藪恵壹
やぶけいいち
本名は「藪恵一」であり、プロ入りした1994年には姓名判断になぞらえ、登録名を「藪恵市」としたが、その後「藪恵壹」に変更し現在に至っている。
和歌山県の新宮高校時代は同県に橋本高校の杉浦正則がいたために注目されなかった。その後東京経済大学に進学。大学時代は現在でいうところの二刀流の投手で東都2部リーグでは首位打者争いも繰り広げた。社会人野球の朝日生命入社後は完全に投手一本に絞る。1993年のドラフト1位で阪神タイガースに入団。背番号は入団1年目の1994年からエースナンバーである「18番」を背負ったが、2002年にOBの川藤幸三の勧めもありジーン・バッキーやマット・キーオといった往年の外国人投手や川藤自身も背負っていた「4番」に変更した。
1994年には新人王を獲得。ファン投票でオールスターゲームにも出場した。火曜日の登板が多かったため、「火曜日の男」と呼ばれていた。しかし、前半素晴らしい投球を見せても、6回あたりから精彩を欠いて自滅することが多々あった。特に勝負どころで本塁打を浴びることが多く「勝負弱いピッチャー」というマイナスイメージが強くファンや野球評論家の間で「藪病」「藪から棒球」と揶揄されることもあった。2003年のリーグ優勝時には井川慶やトレイ・ムーアに伊良部秀輝らと共に優勝に貢献した。
2004年オフにFA権を行使して、翌2005年にオークランド・アスレチックスに入団。1年目に4勝を挙げたものの、同年に自由契約。その後サンフランシスコ・ジャイアンツに入団したが、2009年に戦力外通告を受け、ジャイアンツ傘下の球団AAA級フレズノと契約を結んだが、同年7月に解雇された。
翌2010年に日本に帰国し、千葉ロッテマリーンズの入団テストを受けたが、獲得は見送られた。その後東北楽天ゴールデンイーグルスの入団テストを受け、合格し、楽天に入団。背番号は64。中継ぎ投手として11試合に登板したが、シーズン終了後戦力外通告を受けた。当初、古巣である阪神から投手コーチ就任の打診の話はあったものの、藪本人は現役を続けようとしていた。しかし、藪はコーチ就任を引き受けた。ここで現役引退を発表した。
2011年に阪神の二軍投手コーチを務め、2012年からは和田豊の監督就任に伴い一軍投手コーチに昇格したが、2013年より再び二軍投手コーチに配置転換。シーズン終了後は阪神球団を退団し、現在は野球解説者を担当。