概要
1917年3月11日-1982年7月27日
大工の次男として生まれ、後に画家になった兄の影響で自身も絵に親しみ画家を目指すが、21歳で徴兵され中国戦線に送られる。
23歳で退役後、画家・福沢一郎の絵画研究所で学び、シュルレアリスム絵画の影響を受ける。
太平洋戦争中は東宝航空研究資料室に入社し国策映画のミニチュア制作に参加、同時に多くの美術家と知り合い、彼らが集う「池袋モンパルナス」のアトリエ付き住宅に転居する。
東宝退社後はフリーとなり、特撮関係の造形物、人形劇の人形制作などの仕事を受け始める。
1959年の5月に転居した練馬区のアトリエを、後に怪獣制作工房として有名になる「アトリエ・メイ」と名付けた。
おもに大映、ピープロ、円谷プロなどで怪獣の着ぐるみ制作を次々と担当。
映画で使われていたものよりも軽くて安全で動きやすく、デザイン画を元に独特の生物感を持たせたものを制作した。さらに親しみやすい姿に立体化したといわれる縫いぐるみ(着ぐるみ)は、TV特撮の黎明期を支え好評を博した。
特に初期ウルトラ怪獣の独特の目は、ファンから「高山目」と言われ愛されている。
1982年7月27日肝臓癌のため死去。
余談
- 工房でアシスタントをしていた美大生たちには「これは、生き物を作っているのだからそのつもりで」と指示をしていたといわれ、彼らが帰った後も手足に指紋をつけるなど、手直しを丁寧におこなっていたという。
- 詳細な造形日誌を付けており、当時を知る貴重な資料となっている。
- 妻の利子夫人は、着ぐるみに使う素材を選定および購入を担当していた。ガマクジラの皮膚に使うビーズや、イカルス星人の髭に使うタワシや、ロボット怪獣の電子部品などが有名で、怪獣の質感の向上に寄与していた。
- 怪獣のまぶたや口の開閉に、紐を使ったギミックを仕込んでおり「ヒモコン」と名付けていた。
- ラテックスやウレタンなどの素材を組み合わせ、軽くて動きやすい着ぐるみを制作した。東宝の怪獣映画用のものと比べると破損しやすく劣化も早かったといわれるがTV撮影の現場では重宝された。ゴム製のゴジラを演じるほどの体力を誇った中島春雄氏は「軽すぎる」という感想を述べている。
- 大映では『釈迦』の特撮セット、『鯨神』のミニチュアを制作。『大魔神』では等身大、実物大の造形物を制作し、崩れ落ちる大魔神は素材から選定し成功させた。ガメラ怪獣のバルゴンも造形したがウルトラ怪獣と並行していたこともあり、仕上げはエキスプロに任せている。
- ピープロは社長のうしおそうじとは東宝時代の同僚であり、高山自身が発起人の一人でもある。『神州天馬侠』の大ワシのクロ、『怪獣王子』の恐竜、『ゴケミドロ』『豹マン』のパイロット版の造形物を制作した。第二次怪獣ブームでは『宇宙猿人ゴリ(スペクトルマン)』で、造形だけではなくモグネチュードンなど怪獣デザインも担当。コンピューター怪獣は高山の彫刻作品「かなぶんおやぶん」を使用したものである。『快傑ライオン丸』『風雲ライオン丸』『鉄人タイガーセブン』『電人ザボーガー』『冒険ロックバット』など等身大ヒーローの造形も担当した。
- 円谷プロでの仕事は、よみうりランドの水中ショー用のウミガメの作り物が円谷英二の目に留まり、『ウルトラQ』の14話より成田亨とタッグを組み次々と名怪獣を生み出した。当時の円谷プロは20代前後のスタッフが集っていた若い会社だったが、高山は年長者として見守っていたといわれる。なお、全てを担当したわけではなく、佐々木明や開米プロによるものもある。成田が降板した『ウルトラセブン』31話以降は池谷仙克と組んだが、池谷のファッション画のようなスタイリッシュな体型のデザイン画に対し、人体の基本となる図を描いて渡して指導した。池谷はその図を大切にしてデザインにあたったという。
- 宣弘社では池谷のデザインした『シルバー仮面』のすべての怪獣を担当。『アイアンキング』、野口竜のデザインした『スーパーロボットレッドバロン』の造形を担当した。
関連タグ
円谷プロダクション ウルトラQ ウルトラマン ウルトラセブン 帰ってきたウルトラマン 怪獣大奮戦ダイゴロウ対ゴリアス