信仰・民族・時代による違い
原始的宗教観において性はしばしば聖なるものであり、両者を同一の人物が司る事は珍しくなかった。古代のシナイ半島の辺りで神聖娼婦「ケデシャー」が認められるほか、今日女性差別が最も激しい地域の一つとされるインドの仏典においても「神と人との中間にある聖職」とされており、娼婦と国王との結婚に対して「誇り高き聖娼が世俗的な国王の后になるのか」と娼婦の母親が反対したという逸話が存在する程である。
日本においても「歩き巫女」と呼ばれる娼婦を兼ねた巫女が明治初頭まで存在しており、神事と性行為を行いながら各地を移動する姿が確認されている。ただ、巫女の「売笑」はあくまでオプションで、歩き巫女は本来娼婦ではなかったというのが定説で、日本における巫女に「売笑もやる新職」であった可能性がない。中国での「何とか娘娘観」とかでは巫女が売春やって奥さんの代理の子作りまでやってるのに日本に来てない。
しかし、政治や宗教が体系化されるにつれ、多くの社会で不特定多数との性行為、更には女性の性そのものが次第に取締りの対象とされてゆく。価値があるものを統制する事が権力であり、また、家族や主従といった人間関係を固定化させる事が秩序の維持に繋がると考えられたからである。この件に関しては科学的根拠は無い。権力者への自己犠牲心が1%でも欠く可能性を徹底的に排除するなどという発想自体がポル・ポトと同レベルかそれ以下といえる。
教義面でも、動物的本能を克服する事に意義を見出す考え方が増加し、それらに真っ向から逆らう生活を送る娼婦は卑しく罪深い存在であるとする見解が広められていった。いくつかの宗教は広範囲に普及し、それ自体が一つの権力組織と化してもいった。こと中東や地中海沿岸ではヒッタイトショックで既存の神権政治が崩壊したことでそれが激化していく。
ユダヤ教やイスラム教、儒教といった宗教は祭政一致の社会体制を志向する傾向にあり、聖俗両面から娼婦を追いやっていった。教義的な罪深さはそのまま犯罪者として裁かれるに等しくなった。
とは言え、さすがに子供が産まれないと国が滅ぶので男性の性欲自体を完全に否定した社会は稀であり、娼婦達は裏社会・闇経済の下で奴隷に準じた存在として生かされる事となる。
奴隷がそうであったように、中には有力者の寵愛を受けて一般人より遥かに恵まれた生活を送った者もいたが、大半は闇から闇へと葬られ、なによりその運命を自身で決める事が困難な立場に立たされていった事には変わりが無かった。
一定の制限を守る事で売春を公認する社会も存在したものの、その目的は治安維持と利用者の安全確保、時に財源確保であり、娼婦自身は使い捨てが普通であった。娼婦を揶揄する言葉に「公衆便所(女)」というものがあるが、まさにそれと変わらない扱いであったと言える。
娼婦といえば。
かつてヨーロッパ諸国が弱小な文明後進大陸だった頃は、白い肌と青い瞳が美しい北欧人女性や東欧人女性は、中東やアジア大陸、シルクロードなど様々な方面からの諸勢力によって乱獲され、性的玩具として売られていた歴史が長かった。
社会的地位が低下するにつれ、同性の間からも侮蔑の対象とする者が出てくる。買春を続ける男性達を止める術を持たない大多数の女性達にとって、不満の矛先を向けるのは娼婦であり、むしろ「娼婦とは違って」慎ましく振る舞う事が善き女性としてのあり方とされた。
不特定多数と交わる娼婦は、しばしば悪魔の類をも呼び寄せる存在とされたため、そう見られる事は法律や個々の信条を超えて、宗教的穢れとして抹殺される危険性を帯びたのである。中世ヨーロッパの魔女狩りにおいて、娼婦を含む社会のアウトサイダー達が次々と告発された歴史はその極致と言える。…タネを明かすと、12世紀前後は地球規模で(なんと南北アメリカ大陸とオセアニアを含め)気候変動による農作物の生産過多で人口が急激に増加した年代。権力者が人口を非人道的に減らして反乱分子の芽を摘んだ側面はある。ヘロデ王かテメーらは!
娼婦を保護したり宗教的「抜け道」を考察する修道院等も存在したものの、それらの中には「更生」の名の下に監禁と虐待を繰り返し、酷い時には妊娠するまで性的暴行を加えた本末転倒も甚だしい団体も混ざっていた。アイルランドなどはそうした団体が20世紀まで存続し、かえって社会問題として世界に知れ渡る事となった。それほどまでに娼婦は「何をしても良い存在」と見做されていたのである。
時代が下って「民族」「遺伝子」「性病」といった概念が確立してくると、その方面からの弾圧も強まってくる。娼婦はよそ者の血を混入させ時に死に至る病気を媒介する具体的な穢れとなったのである。
ナチス的優生思想という事実上の新興宗教の影響もあったとは言え、近代教育・医学の普及した第二次世界大戦期ヨーロッパで尚、各地で「敵国人と通じた娼婦」をリンチする光景が繰り広げられた事実がその忌避感情の根深さを示している。…もはや説明不要だろうが、この頃になると権力者というゴキブリどもが人々の脳内に対していかにナーバスかが我々の目にも露骨に見える。
フランスが生き残った被害者を再度捕えて正式な裁判にかけた事で結果的にその正当性を検証にしているのだが、6割ほどが全くの無実であり、残り4割の中にも積極的な売国奴は僅かであった。
にもかかわらず、有罪となった者はもちろん無罪だった者も多くが頭髪を丸刈りにされた等の後遺症から元の生活に戻れず、売春すらできない絶望の中で自死を選んでいった様を見ながらも、リンチ行為は戦後フランス社会の中で正義とされ続けた。娼婦認定が現代においてもいかに強力なレッテル貼りとして機能しているかという事をも如実に示したのである。
…ここまで来ると偶像崇拝=反体制という根も葉もないレッテルに見えるが。そこまでして民が自己犠牲の心を欠くのが脅威か?
おフランスと言ったら、明治時代、何とかいいながら、世界の半分にフランス娼婦が進出し春をひさぐほか、日本の娼婦がその辺まで(アフリカとかアメリカへも)進出して稼いでいた。そのインテリジェンス性、メディアとしての有効性に目を付けた二葉亭四迷ていうか長谷川辰之助は、日本人娼婦がロシア人に昆布出汁のスープの文化を伝えている点を強調し、娼館を作りたい旨を知り合いに喋りまくっていた。
主な傾向
性を語る事自体がタブーとされる社会もあり、客すらも見下しながら行為に及ぶ者は少なくないものの、一方でビッチ萌えという嗜好もまた古来より存在しており、自分だけのものにしたりむしろ自分が娼婦に弄ばれたりといったシチュエーションが楽しまれてきた。矛盾しているのは前者に見えるのは気のせいではない。
船乗りや軍人といった職業は女性と接触できる機会自体が少ない事もあって、娼婦にまつわる様々な逸話が非常に多い。
ヨーロッパの「高級娼婦」や日本の「花魁」といった最上級の娼婦は、しばしば表社会にも伝わる名声を馳せた。男性客との付き合い上同等の教育を受けられた事もあって、特有の文化を形成して後世にまでその(広義の)風俗を残している。
長い間、多くの地域で女性に対する(男性並みの)教育は不要または有害とされてきたが、元々存在そのものがそのように見られていた娼婦にとっては、かえって問題外の事柄だった。…やはりこれも既存権力への反抗心の感情が芽生える可能性への過剰反応から来るポル・ポト主義だが。
それが転じて、アウトサイダーならではの視点として、社会風刺や批判を行う役割を担う事もある。娼婦を迫害した一大思想であったキリスト教であっても、聖書の中には(ユダヤ教から迫害されていた当時の立場を重ね合わせる形で)迫害感情を再考させる文章を度々記していた。
伝統的権威が弱まった近代になると、刹那的退廃的雰囲気の象徴として、善悪や尊卑の線引き自体が曖昧な例も出てくる。あるいは「かわいいは正義」という結論を導き出す手段であったり、あるいは女性心理を掴むためのサンプルとされたりもする。
そうして「画になる」事自体が既に差別感情の表れだとする意見も出ている。娼婦にまつわる言説はあまりに多様になり、当事者ですら全てを把握する事は不可能となった。棲み分けが肝要だろう。
誰もが美しくなれる科学力がユートピアか、醜いモノこそ崇拝される価値観がユートピアか――――。ひとつだけ確かなのは、努力が報われる仕組みが崩壊した今となっては旧時代が美徳とした品行方正な生き方はライフプランに何の旨味も無い。
*****――――本当の幸せって、何だろう…?*****
現代日本において「娼婦」と呼ぶ場合には叙情的響きが込もる事が多く、侮蔑の意味合いを込める場合には「淫売」や「売女」といった単語を用いる傾向にあるが、あくまで資本主義的には自然な生存競争。実は美しさを武器にする「生きる知恵」を個々人の目にどう印象付くかは若年層と老年層とで大きな乖離が隔たり、具体的に自分以外の誰に外傷または物理的損失をもたらしているのかと正論をぶっ放されたら何も返す言葉がございません。
また、ある程度相手を特定している場合には「愛人」や「枕営業」の語を、ほとんど別の職業で生計を立てている場合には「援助交際」の語を充てると言った使い分けもなされている。
当然だが被害者と断定されない限り法的には何も問題は無い。とはいうものの、一定の年齢を下回ると問答無用で取り締まられる。それが本当に幼い未来を守る目的なのか、あるいは老害どもが若い美肉を脅威と恐れ間引いているのか、何が建前で何が本音かは定かではないが。
最後に…
旧来の性的=不浄という偏見は、人間以外の動物全般に視野を拡大しても大きな誤り。
自然界には性淘汰という進化現象が頻繁に散見され、目立つ個体は見つけやすいゆえ繁殖にありつきやすい。
宝石のように光沢を放つ構造色動物を例に挙げるだけでもクジャクやモルフォチョウ、ミドリセイボウ、ケンランカマキリなど事欠かない。クジャクの羽といえばその美しさゆえ人間をも魅了し、これを束ねて作った扇は名宝として自慢された。構造色が性的ゆえに不浄だという価値観なら、アジア各国の寺社仏閣に安置されている孔雀明王像が不浄だと言いたいのか!?そんな拡大解釈をすると、同じく構造色の美しさゆえに飛鳥時代から人々を魅了した生物から作られた日本を代表する国宝さえもか!?正気か!?
また極楽鳥のように派手な羽に加えて多種多様な求愛ダンスでライバルに差をつけるケースも少なくない。
以上は極端にせよ、いかなる動物も(それが性淘汰か否かは別として)多かれ少なかれ繁殖に値する遺伝子を選択している。
我々の祖先がどのような過程で美醜の性淘汰を形成するに至ったかは詳しくは判明していない。実に皮肉なことに、世界中の民族が大量にひしめき合うスウェーデンでは現在、白い肌が光を反射して目立つスウェーデン人女性は乱獲され絶滅が危ぶまれている。