武装はフィンランド仕様の場合、胴体にビッカース7.7mm機銃、主翼にはファブリック・ナショナル(FN)7.9mmブローニング機銃を計4挺装備する。この時代としては標準的な武装で、I-16などと並ぶ程度となっている。
オランダ仕様では4挺すべてブローニング機銃となり、デンマーク仕様には独自の8mm機銃とマドセン20mm機銃を装備した機も製作された。
操縦性
空中では問題なかったが、特に離着陸での操作にはクセがある。
昇降舵の利きが悪いうえに、主脚と尾輪を同時に着地させる三点式着陸なので、操作に習熟するまでは事故が多く発生したのだとか。
同時期の戦闘機との比較
九七式戦闘機、I-16と比べると、フォッカーD-21の位置は
・火力
I-16>フォッカーD-21>九七式戦闘機
・速度
九七式戦闘機>I-16>フォッカーD-21
・出力
I-16>九七式戦闘機>フォッカーD-21
となっており、必ずしも高くない。
しかし低空での空戦ならば、I-16が得意にする「高高度からの一撃離脱」は封じることができるだろう。事実、フォッカーD-21は冬戦争で多くのI-16を葬っており、戦いは必ずしも性能差では測れないことを示している。
操縦性ではおそらく九七式戦闘機がピカイチであるが、離着陸での操縦に難のあるフォッカーD-21は少々譲ることになるだろう。だが九七式戦闘機は7.7mm機銃が2挺なので、火力の上では半分に過ぎない。
火力はI-16と同程度だが、I-16は発展と共に火力を増強していったのに対し、フォッカーD-21はそのままだったので差をつけられてしまう事になった。とくに20mm機銃ShVAKは「どんなに寒くても全くの故障知らず」と信頼をあつめ、そのほかにも新型機そっちのけの実績は示したI-16は、あくまでも「つなぎ」だったとはいえ、大戦中に再生産される事にもつながっている。
ただ、単葉・固定脚式の戦闘機は、この後すぐに単葉・引き込み式脚にとって代わられてしまったため、活躍できた時期は短かった。フィンランドにしても、本格的に戦果を挙げられたのは冬戦争がピークであり、以降は次々に新型機を繰り出すソビエト空軍には太刀打ちできなくなってしまう。火力・飛行性能が共に通用しなくなり、一線を退いたフォッカーD-21に代わって、今度は『空の真珠』や『メルス』が活躍する番になるのだが、それはまた別の話である。
「フォッケル」は戦場へ
こうして来る戦災を予見した国々の手に、フォッカーD-21は渡っていった。
しかし、その後の有り様は、4か国でそれぞれ違ったが、フィンランド以外はおおむね同じ道を歩むことになる。
オランダの場合
そもそもオランダの場合、まったく戦争の準備ができていなかった。
戦車「らしい」ものといえばルノーFT-17がたったの1台だけで、しかも武装を取り外した「対戦車障害物の有効性チェック用」であった。
それに次ぐものがガーデンロイド豆戦車。こちらも5台しかなく、しかも既に砲兵の大砲牽引車(トラクター)として使われている代物である。お次はもはや戦車ではない。ソビエトのBA-20のようなスウェーデン製の装甲車、L-180/181「ランズバーク」(ボフォース37mm砲搭載)が計25台。あとは機関銃を積んだ貨物トラック程度のものが有ったり無かったり。
これがオランダの機甲兵力()のすべてであった。
こうした状況は空軍も似たようなもので、フォッカーD-21は36機が配備されていたが、これで空軍の最大勢力を占めていた。またドイツに対抗できそうな機といえば、フォッカーG-1の配備が始まっていたが、これもまだ数は少なかった。残りは旧式の複葉機が細々と数ばかり。これでマトモな空軍と主張しようというのだから。
そして開戦。
空軍戦力の大部分は侵攻初日にあらかた灰にされ、後はマトモな抵抗を続ける事すらできなくなってしまう。1回の奇襲で瓦解しなかった分、陸軍はまだマシだった方だが、一生懸命戦ったところで、戦争らしい戦争が4日で終わる程度のものでしかなかった。
まあ国土の縦深が小さいというのもあったが。
デンマークの場合
オランダは一応「戦争らしきもの」が行われたが、こちらにそういった機会は一切無かった。
全ては始まった時には終わっており、早朝に侵攻が始まったと思ったら、昼には降伏を余儀なくされていた。総戦闘時間は6時間未満、いや2時間くらいだったか。それがこの哀れな小国の最後だった。
もちろんフォッカーD-21の活躍する機会も無かった。3機は飛ぶこともできず、Bf110の機銃掃射を受け、あっけなく燃えていた。
しかし、フィンランドに味方していたデンマーク人は冬戦争・継続戦争にも参加していた。そこで本国のふがいなさを打ち消して余りあるほど勇敢に戦って戦果を挙げ、そして多くが再び帰らなかったのであった。
フィンランドの場合
以上2か国と違い、フィンランドは別格であった。
なにせ相手は世界最大規模の軍隊を持つソビエトであり、そのソビエト空軍もスペイン内乱で実力を示したとあって、危機感を猛烈に高めた北欧諸国は大慌てで空軍の整備を始めた。
なんとしても対抗できる戦闘機が欲しい!今すぐに!
しかし、同じようなことは皆考えるもので、戦闘機を生産できるような国はまず自国用に揃えることを優先し、輸出向きは受注を取りやめてしまう。
そこへ入ったオランダ領東インドの戦闘機発注取りやめのニュース。
フィンランドはこれ幸いに飛びつき、こうして世界の第一線に並ぶ戦闘機を手に入れることができた。また完成機を輸入する一方、国内での生産も試み、最終的にシリーズ4期に渡って69機が完成している。
冬の戦場で
冬戦争に間に合ったのは90機中42機、実戦部隊には36機(開戦までに事故で内1機が失われる)が配備されていた。
1939年11月、ついに冬戦争の火ぶたが切って落とされる。
この日はソビエト側の奇襲攻撃で始まり、また相手が大国であったので、フィンランド政府は反撃をわずかばかりためらい、それで反撃命令が遅れて戦果を挙げることは出来なかった。
しかし翌日12月1日からは猛烈な反撃を開始した。相手は小国だからと油断して、第1陣を爆撃機ばかりで構成する誤りを犯し、また主力の一線級人員をドイツ・満州方面に出しきってしまったせいで、フィンランド方面には未熟な二線級人員しか残っていなかったことも災いした。この頃、あまりに多くの爆撃機が撃墜されたせいで、のちにフィンランドでは撃墜した機を修理し、部隊を編成して戦果を挙げられるようになった。いわば敵がただで爆撃機を「プレゼント」してくれた訳である。
その後、3月10日に最後の戦果を挙げるまでの3か月(正確には103日)で、フォッカーD-21は12機が失われた。引き換えに戦果はその10倍ほどを記録しており、これは搭乗員の質の差を考えても、もの凄いと言えるだろう。
黄昏⇒落日
のちに、先の実戦部隊にはB-239が配備されることになり、こうして冬戦争の立役者は第一線を退くことになった。性能ではもう時代遅れになってしまったので、1940年秋ごろには戦訓をもとにフォッカーD-21の強化が試されることになった。それがフォッカーD-21-4で、これはライセンス生産第4期型という意味である。
主な改良として、よくプロペラ同調装置が故障したので、エンジンカウリングにも装備していた機銃を主翼に移設し、「マーキュリー」エンジンをブレニム用に外す替りにP&WのR-1535「ツインワスプ・ジュニア」を搭載した。これで出力は4割ほど向上、さらなる活躍に期待が寄せられた。
ところが、このエンジンは全くの失敗だった。
出力は4割向上したにもかかわらず、最大速度はむしろ低下して運動性まで落ちてしまった。
原因はR-1535が本体・補器ともに重かったことで、未熟な設計技術ではこれを補うことが出来なかったのである。コクピットを全周ガラスにするなど、ささやかな改修を施したD-21-5も作られたが、評判を戻すまでにはいたらなかった。
結局、生産そのものは1944年まで続けられたものの、もはや戦果はからきしダメで、こうして冬戦争の立役者は消え去ることになるのだった。
「フォッケル」の最後に
フォッカーD-21は、日本ではゼロ戦などと比べれば、まず名前も聞くことのない、実にマイナーな存在であろう。実際、国際的にはその名も冬戦争の活躍あっての事である。
しかし、そんな戦闘機でもフィンランドにとっては「救いの主」であり、実際に国を救ったのである。ただし継続戦争後、フィンランドは軍備が厳しく制限され、とくに空軍は攻撃機・爆撃機の類は全面禁止、戦闘機の保有数も60機が上限とされてしまう。こうして、北欧の1小国は再びささやかな軍備に戻った。
冷戦が終結した現在はF/A-18だけで62機を運用しており、かつてのような60機制限からは脱している。それに次ぐ攻撃機・爆撃機の類は保有していないが、練習機としてBAeホークを計65機運用している。だが実のところBAeホークは軽攻撃機としても有名な存在であり、練習機と言いつつも、有事の際はこれも攻撃機として動員する腹づもりなのではないだろうか。
ちなみにこの他にも、国産のヴァルメトL-70「ヴィンカ」を練習機として保有(28機)している。
こちらはいかにも無害そうな、2~4人乗りでプロペラ駆動の練習・連絡機である。
参考文献
「北欧空戦史 ―なぜフィンランド空軍は大国ソ連空軍に勝てたのか」(HOBBY JAPAN軍事選書)