仲代達矢
なかだいたつや
1932年〈昭和7年〉12月13日生まれ。東京府東京市目黒区出身。劇団(正確には俳優養成のための私塾)無名塾主宰。妻は無名塾創立者の宮崎恭子。
高校卒業後に俳優座の公演における千田是也の演技に感銘を受け、1952年(昭和27年)に俳優座養成所を受験して合格、養成所の第4期生として入所。同期に宇津井健、佐藤慶、佐藤允、中谷一郎らがいる。このうち佐藤允、中谷一郎とはともに岡本喜八監督作品に多く出演し「喜八ファミリー」の一員となった。
養成所時代に『七人の侍』(1954年)で、セリフなしの浪人役を務めて映画デビュー。宇津井健と共にほんの数秒の出番だったが、黒澤明監督からは「歩き方が変だ」と散々に言われて半日かかって「いいや、OK」と撮影終了になったという。
養成所を卒業(前年既に初舞台)、準劇団員扱いで俳優座に入団した。同年秋の公演『幽霊』でオスワル役に抜擢された。この『幽霊』を見た映画監督・井上梅次から依頼が舞い込み、映画『火の鳥』(1956年・日活)で月丘夢路の相手役という大役を務め、映画でも本格デビューを果たし注目された。
その後映画会社大手5社から専属俳優にと望まれたものの、舞台へのこだわりから映画会社への専属契約はせず、フリーランスとして活動した。
谷口千吉監督の映画『裸足の青春』では準主役で起用され、千葉泰樹監督の『大番』、『黒い河』(1957年)における冷酷なヤクザ・通称人斬りジョーの演技でも存在感を示す。
小林正樹監督の『人間の条件』(1959-1961年)シリーズでは小林も「まさに天才」と感服する名演技を見せ、その後も小林監督作品に多く出演した。
一方黒澤明に対しては『七人の侍』での一件から「立派な役者になって二度と黒澤組には出ない」と『用心棒』でのオファーを固辞。黒澤本人が出向いて説得したことから出演を決めたという。
1970年代には山崎豊子原作・山本薩夫監督の政財界もの映画『華麗なる一族』(1974年)で準主役を一人二役で、同じ原作・監督による『不毛地帯』(1976年)では主役を務めた。
1977年から「無名塾」の塾生公募を開始。
1980年(昭和55年)の『影武者』で、監督・黒澤明との確執で降板した勝新太郎の代役として、急遽主役に抜擢(ばってき)され、同作はカンヌ国際映画祭でグランプリを受賞した。
2015年(平成27年)、文化勲章を受章。