プロフィール
経歴
水戸商高から1997年のドラフト2位で阪神タイガースに指名されてプロ入り。前年、水戸商高3年春の茨城県大会、対竜ヶ崎一高戦で、7回参考記録ながら18奪三振の完全試合を達成している。
2年後の1999年に中継ぎ投手として1軍初登板。その後、当時の阪神監督野村克也の提案で先発に転向。2002年には最多奪三振のタイトルを獲得。2003年にはシーズン20勝をあげてチームのリーグ優勝に貢献し、沢村賞も獲得した。
2004年10月4日の対広島東洋カープ戦(広島市民球場)ではプロ野球史上71人目となるノーヒットノーランを達成。
2006年オフ、ポスティングシステムでニューヨーク・ヤンキースに移籍。しかし、5年総額2000万ドルという大型契約にもかかわらずメジャーでは不振に。2008年以降はメジャー登板の機会が少なくなり、2009年以降は昇格どころかその前提となる40人枠入りすら出来ず、ヤンキース以外のMLB29球団全てからトレード話を断られるなど、『ヤンキース史上最低最悪の契約』として今なお名前を挙げられるようになった。
ただしトレードが破談となったのは、ヤンキース側がポスティング時の移籍金を含めた井川との契約金の全額負担を相手に要求したことも理由の一つである。2008年には3Aながら最多勝を挙げるなどアメリカ球界で全く使い物にならなかったというわけではない。
日本に帰国後は2012年からオリックス・バファローズで主に先発投手としてプレー。2015年オフに戦力外通告を受けNPBを離れた。
2016年5月、BASEBALL FIRST LEAGUEの兵庫ブルーサンダーズに練習生として契約、その後正式契約を経て2017年までプレーした。
独立リーグ兵庫退団後、自身は現役引退を表明してはいないが第一線からは事実上退いており、「野球人としてなんらかの形で野球に関わっていたい」というスタンスで野球解説者などで活動している。
人物
選手としての特徴
最速151km/hの直球と落差の大きいチェンジアップを武器に奪三振を量産するサウスポー。阪神時代は毎年のように200イニングを投げるなど無尽蔵のスタミナも持ち合わせている。球威に関してはメジャーでもトップクラスであり2007年の「ボールを芯で捉えられた割合(Hard Hit Average)」は.196を記録した。
その反面、狙った箇所に投げるコマンド能力は低くチェンジアップの失投を痛打される場面も見られた。
エピソード
- 茨城県出身だが、納豆は食べられない。
- 豪快な金遣いをする傾向のあるプロスポーツ選手の中で庶民派として知られ、新幹線もグリーン車ではなく普通車に乗ったり、若手時代は月1万で過ごしたり、沢村賞を獲って億プレイヤーになったのに関わらず、阪神タイガースの寮の虎風荘を出て行くのを嫌がり2003年オフに退寮を命じられた際には隣にプレハブ小屋を建ててくれればそこに住むと言うなど様々な逸話を持つ。
- 名探偵コナンを愛読しており、渡米する際にはコナンの単行本とアニメのDVDを持参していた。
- 将棋が趣味。
- セガのアーケードTCG「WCCF」のプレイヤーであり、限られたプレイヤーしか進めないオンライン全国大会に勝ち進める程のチームを擁する。でもこのゲーム、サッカーが題材となっている。
- 阪神時代には野球選手らしからぬロングヘアーが特徴の選手だった。特に2003年はゲン担ぎで「(自身の)連勝中は髪を切らない」と公言したため、開幕投手としての初戦は黒星を喫するも、2回目の先発登板から12連勝(約4か月半)もしてしまい、アフロヘアーのような凄まじい髪形となった。