特型駆逐艦
とくがたくちくかん
概要
ワシントン海軍軍縮条約の締結により、八八艦隊の建造を中止した旧日本海軍が条約の制限を受けない補助艦艇の整備を強化する方針を打ち出し、建造した駆逐艦である。
書類上の正式名称は「吹雪型駆逐艦」で、特型ではなくこの吹雪型駆逐艦で呼ばれる文献も多い。
特型の名前は、睦月型以前の駆逐艦(「特型」に対して「並型」と呼称される事も)よりも高性能な駆逐艦建造を要求された艦政本部が立ち上げた「特型駆逐艦対策委員会」の名称に由来している。
また、「特型」という呼称が後続の初春型、白露型、朝潮型までを含む呼称として用いられる場合もある。
設計主任は藤本喜久雄造船大佐。藤本は特型の設計で平賀譲に並ぶ名造船家としての名声を得た。
本型は、日本海軍が軽巡洋艦「夕張」で培った技術を駆逐艦に適用し、長距離外洋航海に耐える航続力と従来の駆逐艦と一線を画す打撃力を兼ねそなえた艦隊型駆逐艦として建造された。船体は自動電気溶接の多用等による徹底した重量軽減を行いつつ、前級であるポスト八八艦隊世代の駆逐艦である睦月型よりも一回り大きかった。
余裕を持たせた艦体に前級の睦月型の12cm単装砲から砲力を強化し12.7cm連装砲を3基6門搭載した。砲塔はそれまでの開放型の波除け防盾から全周を覆った密閉型に変更された。これは機銃弾や弾片などからの防御性能は皆無に等しかったが天候や波浪に左右される事無く戦闘することが可能になった。
雷装は61cm3連装魚雷発射管が9射線、艦橋は露天式から密閉式に変更され、公試時の最高速力は38ノットに達した。
基準排水量1700tの船体に、当時としてはかなりの重武装が施され、砲門数・魚雷発射管数はともに従来の睦月型の1.5倍となった。雷撃9射線は後の甲型(8射線)を上回り丙型(15射線)に次ぐ射線数である。
もっとも搭載砲は、従来の対艦砲撃戦では毎分10発のカタログスペックを持ち他国の駆逐艦に対して優位性を持つが、対空戦闘能力は毎分4発では余り現実的とは言えなかった。これは本来この砲が対艦砲撃を意識した平射砲であり装填時に水平まで戻す必要があったためである。
また雷装についても、甲型の場合当時帝国海軍の秘密兵器の一つであった所謂酸素魚雷を搭載しており、単純に射線数だけでは雷撃性能の差を比較することは出来ない。
しかしその点を考慮しても特型駆逐艦の登場は当時の世界を震撼させ、その後の駆逐艦という艦種のあり方自体を大きく変えるに足るエポックメーカー的性能を持っていた。その為ワシントン海軍軍縮条約で保有制限された主力艦に変わりうる補助戦力として条約型重巡洋艦と並んで一躍脚光を浴び各国海軍の建艦競争を再燃、ロンドン海軍軍縮条約による補助艦艇の制限につながった。これを戦艦でいえばかの有名なドレッドノートにも相当する画期的な存在なのである。
このように突出した高性能であったが、過度の重武装による復元性不足と、軽量化のための船体強度の余裕の少なさに、当時新技術であった電気溶接の未熟さが重なり艦体の強度面で問題を抱えていた。
その後、友鶴事件で藤本設計艦の復元力不足が露呈し、第四艦隊事件で初雪と夕霧は艦首部分が切断される大被害が発生した事を契機に、本型についても全面鋲打ちへの変更等の補強工事を含めた大規模な改装が実施されることになった。
これによって排水量は増大し優れていた速力も相応に低下した。更に戦争末期には電探や対空機銃が増設されたため、最終時の「響」は速力34ノットまで低下していた。
太平洋戦争には、演習中の事故で沈没した「深雪」を除いた全ての艦が参戦したが、開戦の時点で既に旧式に属していた事から、第一艦隊や第二艦隊の上位部隊は甲型以降の新型艦が配備され、特型駆逐艦は睦月型や結果的に特型以下の性能に留まった初春型と共に“雑用”に使われることが多かった。
特に第一航空艦隊の随伴部隊(ミッドウェー海戦後に第三艦隊として再編されるまでは、あくまで第二艦隊の分派)に多く割かれていたことで有名。これは、当時の空母部隊はあくまで補助戦力とみなされていたためである。
しかしその結果、特型駆逐艦は所属部隊と共に戦史に名を残した艦が多いのも事実である。旧式化するにはしていたが、Uボート狩りにも不足する同世代の米英の駆逐艦よりは遥かに高性能だった。
ただし、この個艦優秀主義は後に護衛用駆逐艦の不足という形に繋がり、特型自体も個別撃破される形で次第に数を減らしてゆく事となる。
同型艦
比較的長期にわたって(1926〜1932年)多数の艦が建造されたため大きく3タイプに分類される。十一番艦~二十番艦を俗に「綾波型」、二十一番艦~最終二十四番艦を俗に「暁型」と呼ぶこともあるが、これらも含め、すべて吹雪型でくくられた文献も多い。
特I型(狭義での「吹雪型」)
特型の一番艦(吹雪)~十番艦(浦波)。吹雪、白雪、初雪、深雪、叢雲、東雲、薄雲、白雲、磯波、浦波の10隻が狭義の吹雪型に属する。
綾波型以降との違いは、この10隻のみA型と呼ばれるタイプの砲塔を採用している。これはB型以降の左右の砲独立稼動するものとは違いが常に連動して稼動する。十番艦の浦波は、後述のII型と同形の船体にA型砲を搭載しており、改Ⅰ型として別タイプに分類する場合もある。
戦後海上自衛隊に名前が受け継がれた艦は次の通り。(2016年5月現在)
- あやなみ型護衛艦(全7隻:退役)・・・磯波「いそなみ」、浦波「うらなみ」
- みねぐも型護衛艦(全3隻:退役)・・・叢雲「むらくも」
- はつゆき型護衛艦(全12隻:5隻が現役)・・・初雪「はつゆき」、白雪「しらゆき」
2016年4月27日、しまゆき型練習艦「しらゆき」が除籍されたため、特Ⅰ型由来の現役海自艦は1隻もない。
特II型(別名「綾波型」)
特型の十一番艦(綾波)~二十番艦(潮)。綾波、敷波、朝霧、夕霧、天霧、狭霧、朧、曙、漣、潮の10隻が俗に「綾波型」と呼ばれる。
吹雪型(I型)との違いは主に煙突の形状の違いや、主砲のタイプの違いである。また艦橋が大型化している。
十七番艦の朧から二十番艦潮までの4隻は、他のII型艦よりも煙突が低いため、この4艦を「IIA型(朧型)」と呼ぶこともある。
II型の6隻は所属していた駆逐隊が分かれており、綾波&敷波はI型の「磯波」「浦波」との混成で第十九駆逐隊を、朝霧&夕霧&天霧&狭霧はII型だけで第二十駆逐隊を編成。ただ狭霧が早々に沈んでいる(1941年12月24日戦没)ので代わりにI型「白雲」が入っている。
IIA型の4隻は第七駆逐隊に所属。潮以外が戦没した後、III型の響が入っている。
潮は修繕待ちで戦えない状態であったが、終戦まで軍艦籍をとどめていた特型駆逐艦2隻がこの潮と響である。ほかに曙が、すでに除籍済みではあったものの、終戦時マニラ湾に船体が残されていた。
ちなみに漣と狭霧は、竣工当時はIII型の暁と第十駆逐隊を編成していた(1939年11月まで)。
なお潮は1948年に解体を終えたが、曙の解体はその8年後、1956年にズレ込んだ。これは戦後独立したばかりのフィリピン共和国政府がまだ財政難で、艦艇をサルベージするだけの資金が足りず、やむなく放置していたためであるといわれる。
戦後海上自衛隊に名前が受け継がれた艦は次の通り。(2016年4月現在)
特III型(別名「暁型」)
特型最後の4隻、二十一番艦(暁)~二十四番艦(電)。暁・響・雷・電の4隻が、俗に「暁型」と呼ばれる。
機能付加により艦橋がさらに大型化、機関の改良により缶が4基だったものを3基に減少させることができ、一番煙突が細くなっている。しかし缶1基分(約50トン)の重量など喫水線下の重量が減少したことと艦橋の大型化等により重心が高くなり、第四艦隊事件後の大幅な改装により、艦橋の小型化、魚雷発射管位置の変更などが行われた。
ロンドン軍縮条約で「1500トンを超える艦は合計排水量の16%まで」という制限がかけられたため、1680トンの特III型の建造は4隻で打ち切られ、1400トンの初春型の建造に切り替えられた。
特型駆逐艦の中でも高性能だったため最前線で活躍したが被害も多く、終戦時に残存したのは響1隻のみだった。その響も、火事場泥棒的な参戦をしたソ連に賠償艦として引き渡され「ヴェールヌイ」となる(なお引渡し前には復員船を務めていた)。
1943年以降からは対空兵装を強化するために第二砲塔を撤去し、25mm連装及び三連装機銃を増設する改造が行われた。(1942年に喪失した暁には行われることは無かった)
ちなみに竣工・就役順では雷が1932年8月15日と一番早く、その次が意外にも電で同年11月15日。
一番艦の暁は同年11月30日で、響は一番遅く翌1933年3月31日となっている。そういう意味では、響が姉妹の末っ子と言える。
戦後、海上自衛隊に「雷」「電」が「いかづち」「いなづま」として、いかづち型護衛艦(全2隻)と新むらさめ護衛艦(全9隻)に受け継がれた。
また、「響」と同名(「響」としては3代目)のひびき型音響測定艦「ひびき」が存在する(ただし「ひびき」は響灘から命名したもので命名基準は駆逐艦とは異なる)。
2016年4月現在、新むらさめ型「いかづち」・「いなづま」と「ひびき」が現役。
「暁」だけ受け継がれなかったのは、歴代の運の悪さが原因とも言われている。
初代「暁」は明治時代に英国で建造された暁型駆逐艦(日本海軍の正式艦級において、暁型とはこちらを指す)のネームシップだったが、日露戦争の旅順閉塞作戦で蝕雷沈没してしまっている。その後ロシアから鹵獲した駆逐艦「レシーテリヌィ」に、ロシア側に使用を悟られないようにするため、沈没した「暁」の名前が受け継がれた(後に「山彦」に改称) 。