概要
稲生物怪録(読みは、いのう「もののけろく」「ぶっかいろく」の2説がある)は、江戸時代に成立した妖怪物語。
江戸時代中期の寛延2年(1749年)、備後国三次(現在の広島県三次市)にて、16歳の武家の少年・稲生平太郎(いのう へいたろう)の自宅に、7月の1ヶ月間にわたり様々な妖怪変化の類が現れたという話を記録したもの。
昼夜を問わず出現する様々な妖怪や怪奇現象に困らされながらも、平太郎少年が恐れることなく家に留まり続けたところ、30日目に妖怪の親玉・山本五郎左衛門(さんもと ごろうざえもん)が現れて平太郎の勇気を讃え、退魔の力を持つ木槌を授けて子分の妖怪達と共に去っていったという。
ストーリー
これは、広島藩に仕えた武士、稲生正令(まさよし、1735~1803、通称:武太夫・忠左衛門)が16歳の時、まだ幼名の平太郎と呼ばれていた頃の話である。
稲生家は当時、広島藩領内の三次の地に暮らしていたが、両親が相次いで亡くなったために平太郎少年が16歳ながら跡を継ぎ、家来の権平と共に家を守っていた。
稲生家の隣には三井権八という相撲取りが住んでおり、5月のある日、平太郎と権八は2人で肝試しを行うことにした。自宅で百物語を行ったあと、くじ引きに当たった平太郎は夜中に近くの比熊山に出掛け、山頂の杉の木に印をつけて無事に帰ってきた。
それから暫くは、特に何も起こらなかった。
しかし7月1日の夜中、突然稲生家の障子の外が昼間のように明るくなった。平太郎が外に出ると、土塀をも越える巨大な一つ目の大男がこちらをのぞき込んでおり、その一つ目がらんらんと光っているのであった。大男は毛むくじゃらの腕を伸ばして平太郎を捕まえてきたので、刀を抜いて斬り付けようとしたところ、逃げ失せてしまった。
この日を皮切りに、稲生家には連日連夜妖怪が現れたり怪奇現象が発生したりするようになった。
女の生首が室内を飛び回ったり、巨大な老婆の顔が門を塞いだり、漬物石に蟹のような目と脚が生えた妖怪が現れたり。布団から水が湧き出す、行灯の火が巨大に燃え上がる、尺八がやかましく演奏されるなどの手で、平太郎の安眠を妨げようとする日もあった。
平太郎が毎日動じずにいると、妖怪は友人知人に化けて稲生家を訪問し、平太郎を油断させた後に正体を現すといった心理戦法も用いるようになってきた。
本物の友人や親戚が代わる代わる妖怪退治のために稲生家にやって来るが、実際に妖怪に脅かされると皆恐れをなして逃げてしまう。
このような騒々しい日々が続きながらも、平太郎は屋敷から逃げ出すこともなく、7月30日を迎えた。
この日、立派な裃を着た40代くらいの見知らぬ侍が稲生家にやって来たので、これも妖怪かと平太郎は斬り掛かろうとした。すると侍の姿は消え失せ、壁に大きな目や口が現れてゲラゲラと笑い、火鉢からは大量のミミズが噴き出してくる。「乱暴はおやめ下され」という男の声が聞こえるので平太郎が刀を引くと、部屋はきれいに片付き再び先程の侍が現れた。
「拙者は妖怪の大親分、山本五郎左衛門と申す。神野悪五郎と魔王の座を競って、勇気ある少年百人を驚かすという賭けを行っており、そなた平太郎は86人目であった。しかし、そなたは一ヶ月間にわたり我が子分共に少しも動じることがなく、見事な勇気を示した。我らは降参し、明日からはもうこの家に怪異が起こることはない。また、今後神野悪五郎の一味がそなたに悪さをすることがあれば、この木槌を振れば我々が加勢いたそう」
侍の姿をした妖怪はこのように語り、一振りの木槌を平太郎に授けると退出していった。
妖怪の親玉を前に、平太郎の背後には氏神の姿が現れ、平太郎を守護していた。
平太郎が外に出ると、無数の妖怪たちを付き従えた駕籠が空の彼方へ飛び去ろうとしており、駕籠からは毛むくじゃらの巨大な脚がはみ出していた。
それからというもの、山本の言葉どおり稲生家の怪異はぴたりと止んだ。
平太郎は隣家の権八・家来の権平とともに氏神の社に参拝して、妖怪から護ってくれた感謝を伝えた。
やがて、立派に成人した平太郎あらため稲生正令(まさよし)は、広島藩に仕えて68歳まで生きた。平太郎が山本五郎左衛門から受け取った木槌は、広島の國前寺という寺に奉納され、現存している……。
伝承・創作
この不思議な話は、物語や絵巻物として様々な形で伝承された。江戸時代後期には国学者平田篤胤が注目し、明治以降も民俗学研究のテーマや小説の題材などに幅広く用いられた。
など。
青少年の一夏の怪異譚というジュブナイル的要素が題材にし易いのか、近年では漫画作品のモチーフともされ、
などがある。
また、「山本五郎左衛門(山ン本五郎左衛門)」や「神野悪五郎」は妖怪の親分の名として様々な作品で用いられており、それらの用例は両項目を参照のこと。
またゲーム『ブルーアーカイブ』でも怪談を操る奇書として登場した。