概要
久安4年(1148年)に生まれたとも、康治2年(1143年)に生まれたとも言われる。
嘉禄元年(1225年)に亡くなったという点は共通しているが、前者は『吾妻鏡』や『鎌倉年代記』、『関東評定伝』に78歳で、後者は『尊卑文脈』に83歳で亡くなっているという記事から逆算したものである。
出自もまた不明である。『江氏家譜』では藤原光能の子で、母の再婚相手である中原広季に養育されたと言う。『尊卑文脈』所収の「大江氏系図」では大江維光を実父、中原広季を養父としているのに対し、『続群書類従』では中原広季を実父、大江維光を養父としている。
現在知られる「大江広元(おおえのひろもと)」という名は晩年まで名乗っておらず、建保4年(1216年)に「陸奥守」に叙任されてからであり、それまでは「中原広元(なかはらのひろもと)」を名乗っていたとされている。
兄・中原親能
広元の兄・中原親能は源頼朝に親しいことから早くから鎌倉に下り、寿永2年(1183年)の源義経率いる軍勢とともに上洛、翌元暦元年(1184年)再度上洛し頼朝の代官として万事を奉行、朝廷との交渉にあたる活躍を見せている。
鎌倉下向
広元も兄・親能に従い、同時期に鎌倉に下向したとみられる。
元暦元年(1184年)、政所初代別当に就任し、朝廷との交渉役を任される。
正治元年(1199年)に頼朝が死去したのちも幕府に仕え、承久3年(1221年)に後鳥羽上皇が「北条義時追討の院宣」を発したときには嫡男・親広が上皇方についたのに対し、広元は執権・北条義時、北条政子側について親子が相克することとなった。
建暦3年(1213年)に起きた「和田合戦」でも広元は執権・北条義時とともに多くの書類に「連署」しており、このことからも広元の権限の大きさがわかる。
また、官位も頼朝の異母弟・源範頼と舅・北条時政が従五位下でとどまっているのに対し、広元は正五位と格別の高さとなっている。
嘉禄元年(1225年)6月、死去。
関連タグ
大友宗麟…親能の猶子・大友能直の子孫
最上義光…広元の長男・親広を祖とする寒河江氏を滅ぼす
伊達政宗(大膳大夫)…広元の次男・時広を祖とする長井氏を滅ぼす
酒井忠次…広元の五男・海東忠茂の女系子孫