加藤和彦(1947年3月21日~2009年10月16日)
概要
日本のシンガーソングライター。「ザ・フォーク・クルセダーズ」、「サディスティック・ミカ・バンド」などで活躍した。
ソロ転向後はイギリスのフォーク歌手ドノヴァンの歌唱の影響を受け、「トノヴァン」と仇名された。
「帰って来たヨッパライ」「イムジン河」「悲しくてやりきれない」(ザ・フォーク・クルセダーズ)、「あの素晴しい愛をもう一度」(北山修とのデュオ)、「タイムマシンにおねがい」(サディスティック・ミカ・バンド)などの曲が知られる。
来歴
1947年3月21日、京都市伏見区(京都府)に誕生。祖父は仏師だった。生後すぐ神奈川県に引っ越し、鎌倉市と逗子市で育つ。
1953年、京都に戻るが、1年後に日本橋(東京都中央区)に転居。
1962年、東京都立竹台高等学校に入学。ボブ・ディランに憧れてフォーク・ギターを弾くようになる。
1965年、祖父の後を継ぐつもりで京都の龍谷大学へ進学。雑誌「MEN'S CLUB」でバンド・メンバー募集をしたところ、京都府立医科大学の学生だった北山修が加藤の家を直接訪ねてきた。「世界中の民謡を紹介する」というコンセプトから「ザ・フォーク・クルセイダーズ」を結成。メンバー・チェンジを経ながらアマチュアとして活動した。
1967年、「ザ・フォーク・クルセイダーズ」を解散。解散記念に自費でアルバム「ハレンチ」を300枚制作した。しかし50枚しか捌けず、在庫処分に困りラジオ局などに持ち込んでいたところ、京都・大阪のラジオ局でアルバム収録曲の「帰って来たヨッパライ」「イムジン河」が盛んに取り上げられるようになる。各レコード会社が再結成とプロ・デビューの話を持ちかけ、加藤は1年間限定の活動とはしだのりひこの加入を条件に承認し、「ザ・フォーク・クルセダーズ」として再結成。
1968年、シングル「帰って来たヨッパライ」が100万枚を超えるヒットとなる。2枚目のシングルとして予定していた「イムジン河」は発売中止となる。アルバム「紀元貮阡年」を発表。10月17日に大阪で「さよならコンサート」を開き解散。
1969年、ソロ活動を始める。アルバム「ぼくのそばにおいでよ」を発表。頻繁にロンドンを訪問し、ドノヴァンの影響を受ける。
1970年、「ザ・フォーク・クルセダーズ」のファンの一人だった福井ミカと結婚。
1971年、福井ミカをリード・ヴォーカルに据え、つのだ☆ひろ、高中正義と「サディスティック・ミカ・バンド」を結成。
1972年、「サディスティック・ミカ・バンド」がシングル「サイクリング・ブギ」でデビュー。メンバー・チェンジを経ながら活動。
1974年、クリス・トーマスのプロデュースで「サディスティック・ミカ・バンド」のセカンドアルバム「黒船」を発表。
1975年、「サディスティック・ミカ・バンド」は「ロキシー・ミュージック」の前座でイギリス・ツアーを行った。11月に福井ミカと離婚し「サディスティック・ミカ・バンド」も解散。
1976年、シングル「シンガプーラ」を発表し、ソロ活動を再開。
1983年、映画「だいじょうぶマイ・フレンド」(監督:村上龍)の音楽監督を務める。
1984年、「超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか」の主題歌「愛・おぼえていますか」を作曲(作詞:安井かずみ)。
1985年6月15日、「国際青年年記念 ALL TOGETHER NOW」に1日限定で高中正義、高橋幸宏、後藤次利、松任谷由実、坂本龍一による「サディスティック・ユーミン・バンド」として出演。
1989年、「サディスティック・ミカ・バンド」を再結成。ベーシストを初代の小原礼に戻し、リード・ヴォーカルとして桐島かれんを迎え、1992年ころまで活動する。
1994年、安井かずみと死別。
2000年、中丸三千繪と離婚。
2002年、北山修、坂崎幸之助と「ザ・フォーク・クルセダーズ」を再結成。12月31日をもって解散。
2006年、「サディスティック・ミカ・バンド」を再結成。リード・ヴォーカルとして木村カエラを迎え、2007年まで活動。
2007年、坂崎幸之助と「和幸」を結成。
2008年、小原礼、屋敷豪太、土屋昌巳、ANZAと「VITAMIN-Q featuring ANZA」を結成。
2009年10月16日、軽井沢(長野県)のホテルで首吊り死体で発見される。晩年は鬱病を患い、死の直前にはそれが悪化していた。