ルーシ
るーし
元々はゲルマン人であるヴァリャーグ(ヴァイキング)の一派とされるルーシ族によって西暦882年頃に建国されたとされる、大公を君主とした国家の国名であった。首都がキエフに置かれた事から、後世では「キエフ大公国」または「キエフ・ルーシ」などと呼称される事が多い。
後に領土が広がるにつれ、特にその中でも本土とされたキエフ、チェルニーヒウ、ペレヤスラウの3地域を中心とした領域を指して特に「ルーシ」と称するようになったとされる(以降、国家としてのルーシは「キエフ大公国」、地方としてのルーシは「ルーシの地」として呼び分ける事とする)。
12世紀半ば頃からキエフ大公国内の分裂が顕著化し、1240年にモンゴル帝国がキエフを陥落させる前後には南西部のハールィチ・ヴォルィーニ大公国(東欧の文化敵中枢であったアテネからの距離が近かった事から「小ルーシ」とも)と北東部のウラジーミル・スーズダリ大公国(同様に「大ルーシ」とも)の二大公国が台頭。このうちウラジーミル・スーズダリ大公国は周辺の諸公国とともにモスクワを拠点としたモスクワ大公国に集約され、以降はギリシャ語名である「ロシア」を自称するようになっていった。
ルーシの地にあったハールィチ・ヴォルィーニ大公国は後にポーランドおよびリトアニアの支配下に移った。リトアニアはルーシの文化や宗教を吸収し自らルーシ化していったのに対し、ポーランドは支配下地域(このうちルーシの地はペレヤスラウ周辺地域の名である「ウクライナ」の名で呼ばれるようになった)に対し文化や宗教のポーランド化を強要していた。後に両国がポーランド・リトアニア共和国として合同すると、リトアニア地域に対してもポーランド化が進められるようになった。こうした圧力に対しルーシの地の人々は反発、武人共同体コサックの支配する独自の国家を形成して自治権を獲得、またポーランド・リトアニア共和国がコサック討伐を開始するとオスマン帝国やロシア(モスクワ大公国、のちのロシア帝国)の庇護を受けてこれに抵抗し自治を保った。最終的にはコサックの国家は東西に分割され、ドニプロ川を挟んで東側(左岸ウクライナ)がロシアの保護領となり、西側(右岸ウクライナ)はポーランドに残留し自治権を剥奪される事となった。その後ポーランド・リトアニア共和国が崩壊すると、同共和国内のルーシの地はルーシ県(ハールィチ)とヴォルィーニ県がオーストリア=ハンガリー帝国に、それ以外はロシアにそれぞれ併合された。
その後、オーストリアにおけるルーシの人々(ルテニア人)はポーランド人との対立の中で、「ウクライナ人」として自らの民族意識を確立。一方ロシアにおいてはポーランド人が二度の独立運動に失敗し国外亡命を行ったり弾圧されたりして影響力を失った事に加え小ルーシ人(左岸ウクライナ)、白ルーシ人(「白」は西の意味。モンゴル支配下に流入した五行思想の影響で方角を色名で表現していた頃の名残)、大ルーシ人をすべてひとくくりに「ロシア人」としていた影響もあって、民族意識の確立は遅れた。
20世紀初頭、ロシア革命によりロシア帝国が崩壊すると、小ルーシはウクライナ人民共和国(のちにウクライナ・ソビエト社会主義共和国)として、白ルーシはベラルーシ人民共和国(のちに白ロシア・ソビエト社会主義共和国)としてそれぞれ独立、1922年にはロシア、ザカフカース(現在のアゼルバイジャン、アルメニア、ジョージアに相当する地域)とともにソビエト社会主義共和国連邦を結成した。
一方でオーストリア=ハンガリー帝国の崩壊に伴い同国内のウクライナ人もまた西ウクライナ共和国として独立国家を樹立したものの同じくオーストリアから独立したポーランドとのポーランド
ソビエト戦争に敗れ併合される事となった。しかし1939年にドイツ(第三帝国)などとともにポーランド侵攻を行った際に西ウクライナを含む領域がソ連領となり、西ウクライナはウクライナに、それ以外の地域は白ロシアにそれぞれ編入される事となった。
1991年、ソ連が崩壊。ロシア、ウクライナ、ベラルーシ(白ロシアから改称)はそれぞれ独立した共和国となった。
尚、このような歴史的経緯からこのロシア、ウクライナ、ベラルーシの3か国をもってルーシ圏、ルーシ3国と呼称する事もある。
上記のキエフ大公国における民族の名称。元々は支配階層であるヴァリャーグ系ルーシ族の事を指していたが、後に同国および小ルーシに住むスラブ系住民をもってルーシ人と呼ぶようになった。
現在のウクライナ人およびベラルーシ人の祖先であり、特に17世紀以降は単にルーシ人といえばウクライナ人の事を指すようになっていた。
尚、大ルーシ(ロシア)においてはロマノフ朝成立の頃までに「ルーシ人」としてのアイデンティティが失われ「ロシア人」としてのアイデンティティに変容しており、少なくとも日本では近世以降のロシア人をルーシ人と呼ぶ事はまずない。