モンゴル神話
もんごるしんわ
この記事はモンゴルの神話を取り扱う。現代のモンゴル国にあたる地域は、古来より多くの民族が攻防を繰り返してきたが、チンギス・ハーンによる統一とユーラシア諸地域の征服後は彼の出身部族である「モンゴル」が、この地の人々の共通の民族名として定着していった。この民族の神話・伝承の総称がモンゴル神話となる。後にモンゴルではチベット仏教の影響が強まったが、伝統的な信仰は現代でも一定の影響を維持している。
モンゴルの地には、文字で書き記される前から多くの諸民族の攻防が繰り返されて来たと考えられる。文字による記録が最初に詳しく残された集団の一つが、司馬遷の『史記』に記録された匈奴である。匈奴はモンゴルの地をほぼ統一して秦帝国の北辺を脅かし、前漢の初代皇帝劉邦の遠征軍を包囲したりしているが、やがて分裂、瓦解していった。4世紀には鮮卑系の拓跋部が華北に侵攻して北魏を建国し、6世紀にはトルコ(テュルク)系の突厥がモンゴル高原から東西トルキスタンまでを征服した。10世紀には契丹民族が遼を建国して満州から華北を制し、その朝貢部族のなかからモンゴル部が現れた。これら諸集団は必ずしも同一民族と考えられておらず、この地には多くの文化があるいは興亡しあるいは混交していったと考えられる。
モンゴル部は当時台頭してきた満州民族の金王朝やモンゴル高原東部のタタル部などと抗争を繰り返していた。しかし、その支流キヤト氏に生まれたテムジンによって統一され、彼は諸部族全体の主としてチンギス・ハーンと名乗り、東は日本海から西はポーランドに至る大帝国を築いた。その後の内陸アジア世界では、チンギス・ハーンの血縁者で無ければハーン(遊牧民族の長であるという称号)と名乗れないという慣習(チンギス統原理。ティムール朝創始者のティムールは血縁者ではなかった為、ハーンを生涯名乗らなかった。)が成立するようになった。それほどにチンギス・ハーンの権威と聖性が重んじられたのである(原山煌『モンゴルの神話・伝説』pp.45)。
こうしてチンギス・ハーンと彼の出身部族である「モンゴル」は、この地に住む人々に「モンゴル民族」というアイデンティティをもたらすことになった。そしてその族祖の由来もまた神話として重んじられるようになった(原山、同書)。それがモンゴル神話の原典の一つとされる『元朝秘史』冒頭である。
「はじめに上天よりの命によって生まれた蒼き狼がいた。その妻は白き鹿であった。夫婦はテンギス湖を渡って訪れ、オノン川の源流たるブルカン・カルドゥン山に居を構えた。そしてバタチカンが生まれた」
このバタチカンがモンゴル民族の初代ということになるが、原山はその十代目たるドブン・メルゲンとその子供たちの物語にも着目する。ドブン・メルゲンはアラン・ゴアという乙女との間に2人の子供を儲けて世を去った。しかしアラン・ゴアは夫無くして3人の子を産んだ。2人の子は母の密通を疑った。アラン・ゴアは5人の子を集めて1本ずつの矢を配り、折らせた。次に5本束の矢を与えたが、これは誰も折れなかった。アラン・ゴアは天幕から差し込む光が天人ともに現れて我が腹に透き通り、3人の子が産まれた、つまりは天の子だと語る。そして5人のこの連帯を訴えたのである。さて原山は、この神話にいう子をもたらした天との繋がりに着目する。蒼き狼に命を与えたのも上天である。原山によれば北アジアの多くの騎馬遊牧民族が「永遠の蒼天」を権威の裏付けとしている(原山煌『モンゴルの神話・伝説』pp.50)。天、すなわちモンゴル語で言えばテングリである。天空神や運命神、天の神々といった意味がある。原山によれば、モンゴルの聖界はシャーマンが統べていた。その祈る対象は最も重要な天を代表として大地、太陽と月、星辰、祖霊、火等が挙げられている。
『元朝秘史』は、チンギス・ハーンが生まれた時に右手に血の塊を持って生まれたとする。原山によれば、これは流血を振りまきながら世界帝国を築く英雄のモチーフだという。チンギス・ハーンの生涯も天の祝福や加護のイメージに彩られている。赤子の姿で天降ったという伝承から、敵に襲われた際に太陽神の加護によって聖山ブルカン・カルドゥンに隠れて救われた、またテルグネの丘に隠れた際に天神からの警告を受けたといった伝承まである(原山、同書pp.61-66)原山によれば、テムジンが即位した際には、ココチュというシャーマンからチンギス・ハーンの尊称をうけている。また後世のハーンの文書は「永遠なる天の力による」ハーンという表現がなされる。天はハーン権威の源泉であったわけだ。
モンゴル帝国が成立するまで文字を持たなかったモンゴル部では、文芸は口承で伝えられてきた。それを書き留めたものが、モンゴル神話ということになる。その主要な文献はチンギス・ハーンの一代記である『元朝秘史』そして英雄叙事詩『ゲセル物語』『ジャンガル物語』が挙げられる。元朝秘史は十四世紀ごろに漢字で音訳されたものが伝わる。明朝がモンゴル諸王と交渉する際の通訳が教本として用いていたらしい。また、『ゲセル物語』『ジャンガル物語』の書写は17世紀~18世紀という。現代のモンゴル国でも、口承の収集保存が精力的に進められている(原山煌『モンゴルの神話・伝説』pp.34-39)。英雄叙事詩はしばしばホールという弦楽器を伴奏として語られた。その語り部をトーリチと呼ぶ。
後にチベット仏教が盛んになった時、モンゴル神話に対してはいわゆる神仏習合の立場が取られた。『十善法の白史』は元朝秘史に次ぐモンゴルの宗教と歴史について書かれた古典である。このなかで、チンギス・ハーンは、仏教の守護神である執金剛神の化身として位置付けられる。後にダライ・ラマによって認定されたモンゴルの転生ラマ、ジェプツン・タンパ1世は高僧ターラナータの転生であるとみなされてモンゴル仏教の最高指導者となった。それと同時に、彼自身はチンギス統原理によって王たる資格のあるチンギス・ハーンの子孫でもあったという。こうして観音菩薩の化身と看做されたダライ・ラマによって、以後ジェプツン・タンパの転生が代々認定されることで、モンゴル神話とモンゴル仏教は一体化していく。