ローマ帝国 首都ローマ:BC43 - AD284
Julio=Claudian dynasty BC43年 - AD67 6代
初代 | アウグストゥス,IMPERATOR CAESAR DIVI FILIVS AVGVSTVS |
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本名 | ガイウス・オクタウィアヌス,Gaius CAIVS OCTAVIANVS |
変名 | ガイウス・ユリウス・カエサル,GAIVS JVLIVS CAESAR |
誕生 | B.C63年9月23日 |
誕生地 | ローマ(イタリア本土) |
元首就任 | なし(別に就任式をしていない、紀元前43年の『第二回三頭政治』から政権を握っている状態。) |
権力 | ※カエサルの後継者として 第一人者就任 最高司令官就任 執政官権限委託 地方行政命令権限委託 護民官就任 監察官就任 最高神祇官就任 国父授与 |
政権 | B.C43 – 14年8月19日(57年) |
補足 | プレブス階級出身(オクタヴィウス家)ユリウス・カエサルの大甥(姉の孫)という縁で継承者の途絶えたユリウス氏族カエサル家を継ぐ最初のローマ皇帝とされるノラで死去。元来元首としては短気で残酷な側面を持っていたが3度目の妻リウィアの影響を受け寛大で温和な性格へと変わっていったといわれている。老境に達した、「権威において万人に優越していても、権力においては同僚たちを凌駕しない」という趣旨の一文は元首政の本質を端的に述べたものである。カエサルのように軍団兵を前に演説を行い鼓舞し戦場に立ち兵に剣や盾の使い方を実際に示してみせ軍団に指令を与え戦場を差配するという才能を示すようなことはアウグストゥスにはなかった。戦闘の実際の指揮は親友にして腹心のアグリッパがとっていた。数々の勝利は彼による所が大きいが15年間にも及ぶ厳しいアルプス遠征はアウグストゥス自身による歴史的功績であり今でも南仏にはアウグストゥスの業績を称えた古代のトロフィが残っている。若い頃は病弱でありその虚弱体質は一生付きまとった。不得手で消耗の激しい軍事はアグリッパやティベリウスに任せ、変に見栄を張らずに疲れたら休むなど無理をしない生活を心掛けたことで当時としては長寿を全うすることとなった。 |
崩御 | 14年8月19日・自然死 |
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※元首としての権力兼任、第一人者、最高司令官、執政官権限・任命命令権限、地方行政命令権限、護民職、監察職 本来は『アウグストス一族』なので特別の処置だった。
2代 | ティベリウス,TIBERIVS CAESAR AVGVSTVS |
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誕生 | 紀元前42年11月16日 誕生地ローマ(イタリア本土) |
皇帝名 | インペラトル・カエサル・アウグストォス,IMPERATOR CAESAR AVGVSTVS |
権力 | アウグストォスから |
政権 | 14年9月18日 – 37年3月16日 |
補足 | クラウディウス氏族出身。アウグストゥスの後妻リウィアの連れ子で、継父の大甥ゲルマニクスの後見人として即位。『イエス・キリスト』が処刑された時の皇帝 |
崩御 | 紀元後37年3月16日・暗殺説あり |
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3代 | ガイウス・ユリウス・カエサル,GAIVS CAESAR AVGVSTVS GERMANICVS |
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別名 | (カリグラ),CALIGVLA |
誕生 | 12年8月31日 アンティウム(イタリア本土) |
権力 | 元老院・アウグストス家なので |
政権 | 37年3月18日– 41年1月24日 |
補足 | クラウディウス氏族出身。ゲルマニクスの息子。女装が趣味の暴君とされる短い在位期間にカリグラは壮大な建設事業と領土の拡大に力を注いだ。また最高権力者としての威信を高めることに努彼を打ち倒そうと繰り返される陰謀から自身の地位を懸命に守りつづけたが元老院も関与した陰謀により41年に親衛隊の一部将校らによって暗殺された。その治世を通じてローマ市民からは人気が高かったが現存する後代の史料ではいずれもカリグラは狂気じみた独裁者であり残忍で浪費癖や性的倒錯の持ち主であったとしている。しかし現存する一次史料の数は少なくカリグラの治世の実態には不明な点が多い。 |
崩御 | 41年1月24日・近衛隊による暗殺 |
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4代 | クラウディウス,TIBERIVS CLAVDIVS CAESAR AVGVSTVS GERMANICVS |
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誕生 | 10年8月1日 ルグドゥヌム(属州ガリア・ルグドゥネンシス) |
権力 | 元老院・アウグストス家なので |
政権 | 41年1月25日(26日説あり) – 54年10月13日 |
補足 | クラウディウス氏族出身。ゲルマニクスの弟でカリグラの叔父。姪である小アグリッピナ(カリグラの妹)と再婚。アントニウスの孫であり、アウグストゥスの妻リウィアの孫にあたる。第2代皇帝ティベリウスの弟大ドルススの息子でゲルマニクスの弟。第3代皇帝カリグラや最後の妻となる小アグリッピナの叔父に当たる。 父や兄に似ず生来病弱で吃音や片足を引きずるなどの癖からユリウス・クラウディウス朝に属する男性としては珍しく公務から遠ざけられ長くエクィテスの階級に留まった。この間にエトルリア史やカルタゴ史といった歴史著述を行い歴史家としての側面を持った。 カリグラの皇帝就任後、カリグラと共にコンスルに就任後に元老院議員に加えられた。カリグラが暗殺されるとプラエトリアニに担がれる形で元首に就任した、就任に際して元老院の承認を受けたものの、実質的にはプラエトリアニの軍事力によって就任しており軍事力がローマ皇帝を決定する最初の例となった。歴史家らしく知性と教養に富んだ政策を進め、ユダヤの統治問題などを解決した。身体の不具合から元老院議員に影響力や友誼を持っていなかったため、カエサル家の解放奴隷を積極的に行政に登用したこれは非元老院議員の統治への関与を増大させ皇帝への権力集中や官僚制の発達を推進した。 毒キノコの中毒によって死去するが4番目の妻であった小アグリッピナの暗殺とする説が古代から有力視されている。 |
崩御 | 54年10月13日・自然死(小アグリッピナによる暗殺?) |
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5代 | ネロ,NERO CLAVDIVS CAESAR AVGVSTVS GERMANICVS |
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誕生 | 37年12月15日 アンティウム(イタリア本土) |
権力 | 元老院・アウグストス家なので |
政権 | 54年10月13日 - 68年6月9日 |
補足 | クラウディウス氏族出身、継父の養子となる前はドミティウス氏族に属した。カリグラの妹である小アグリッピナの子で、クラウディウスの養子。キリスト教徒を虐殺 |
崩御 | 68年6月11日・自害 |
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ユリウス・クラウディウス朝断絶
6代 | ガルバ SERVIVS GALBA IMPERATOR CAESAR AVGVSTVS |
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誕生 | 3年12月24日 テッラチーナ(イタリア本土) |
権力 | 元老院 |
簒奪 | 68年6月8日 – 69年1月15日 |
補足 | スルピキウス氏族出身。ヒスパニア各属州の軍団から支持を獲得、ネロを廃位した元老院から皇帝に推挙される。 |
崩御 | 69年1月15日・オトと近衛隊による暗殺 |
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※簒奪・強奪=元首を殺したなどで地位を奪い自ら元首となり政権を続けること。
7代 | オト,MARCVS OTHO CAESAR AVGVSTVS |
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誕生 | 32年4月25日 エトルリア(イタリア本土) |
権力 | ガルバから奪う |
簒奪 | 69年1月15日 – 69年4月15日 |
補足 | サルウィウス氏族出身。ガルバの縁戚であったが、近衛隊と結んで謀殺した。 |
崩御 | 69年4月15日・自害 |
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8代 | ウィテッリウス,AVLVS VITELLIVS GERMANICVS AVGVSTVS |
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誕生 | 15年9月7日 ローマ(イタリア本土) |
権力 | オトから奪う |
簒奪 | 69年4月17日 – 69年12月20日 |
補足 | ウィテッリウス氏族出身。ゲルマニア各属州の軍団から支持を獲得、オト軍を破って帝位に就く。 |
崩御 | ウェスパシアヌス軍との戦いで敗死(記録末殺) |
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フラウィウス朝 Flavius AD69 - 96 3代
9代 | ウェスパシアヌス,TITVS FLAVIVS CAESAR VESPASIANVS AVGVSTVS |
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誕生 | 9年11月17日 フラシリネ(イタリア本土) |
権力 | 元老院・『皇帝法』※によりこれ以降の元首には自動的に権力をもらえる。 |
元首政権 | 69年7月1日 – 79年6月23日 |
補足 | フラウィウス氏族出身。ウィテッリウスを破り政情を安定させて四皇帝の年を終結させる。『皇帝法』により元首の権力が自動的に以降するようになる。フラウィウス朝の初代皇帝。 |
崩御 | 79年6月23日 自然死 |
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※皇帝法=『アウグストス一族』の権限を『ウェスパシアヌス』に『自動継続』、さらにこれ以降の皇帝にも『自動継続』させるようにした法
10代 | ティトゥス,TITVS FLAVIVS CAESAR VESPASIANVS AVGVSTVS |
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誕生 | 39年12月30日 ローマ(イタリア本土) |
権力 | エェスパシヤヌスの遺言 |
元首政権 | 79年6月24日 – 81年9月13日 |
補足 | フラウィウス氏族出身。ウェスパシアヌスの長男。フラウィウス朝の第2代皇帝。 |
崩御 | 81年9月13日 病死 |
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11代 | ドミティアヌス,TITVS FLAVIVS CAESAR DOMITIANVS AVGVSTVS |
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誕生 | 51年10月24日 ローマ(イタリア本土) |
権力 | 元老院 |
元首政権 | 81年9月14日 – 96年9月18日 |
補足 | フラウィウス氏族出身。ウェスパシアヌスの次男。ティトゥスの共同皇帝、ティトゥスが死ぬと皇帝に。治世の末期は暴虐をもって伝えられる。元老院議員や騎士階級のものをたびたび告発しては死刑にした。貴族階級に公然と敵意を示し、元老院の決議をしばしば無効にした。 |
崩御 | 96年9月18日 召使による暗殺(記録抹殺) |
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ネルウァ=アントニヌス朝 Nerva=Antonine dynasty AD96 - 192 7代
12代 | ネルウァ,MARCVS COCCIEVS NERVA CAESAR AVGVSTVS |
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誕生 | 35年11月8日 ナルニ(イタリア本土) |
権力 | 元老院の推薦 |
元首政権 | 96年9月18日 – 98年1月27日 |
補足 | 元老院議員子ッケイウス氏族出身。フラウィウス朝断絶後元老院により推挙される。ネルウァ=アントニヌス朝の初代君主。フラウィウス朝断絶後の混乱の中で皇帝に即位したが、老齢で跡継ぎが望めなかった為に腹心であるトラヤヌスを王朝の後継者とした。以降トラヤヌスの親族達により帝位は継承されていった為、新王朝成立の重要な契機を与えた存在でありながら歴代君主と血縁関係にないという特異な立場を持つ事になった。『五賢帝』 |
崩御 | 98年1月27日 自然死 |
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13代 | トラヤヌス,CAESAR MARCVS VLPIVS NERVA TRAIANVS AVGVSTVS |
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誕生 | 53年9月18日 イタリカ(属州ヒスパニア・バエティカ) |
権力 | ネルウァの遺言 |
元首政権 | 98年1月28日 - 117年8月9日 |
補足 | ウルピウス氏族出身。老齢で嫡男のいないネルウァに養子として迎えられる、文武の両面で辣腕を揮い帝国内の公共施設の強化と領土の拡大に成功した。特に対外面ではダキア・パルティアで功績をあげローマ帝国史上最大の版図を現出した。イタリア本土出身者でない初の属州生まれの皇帝でもある。それまでは首都ローマを含むイタリア本土出身者の最上流貴族しか皇帝に選ばれたことはなかった。トラヤヌスは同時代から現在に至るまで優れた君主として尊敬を受けるローマ皇帝であり、後世の君主たちからも讃えられた。古代末期から中世にかけてのキリスト教史観でもこの名声は維持され近代においても「五賢帝」の一人として彼を賞賛している同時代には褒め称えられる君主の多くが後世においては手厳しい批判を受けるのに対して、トラヤヌスは没後も賞賛を受ける数少ない人物である。トラヤヌスが皇帝として成し遂げた軍事的成果、さらには人柄についても、古来から賞賛する声に満ちている。そうしたトラヤヌスを褒め称えた同時代の歴史家の一人であり、君主としての能力だけでなく人物としても善良だったと記録している。トラヤヌスの領土的野心を指摘した評論家も皇帝としての能力と威厳については高く評価し、また個人として公平な人物であったと述べている後代のローマ皇帝も「フェリキオル・アウグスト・メリオル・トライアノ」と賛辞を贈っている。こうした傾向は驚くべきことに中世のキリスト教史観においても維持され彼らからすれば異教徒の君主であったにも関わらず。むしろ「トラヤヌス神話」が形成されているのである。中世後期に成立した神話集では他のローマ皇帝を批判する一方トラヤヌスについては「教皇グレゴリウス1世の時代神の許しを得て復活したトラヤヌスの魂は教会によって洗礼を受けた」とまで主張している。これに先駆ける形で古代末期のキリスト教の神学者は「良き異教徒」の筆頭例としてトラヤヌスを挙げている。ルネサンス時代に古代ローマの再評価が本格化すると、ますますトラヤヌスへの賞賛は高まっていく。当時の君主たちは偉大な君主としてトラヤヌスを敬い憧れを抱いた。現代ではトラヤヌスに征服されたダキアに起源を持つルーマニアはトラヤヌスに率いられた兵士や植民者の末裔に帰属心を持つのが主流となっており同じくローマの支配を受けた元属州の各地域が征服前の先住民族に帰属心を求めるのとは対照的である。『至高の皇帝』『五賢帝』 |
崩御 | 117年8月9日 自然死 |
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・・・完璧なるリアルチートだな、これは。異名:『良き異教徒』『伝説の男』
確かに『負けなし』だからな、老年になるまで。
14代 | ハドリアヌス,CAESAR PVBLIVS AELIVS TRAIANVS HADRIANVS AVGVSTVS |
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誕生 | 76年1月24日 イタリカ(属州ヒスパニア・バエティカ) |
権力 | トラヤヌスから |
元首政権 | 117年8月11日 – 138年7月10日 |
補足 | アエリウス氏族出身。トラヤヌスの叔母であるウルピアの孫、親族の男子として嫡男のいないトラヤヌスの養子となる。属州メソポタミアとアルメニアの放棄による東部国境の安定化ならびに防壁建造などによる帝国周辺地域防衛策の整備、ローマ帝国全体の統合と平準化、2度にわたる長期の巡察旅行、官僚制度を確立し、行政制度を整備、法制度を改革。文化面では118年にローマ近郊のティヴォリに大規模な別荘ウィラ・ハドリアヌスの造営を開始し、同時に後世の新古典主義建築に大きな影響を与えた、今日まで残るパンテオン神殿の再建に着手した。その他にウェヌスとローマ神殿など、ローマ、イタリア、属州各地においてきわめて多数の造営事業を行った。私生活ではビテュニアの美青年の愛人アンティノウス(アンティノオス)を寵愛し、属州アエギュプトゥス(エジプト)視察中にこの美青年がナイル川で事故死を遂げた後は彼を神格化して神殿を建設し都市アンティノオポリスを創建したほか帝国中にアンティノウス像を建てさせ天空にアンティノウス座を作ったことが知られている。もともと頑健であったが、晩年は体調不良に苦しみ、幾度か自殺を試みるも直前に家内奴隷やアントニウスに止められた。『五賢帝』 |
崩御 | 138年7月10日 病死 |
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15代 | アントニウス・ピウス,CAESAR TITVS AELIVS HADRIANVS ANTONINVS AVGVSTVS PIVS |
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誕生 | 86年9月19日 ラウィニウム(イタリア本土) |
権力 | ハドリアヌスから |
元首政権 | 138年7月10日 – 161年3月7日 |
補足 | アウレリウス氏族出身。ルキウス・ウェルスとマルクス・アウレリウスの後見人として即位。トラヤヌスの曾姪でマルクス・アウレリウスの叔母でもある大ファウスティナと結婚、小ファウスティナを儲ける。アントニヌスは元老院を尊重した事で安定して帝位は継承された、アントニヌスはハドリアヌスへの弾劾を取り下げるように元老院を宥めた元首即位後マルクス・アウレリウスを財務官職にするも、仕事や権限は無いに等しく皇帝不在の時に手紙を代読するといった秘書的な役割が精々だった。執政官としては二つの元老院議長の一人として議会を統制する立場であった。アントニヌス帝時代の記録は乏しい部分があり22年間という長期間の治世に対して大規模な公共建築も残さなかった。その代わりに帝国の法体系(ローマ法)や行政制度の改革に熱意を注いだ。。彼は革命的という程ではないものの、それまでのローマ法に重大な修正を加えようとした。帝国がラテン人を祖とする国家としてだけでなく、もっと多様な人々を糾合する多文化・多民族の国家に転身する必要を強く感じ、アントニヌス帝は市民権や奴隷制に関する大胆な改革を志した。156年、70歳を迎えていたアントニヌスは目に見えて衰弱しており、まともに立つことも困難になりつつあった。老いた皇帝は早朝の会議で眠らないように乾いたパンを口の中で噛み続ける習慣を行ったとも言われる。アウレリウスは叔父の補佐官として行動する機会が増え、皇帝の政務を一部代行するようになった。ある日、アルプス産のチーズを食べたアントニヌスはその夜に嘔吐と発熱を起こした。161年3月7日、アントニヌスは病を押して議会を開くと、自らの寝室に置かれていたフォルトゥナ神の銅像を「アウレリウスの寝室に移せ」と命じた。言い終えるとアントニヌスはそのまま仰向けに倒れて息を引き取った『秩序の皇帝』『五賢帝』 |
崩御 | 161年3月7日 自然死 |
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16代 | |
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| マルクス・アウレリウス・アントニウス,CAESAR MARCVS AVRELIVS ANTONINVS AVGVSTVS |
| ルキウス・ウェルス,CAESAR LVCIVS AVRELIVS VERVS AVGVSTVS |
誕生 | 121年4月26日 ローマ(イタリア本土) |
権力 | マルクス-アントニウスから |
権力 | ルキウス-マルクス・アウレリウスから |
誕生 | 130年12月15日 ローマ(イタリア本土) |
元首政権 | 161年3月7日 – 180年3月17日 |
補足 | アウレリウス氏族出身、叔父アントニウスの養子となる前はアンニウス氏族に属した。従兄弟小ファウスティナと結婚してコンモドゥスとルキッラを儲ける。ストア哲学などの学識に長け良く国を治めた事からネルウァ・トラヤヌス・ハドリアヌス・アントニヌスに並ぶ皇帝(五賢帝)と評された。対外政策ではパルティアとの戦争に勝利を収めたが、蛮族への予防戦争として始めたマルコマンニ人、クアディ人、サルマティア人などへの遠征(マルコマンニ戦争)は長期戦となり、国力を疲弊させ、自らも陣中で没した。『哲人皇帝』『五賢帝』 |
補足 | アエリウス氏族出身。ハドリアヌスの側近ルキウス・アエリウスの嫡男。アウレリウスと共にアントニウスの養子とされ、共同皇帝となる。アウレリウスと小ファウスティナの子ルキッラと結婚 |
崩御 | マルクス-180年3月17日 自然死(最前線) |
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崩御 | ルキウス-169年 病死 |
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17代 | コンモドゥス,CAESAR MARCVS AVRELIVS COMMODVS ANTONINVS AVGVSTVS |
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権力 | マルクスアウレウスから |
誕生 | 161年8月31日 ラウィニウム(イタリア本土) |
元首政権 | 180年3月18日 – 192年12月31日 |
補足 | アウレリウス氏族出身。マルクス・アウレリウスの次男でルキッラの弟、アントニウス・ピウスの孫。父アウレリウスと義兄ルキウスの死後帝位を継承する。暗君愚帝で有名 |
崩御 | 192年12月31日 近衛隊による暗殺(記録抹殺) |
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ネルウァ=アントニヌス朝断絶
18代 | ペルティナクス,CAESAR PVBLIVS HELVIVS PERTINAX AVGVSTVS |
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誕生 | 126年8月1日 アルバ・ポンペイア(イタリア本土) |
権力 | コンモドォスから奪う |
簒奪 | 193年1月1日 - 193年3月28日 |
補足 | ヘルウィウス氏族出身。自身はローマ人だが、父の代まではリグリア人の属州民だった。近衛隊と結んでコンモドゥスを暗殺、帝位に就く。財政改革の失敗で元老院と近衛隊の支持を失う。 |
崩御 | 193年3月28日 近衛隊による暗殺 |
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19代 | ディディウス・ユリアヌス,CAESAR MARCVS DIDIVS SEVERVS IVLIANVS AVGVSTVS |
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誕生 | 133年1月30日 メディオラヌム(イタリア本土) |
権力 | 帝位競売で競り落とす |
簒奪 | 193年3月28日 - 193年6月1日 |
補足 | ディディウス氏族出身。ペルティナクス暗殺後の「帝位競売」に勝利して帝位に就くが、軍と民衆の支持を得られなかった。 |
崩御 | 193年6月1日 近衛隊による暗殺 |
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セウェルス朝 Severus 193 - 235 6代
20代 | セプティミウス・セウェルス,CAESAR LVCIVS SEPTIMIVS SEVERVS PERTINAX AVGVSTVS |
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誕生 | 146年4月11日 レプティス・マグナ(属州アフリカ) |
権力 | 元老院を脅迫 |
強奪 | 193年4月9日 - 211年2月4日 |
補足 | セプティミウス氏族出身。アフリカ人パンノニア属州の軍から支持を得て蜂起、同じく蜂起したクロディウス・アルビヌスとペスケンニウス・ニゲルらを破り、ユリアヌス暗殺後のローマに入場する。セウェルス朝を樹立して『軍団長元首』時代まで自身の王朝を維持した。 |
崩御 | 211年2月4日 自然死 |
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21代 | セプティミウス・バッシアヌス,LVCIVS SEPTIMIVS BASSANVS |
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別名 | (カラカラ)CARACALLA |
皇帝名 | マルクス・アウレリウス・アントニヌス,CAESAR MARCVS AVRELIVS SEVERVS ANTONINVS PIVS AVGVSTVS |
誕生 | 186年4月4日 ルグドゥヌム(属州ガリア・ルグドゥネンシス) |
権力 | セウェルスの遺言 |
元首政権 | 198年頃 – 217年4月8日 |
補足 | セプティミウス氏族出身。セウェルスの長男。父の即位と同時期に共同皇帝へ指名され後に弟ゲタも共同皇帝となって三名で統治を行っていた、父の死後にゲタを処刑して単独の皇帝となる。『アントニヌス勅令』が有名 |
崩御 | 217年4月8日 マクリヌスによる暗殺。 |
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21代 | ゲタ,CAESAR PVBLIVS SEPTIMIVS GETA AVGVSTUS |
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誕生 | 189年3月7日 ローマ(イタリア本土) |
権力 | セウェルスの遺言 |
元首政権 | 209年頃 – 211年12月26日 |
補足 | セプティミウス氏族出身。セウェルスの次男。209年頃から父と兄の共同皇帝となる。カラカラの謀略に嵌り命を散らす。 |
崩御 | 211年12月26日 カラカラによる暗殺。 |
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セウェルス朝断絶 この後6年間『元首』が無ない...。
22代 | |
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| マクリヌス,MARCVS OPELLIVS SEVERVS MACRINVS AVGVSTVS PIVS FELIX |
| ディアドゥメニアヌス,MARCVS OPELLIVS ANTONINVS DIADUMENIANUVS |
誕生 |
| 165年(マクリヌス・オペッリウス) |
| 208年(マルクス・オペッリウス・ディアドゥメニアヌス) |
権力 | カラカラから奪う |
簒奪 | 217年4月11日 - 218年6月8日 |
補足 | 氏族不明。セウェルス朝と血縁関係がない。カラカラ帝時代に近衛隊長を務めていたマクリヌスとその子ディアドゥメニアヌスはカラカラを謀殺してセウェルス朝を一旦断絶させたカラカラの落胤を自称するヘリオガバルスの軍に破れ親子共に相次いで戦死した。 |
崩御 | 218年 ヘリオガバルス軍に敗死 |
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復興セウェルス朝 203 - 235 2代
23代 | ウァリウス・アウィトゥス・バッシアヌス,VARIVS AVITVS BASSIANVS |
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別名 | ヘリオガバルス,HELIOGABALVS |
皇帝名 | マルクス・アウレリウス・アントニヌス,MARCVS AVRELIVS ANTONINVS AVGVSTVS |
誕生 | 203年3月20日 エメサ(属州シリア) |
権力 | 従兄妹から |
元首政権 | 218年6月8日 – 222年3月11日 |
補足 | 氏族不明。カラカラの従兄妹ユリア・ソエミアス・バッシアナによって、カラカラの落胤として掲げられた。太陽神を名乗り性的倒錯の末近衛隊に暗殺。『もっとも堕落した皇帝』 |
崩御 | 222年3月11日 近衛隊による暗殺 |
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24代 | アレクサンデル・セウェルス、CAESAR MARCVS AVRELIVS SEVERVS ALEXANDER AVGVSTVS |
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誕生 | 208年10月1日 アルカ・カエサリア(属州ユダヤ) |
権力 | 祖母から |
元首政権 | 222年3月13日 - 235年3月18日 |
補足 | 氏族不明。ヘリオガバルスの従兄弟でヘリオガバルスを見限った祖母ユリア・マエサによって擁立された。。彼の死をもってセウェルス朝は50年程の歴史に幕を下ろ、軍人皇帝時代とも呼ばれる「3世紀の危機」が始まった。即位したアレクサンデル帝の治世は東方で勢力を増しつつあったササン朝ペルシャ帝国の脅威に晒されつつも、軍事行動を控えて平和路線をとっていた。だがゲルマニア方面での軍事作戦に消極的な態度を繰り返した事でついに軍の不興を買い、最終的に軍によって殺害された。 |
崩御 | 235年3月18日 軍による暗殺 |
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235 - 284
- ...なぜこの時期の元首の追想が難しいかというと互いに『記録抹殺』しているからだ。
- なので『ローマ人が醜態をさらした時代、無かった事したい時代』。
- モデストォスにしてみれば『モデストォスの知っているローマは終わった時代』。
- この時代が悲劇と言われるが古代は戦が『日常茶飯事』であり、武力をさほど必要としない時代が何百年続いたことの方が稀ではある。市民の感覚は「一年で総理が変わる状況」に近い所もあると思われる。
- この時代はディオクレティアヌスまで続く君は生き延びることができるか・・・。
25代 | マクシミヌス・トラクス,CAESAR GAIVS JVLIVS VERVS MAXIMINVS AVGVSTVS |
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誕生 | 173年 (属州トラキア、若しくはモエシア) |
権力 | 軍団から |
強奪 | 235年3月20日 – 238年4月頃 |
補足 | 蛮族出身の軍人・ローマ軍団長。アレクサンデル暗殺後、特異な出自でかつ民衆や元老院の支持もなかったにも関わらず軍事力で帝位を強奪した。ローマ軍団長(将軍)配下の軍団が『元首』を求めて仁義な気戦いを始める。(軍人皇帝)。 |
死亡 | 238年4月頃 軍による暗殺(記録抹殺) |
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25代 | ペトレイウス・マグヌス,GAIVS PETORIVSV MAGNVS |
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権力 | 軍団から |
期間 | 235 |
補足 | 軍団長、ゲルマニアで皇帝僭称。マクシミヌスの反乱者(記録抹殺) |
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25代 | クインティヌス,QVINNTINVSV |
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権力 | 軍団から |
期間 | 235 |
補足 | 軍団長、オスロエネで皇帝僭称。マクシミヌスの反乱者(記録抹殺) |
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26代 | |
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| ゴルディアヌス1世,CAESAR MARCVS ANTONIVS GORDIANVS SEMPRONIANVS AFRICANVS AVGVSTVS |
| ゴルディアヌス2世,CAESAR MARCVS ANTONIVS GORDIANVS SEMPRONIANVS ROMANVS AFRICANVS AVGVSTVS |
誕生 | 1世-159年 (属州フリュギア) |
誕生 | 2世-192年 |
権力 | 1世,2世-元老院から |
元首政権 | 238年3月22日 – 238年4月12日 |
補足 | 【1世】騎士階級出身、ローマ軍団長。元老院と民衆によってトラクスの対立皇帝へ推挙され息子のゴルディアヌス2世を共同皇帝とする。息子がトラクス軍との戦いで敗死すると自らも宮殿で自害した。【2世】ゴルディアヌス1世の息子、ローマ軍団長。老齢の父に代わって前線で軍勢を率いる。カルタゴの戦いでトラクス軍に敗れ戦死する。 |
崩御 | 1世- 238年4月12日 自害(記録抹殺) 2世-238年4月12日 トラクス軍との戦いで敗死(記録抹殺) |
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27代 | |
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| プピエヌス,CAESAR MARCVS CLODIVS PVPIENVS MAXIMVS AVGVSTVS |
| バルビヌス,CAESAR DECIMVS CAELIVS CALVINVS BALBINVS PIVS AVGVSTVS |
誕生 | プピエヌス-178年 |
誕生 | バルビヌス-不明 |
権力 | 元老院から推薦 |
元首期間 | 238年4月22日 – 238年7月29日 |
補足 | 反トラクス派の将軍、ローマ軍団長。元老院から新たな対立皇帝として擁立される。トラクス暗殺によって安定化した情勢をバルビヌスとの諍いで再び悪化させた。バルビヌスはプピエヌスの共同皇帝として政務面を補佐するが不仲で有名であった。口論の最中にバルビヌスと同時に暗殺され川に投げ捨てられた。ゴルディアヌス2世の遺児を副帝に指名する。 |
崩御 | 238年7月29日 両者近衛隊による暗殺(記録抹殺) |
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28代 | ゴルディアヌス3世,CAESAR MARCVS ANTONIVS GORDIANVS AVGVSTVS |
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誕生 | 225年1月20日 ローマ(イタリア本土) |
元首政権 | 238年4月22日 – 244年2月11日 |
補足 | ゴルディアヌス1世の孫、ゴルディアヌス2世の息子、将軍。元老院と民衆からの深い同情から人気を集め、バルビヌスとプピエヌスの暗殺後に即位する。 |
崩御 | 244年2月11日 ペルシア軍との戦いで敗死(もしくはピリップス・アラブスによる暗殺)(記録抹殺) |
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29代 | ※2名 |
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| ピリップス・アラブス,CAESAR MARCVS IVLIVS PHILLIPVS AVGVSTVS |
| ピリップス2世,PHILLIPVS II |
誕生 | 不明 シャハバ(属州シリア) |
元首期間 | 244年2月頃 – 249年後半 |
補足 | ゴルディアヌス3世の近衛隊長、アラビア人。ペルシア戦争後に帝位継承を宣言、息子のピリップス2世を後継者として共同皇帝に指名した。 |
死亡 | 249年後半 デキウス軍との戦いで敗死(記録抹殺) |
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29代 | マリヌス・パカティアヌス,TIBERIVS CLAVDIVS MARINVSV PAKATIANVSV |
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権力 | 軍団から |
簒奪 | 248–249 |
補足 | 軍団長、モエシアで皇帝僭称。ピリップスの反乱者(記録抹殺) |
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29代 | マルクス・F・R・ヨタピアヌス,MARX F・R YOTAPIANVSV |
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権力 | 軍団から |
簒奪 | 248–249 |
補足 | シリア属州で皇帝僭称。ピリップスの反乱者(記録抹殺) |
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29代 | マルクス・シルバナックス,MARCVS SILVANAKKVSV |
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権力 | 軍団から |
簒奪 | 249?又は253? |
補足 | 軍団長、ゲルマニア・スペリオルで皇帝僭称?。ピリップスの反乱者(記録抹殺) |
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29代 | スポンシアヌス,SVPONSHIANVSV |
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権力 | 軍団から |
簒奪 | 不明 |
補足 | トランシルバニア地方で皇帝僭称?。ピリップスの反乱者(記録抹殺) |
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30代 | |
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| デキウス,CAESAR GAIVS MESSIVS QVINTVS TRAIANVS DECIVS AVGVSTVS |
| エトルスクス・デキウス,QVINTVS HERENNIVS ETRVSCVS MESSIVS DECIVS |
誕生 | 201年 ブダリア(属州下パンノニア) |
権力 | ピリップス・アラブスから奪う |
簒奪 | 249年後半 – 251年6月頃 |
補足 | フィリップス・アラブスの側近、ローマ軍団長。息子エトルスクスと共に帝位を奪うが、アブリットゥスの戦いでゴート軍に敗れて戦死する。 |
死亡 | 251年6月 ゴート軍との戦いで敗死(記録抹殺) |
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31代 | ウァレンス・リキニアヌス,LVCIVS VARENSV RIKINIANVSV |
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権力 | 軍団 |
簒奪 | 250 |
補足 | 軍団長、ローマ市で皇帝僭称。デキウスの反乱者(記録抹殺) |
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31代 | ティトゥス・プリスクス,JVLIVS TITVS PVRISVKVSV |
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権力 | 軍団 |
簒奪 | 250 |
補足 | 軍団長、マケドニア属州で皇帝僭称。デキウスの反乱者(記録抹殺) |
31代 | ホスティリアヌス,CAESAR CAIVS VALENS HOSTILIANVS MESSIVS QVINTVS AVGVSTVS |
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誕生 | 不明、ローマ |
元首政権 | 251年6月 – 251年後半 |
補足 | デキウスの次男、エトルスクスの弟。父と兄の死後に帝位を継ぎトレボニアヌス・ガッルスを皇帝候補に掲げた遠征軍残党と戦うも敗北する。 |
崩御 | 251年後半 ガッルス軍との戦いで敗死(記録抹殺) |
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32代 | |
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| トレボニアヌス・ガッルス(ガルス),CAESAR GAIVS VIBIVS TREBONIANVS GALLVS AVGVSTVS |
| ウォルシアヌス,Gaius Vibius Volusianus |
誕生 | 206年(イタリア本土) |
簒奪 | 251年6月 – 253年8月 |
補足 | デキウスの重臣、将軍。モエシア総督を務めデキウス死後の混乱で遠征軍を掌握して息子ウォルシアヌスと帝位を奪う。アエミリアヌスの裏切りに遭い、自軍の兵士によって暗殺された。 |
死亡 | 253年8月 軍による暗殺(記録抹殺) |
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33代 | アエミリアヌス,CAESAR MARCVS AEMILIVS AEMILIANVS AVGVSTVS |
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誕生 | 207年(属州アフリカ) |
簒奪 | 253年8月 – 253年10月 |
補足 | トレボニアヌ・ガルスの腹心、将軍。後任のモエシア総督に任命されるが裏切ってトレボニアヌスとウォルシアヌスから帝位を奪う。ウァレリアヌス軍が帝位を請求して進軍すると自らも兵士によって暗殺された。 |
死亡 | 253年10月 軍による暗殺(記録抹殺) |
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34代 | ウァレリアヌス,CAESAR PVBLIVS LICINIVS VALERIANVSAVGVSTVS |
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誕生 | 200年出身不明 |
政権 | 253年10月 – 260年 |
補足 | デキウスの重臣。、将軍。リクム及びラエティア総督を務めトレボニアヌスやアエミリアヌスと帝位を争って勝利した。ペルシア戦争に従軍するもエデッサの戦いで大敗捕虜となりペルシア王の奴隷となる捕虜になった初めての元首 |
死亡 | 260年 ペルシア王シャープール1世による処刑される(記録抹殺) |
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34代 | ウラニウス・アントニウス,LVCIIVS JVLIVS AVRELIVS SVRVPVKIVSV SEVERV VRAIVSV ANTONIVS |
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権力 | 軍団 |
簒奪 | 253–254 |
補足 | シリアで皇帝僭称。ウァレリアヌスの反乱者(記録抹殺) |
34・35代 | |
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| ガッリエヌス(ガリエヌス),CAESAR PVBLIVS LICINIVS EGNATIVS GALLIENVS AVGVSTVS |
| サロニヌス(息子)PVBLIVS LICINIVS CONELIVS SALONINVS |
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元首政権 | |
| ガリエヌス253年10月 – 268年9月 |
| サロニヌス260年、殺害 |
補足 | ウァレリアヌスの息子、将軍。父から共同皇帝に指名され、ウァレリアヌス処刑後は単独の皇帝として統治する。エデッサの戦いによる帝国の権威失墜の中で、ガリア帝国・パルミラ王国の分離独立というかつてない大乱に直面しさらにゲルマニア総督ポストゥムスが息子サロニヌスを殺害『ガリア帝国』を建国してしまう。 |
崩御 | 268年9月 クラウディウス・ゴティクスによる暗殺(記録抹殺) |
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ガリアの帝国
- ローマ帝国軍人皇帝時代の260年から274年まで帝国から分離・独立して割拠した独立国家、ローマ帝国の属州から離脱したガリア(ガリア・アクィタニア、ガリア・ベルギカなど)、ゲルマニア、ブリタンニア、ヒスパニア(タッラコネンシス、およびさらに南の平穏なヒスパニア・バエティカ)などから成り立った。
歴代ガリアの元首
273年ガリア帝国は解体されてローマ帝国へ再統合された。|
アウレリアヌスの凱旋式にテトリクスは捕虜として連行された。
ガリエヌスへの刺客(11人11軍団)
35代 | レガリアヌス,PVBLIVS C REGARIANVSV |
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権力 | 軍団 |
期間 | 260 |
補足 | 軍団長、パンノニアで皇帝僭称。ガッリエヌスの反乱者(記録抹殺) |
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35代 | 3名 |
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| 大マクリアヌス,TITVS FVRVVIVSV LVNINS MACRIANVS |
| マクリヌス・マヨル,MACRIANVS MAIOR |
| 小マクリアヌス TITVS FVRVVIVSV MACRIANVS |
| マクリアヌス・ミノル,MACRIANVS MINOR |
| クィエトゥス TITVS FVRVVIVSV LVNINS Quintus |
権力 | 軍団 |
兼任 | 3名とも-260–261 |
補足 | 息子マクリアヌス・ミノルおよびティトゥス・フルウィウス・ユニウス・クィエトゥスと共に皇帝を僭称。ガッリエヌスの反乱者(記録抹殺) |
35代 | カッリストゥス・バッリスタ,CALIXTVS BARRISVA |
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権力 | 軍団 |
期間 | 260–264 |
補足 | 軍団長、皇帝僭称者。ガッリエヌスの反乱者(記録抹殺) |
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35代 | テッサロニクス,VARENSV TESSARONIKVS |
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権力 | 軍団 |
期間 | 261 |
補足 | 軍団長、アカエア(ギリシア)で皇帝僭称。ガッリエヌスの反乱者(記録抹殺) |
35代 | ピソ,RVCIVS CALPVRNIVS PISO MVRVGI |
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権力 | 軍団 |
期間 | 261 |
補足 | 軍団長、アカエアで皇帝僭称。ガッリエヌスの反乱者(記録抹殺) |
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35代 | ムッシウス・アエミリアヌス,LVCIVS MVSSHIVSV AEMIRIANVSV |
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権力 | 軍団 |
期間 | 260-261 |
補足 | 軍団長、アエギュプトゥスで皇帝僭称。ガッリエヌスの反乱者(記録抹殺) |
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35代 | ケルスス,CELSVS |
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補足 | アフリカ属州で皇帝僭称。ガッリエヌスの反乱者(記録抹殺) |
35代 | トレベッリアヌス,TOREBERIANVSV |
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補足 | 軍団長、小アジアで皇帝僭称。ガッリエヌスの反乱者(記録抹殺) |
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| 35代アウレオルス,AVREORVSV |
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権力 | 軍団 |
期間 | 268 |
補足 | 軍団長、パンノニアで皇帝僭称。ガッリエヌスの反乱者(記録抹殺) |
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ガリエヌス刺客が多すぎる、ワロタw
ガレリヌス圧殺・・・
36代 | クラウディウス・ゴティクス,CAESAR MARCVS AVRELIVS CLAVDIVS AVGVSTVS |
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誕生 | 213年(214年)5月10日シルミウム(属州パンノニア) |
権力 | ガリエヌスから奪う |
簒奪 | 268年9月 – 270年1月 |
補足 | 出自不明。将軍。ガッリエヌスを暗殺して帝位を奪う。大乱の中で侵入が本格化した蛮族に対し、ゴート族とのナイススの戦いに大勝してこれを押し留めた。 |
崩御 | 270年1月 自然死(記録抹殺) |
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簒奪 | ケンソリヌス,CENSORIVS |
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権力 | 軍団 |
期間 | 269–270 |
補足 | 軍団長、イタリア本土で皇帝僭称?、クラウディウスの反乱者 |
37代 | クィンティッルス,CAESAR MARCVS AVRELIVS CLAVDIVS QVINTILLVS AVGVSTVS |
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誕生 | 不明シルミウム(属州パンノニア) |
元首政権 | 270年 |
補足 | クラウディウス・ゴティクスの弟。兄の死後に帝位を継承するが、アウレリアヌスに暗殺される。 |
崩御 | 270年 アウレリアヌスによる暗殺(記録抹殺) |
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38代 | アウレリアヌス,CAESAR LVCIVS DOMITIVS AVRELIANVS AVGVSTVS |
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誕生 | 214年(215年)9月9日シルミウム(属州パンノニア) |
元首政権 | 270年 – 275年9月 |
補足 | クラウディウス・ゴティクスの重臣、将軍。複数の戦いで蛮族に勝利して対外情勢を安定化させた更にガリア帝国・パルミラ王国を滅ぼして帝国領を回復、元老院から「世界の修復者」の尊称を受ける。シャープール1世死後のペルシャに侵攻する途中、秘書官に暗殺される。 |
崩御 | 275年9月 秘書官による暗殺(記録抹殺) |
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簒奪 | フェリキッシヌス,FERIKISSHINVSV |
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権力 | 軍団 |
期間 | 271 |
補足 | 軍団長、ローマ市内で皇帝僭称?。アウレリアヌスの反乱者(記録抹殺) |
簒奪 | セプティミウス,SEPTIMIVS |
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権力 | 軍団 |
期間 | 271 |
補足 | 軍団長、ダルマティアで皇帝僭称。アウレリアヌスの反乱者(記録抹殺) |
簒奪 | ウルバヌス,URBANVS |
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期間 | 271/272 |
補足 | 軍団長、アウレリアヌスの反乱者(記録抹殺) |
簒奪 | フィルムス,FILMVS |
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期間 | 273 |
補足 | 軍団長、アエギュプトゥスで皇帝僭称。アウレリアヌスの反乱者 |
39代 | タキトゥス,CAESAR MARCVS CLAVDIVS TACITVS AVGVSTVS |
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誕生 | 200年 テルニ |
元首政権 | 275年9月25日 – 276年6月 |
補足 | 元老議員。アウレリアヌスの急死によって皇帝に選出される、即位時点で老齢でありペルシア戦争の再開を準備する中で病没した。 |
崩御 | 276年6月 自然死(記録抹殺) |
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40代 | フロリアヌス,CAESAR MARCVS ANNIVS FLORIANVS AVGVSTVS |
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誕生 | 不明 |
元首期間 | 276年6月 – 276年9月 |
補足 | タキトゥスの異父弟、軍団長。兄の死に伴い帝位継承を主張して西方属州の支持を得る。しかし東方属州の支持を得たプロブスに苦戦を強いられ見限った軍に暗殺された。 |
死亡 | 276年9月 軍による暗殺(記録抹殺) |
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41代 | プロブス,CAESAR MARCVS AVRELIVS PROBVS AVGVSTVS |
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誕生 | 232年シルミウム(属州パンノニア) |
元首政権 | 276年9月 – 282年後半 |
補足 | 帝国軍の高官、将軍。東方属州の支持を背景にフロリアヌスを破り皇帝に即位する。対外戦争で功績を挙げるが、ペルシャ戦争の途中でカルスの反乱により暗殺される。 |
崩御 | 282年後半 カルスに暗殺(記録抹殺) |
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簒奪 | プロクルス,PLOCVLVS |
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権力 | 軍団 |
期間 | 280/281 |
補足 | 軍団長、ボノススと共にゲルマニア・インフェリオルで皇帝僭称。プロブスの反乱者(記録抹殺) |
補足 | サトゥルニヌス,JVIVS SATVRVINVS |
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権力 | 軍団 |
期間 | 281 |
補足 | 軍団長、アエギュプトゥスで皇帝僭称。プロブスの反乱者(記録抹殺) |
42代 | カルス,CAESAR MARCVS AVRELIVS CARVS AVGVSTVS |
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誕生 | 230年ナルボ |
権力 | 軍団 |
簒奪 | 282年後半 – 283年8月 |
補足 | プロブスの近衛隊長。戦争中にフロリアヌスを暗殺、指揮権を奪ってペルシャ戦争を継続した。戦いは優勢に進んだが落雷による事故で急死した。 |
死亡 | 283年8月 事故死(記録抹殺) |
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43代 | カリヌス,CAESAR MARCVS AVRELIVS CARINVS AVGVSTVS |
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誕生 | 不明 |
権力 | 軍団 |
元首政権 | 283年8月 – 285年 |
補足 | カルスの長男。将軍。父の反乱によって弟ヌメリアヌスと副帝となり父が遠征先で戦死すると遠征に同行していた弟と共に皇帝となった。弟を暗殺され、更にその腹心であったディオクレティアヌスが遠征軍を掌握するとこれに敗れ戦死する。 |
崩御 | 285年 ディオクレティアヌス軍との戦いで敗死(記録抹殺) |
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43代 | ヌメリアヌス,CAESAR MARCVS AVRELIVS NVMERIVS NVMERIANVS AVGVSTVS |
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誕生 | 不明 |
権力 | 軍団 |
兼任 | 283年8月 – 284年 |
補足 | カルスの次男。将軍。本国を守る兄に対して父と共にペルシャ遠征に従軍した、父が事故死すると帝位を継いだ兄カリヌスの共同皇帝となり遠征軍の撤退を指揮する。撤退中配下の裏切りで暗殺される。 |
崩御 | 284年 軍による暗殺(記録抹殺) |
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簒奪 | サビヌス・ユリアヌス MARCVS AVRELIVS SABINVS JVLIANVS |
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権力 | 軍団 |
期間 | 284–285 |
補足 | 軍団長、パンノニアで皇帝僭称。カリヌスの反乱者。(記録抹殺) |
τετραρχία, tetrarkhia, tetrarchia, tetrarchy,
軍団長皇帝の戦国時代終結、絶対的皇帝【元首】の上位による担当統治に変更
- 【元首=CAESAR】【皇帝=AVGVSTVS】
- ※【東方元首、西方元首、東方皇帝、西方皇帝】=『元首』が教科書では『副帝』、『皇帝』は『正帝』
- 東方皇帝が東西元首の中では一番権威があるらしい。
4人の宮殿と統治領
東方正帝ディオクレティアヌスの都。現トルコ領イズミットアナトリア北西、バルカン方面やサーサーン朝ペルシアに対する防衛拠点でありのちのコンスタンティノポリス(現トルコ領イスタンブル)とは異なる。318年のコンスタンティヌス1世による帝国再編に伴い最大の脅威であるサーサーン朝に面するこの領域は重要性を増した。統治領
- オリエンス道 Praetorian prefecture of the East
- オリエンス行政区 praefectura praetorio Orientis
ニコメディアはのちに東ローマ帝国の中核都市となった。
東方副帝ガレリウスの都。現セルビア領スレムスカ・ミトロヴィツァ (Sremska Mitrovica) 。ベオグラードを含むヴォイヴォディナ。
統治領
- バルカン半島とドナウ川流域のイリュリクム道 Praetorian prefecture of Illyricum
- イリュリクム行政区praefectura praetorio per Illyricum
西方正帝マクシミアヌスの都。現イタリア領ミラノ、アルプス山脈近傍にあった。
統治領
- イタリア道 praefectura praetorio Italiae
- イタリア行政区praefectura praetorio Italiaeイタリア行政区ヒスパニアとイタリア、アフリカ。
西方副帝コンスタンティウス・クロルスの都。現ドイツ領トリーア、ローマから遠く離れた地にあった。この地は防衛戦略上重要なライン川境界に近く、かつてはガリア皇帝テトリクス1世 (Tetricus I) が拠点としていたが
四半世紀を経て
- ガリア道 Praetorian prefecture of Gaul
- ガリア行政区praefectura praetorio Galliarum
293年 - 305年皇帝【AVGVSTVS】
東方(オリエント)ディオクレティアヌス 285年–293年
44代 | ディオクレティアヌス,CAESAR GAIVS AVRELIVS VALERIVS DIOCLETIANVS AVGVSTVS |
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誕生 | 244年12月22日 サロナ(属州ダルマティア) |
在位 | 284年11月20日 – 305年5月1日 |
権力 | 軍団から『皇帝即位』 |
統治 | 東方ローマ元首・ローマ皇帝 |
補足 | 属州民出身の軍団長。内乱に決着を付けて専制君主制を確立させた、また共同皇帝による東西分割を導入自らは東方正帝を務めた。 |
崩御 | 311年12月3日 自然死 |
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西方(オキシデント)マクシミアヌス 285年–293年
44代 | マクシミアヌス,CAESAR GAIVS AVRELIVS VALERIVS MAXIMIANVS AVGVSTVS |
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誕生 | 250年頃 シルミウム(属州パンノニア) |
権力 | ディオクレアティヌスから任命 |
在位 | 286年4月1日 – 311年5月1日 |
統治 | 西方ローマ元首・皇帝 |
補足 | 属州民出身の将軍。ディオクレティアヌスの側近として共同皇帝(西方正帝)に任命される、ディオクレティアヌスの引退に合わせて自らも退位する。 |
崩御 | 310年頃 コンスタンティヌス1世により処刑される |
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293年 - 305年 元首(副帝)【CAESAR】
東方(イリュリクム)ガレリウス 293年–305年
45代 | ガレリウス,CAESAR GALERIVS VALERIVS MAXIMIANVS AVGVSTVS |
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誕生 | 260年頃フェリクス・ロムリアナ(属州モエシア) |
権力 | ディオクレティアヌス帝の後任皇帝 |
在位 | 305年5月1日 – 311年5月頃 |
統治 | 東方ローマ元首・皇帝 |
補足 | 属州民出身の将軍。ディオクレティアヌスの後を継いで皇帝となり、共同皇帝コンスタンティウスと共に東西分立制を維持する。 |
崩御 | 311年 自然死 |
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西方(ガリアおよびヒスパニア)コンスタンティウス・クロルス 293年–305年
44代・45代 | コンスタンティウス・クロルス,CAESAR GAIVS FLAVIVS VALERIVS CONSTANTIVS AVGVSTVS |
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| コンスタンティウス1世 CONSTANTIVSⅠ |
誕生 | 250年3月31日ダルダニ(属州モエシア) |
権力 | ディオクレアティヌスから任命 |
在位 | 305年5月1日 – 306年7月25日 |
統治 | 西方ローマ元首・皇帝 |
補足 | クラウディウス2世の末裔を自称。ガレリウスの共同皇帝(西方正帝)となった。 |
崩御 | 306年7月25日 自然死 |
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305 - 306年 皇帝 【AVGVSTVS】
東方(オリエント)ディオクレティアヌス 285年–293年
44代 | ディオクレティアヌス,CAESAR GAIVS AVRELIVS VALERIVS DIOCLETIANVS AVGVSTVS |
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西方(ガリア、ヒスパニアおよびブリタンニア)コンスタンティウス・クロルス 305年–306年
44代・45代 | コンスタンティウス・クロルス,CAESAR GAIVS FLAVIVS VALERIVS CONSTANTIVS AVGVSTVS |
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305 -306 元首【CAESAR】
東方副帝(オリエント)マクシミヌス・ダイア 305年–306年
46代 | マクシミヌス・ダイア,CAESAR GALERIVS VALERIVS MAXIMINVS AVGVSTVS |
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誕生 | 270年11月20日 |
権力 | ガレリウス帝の推薦 |
在位 | 311年5月1日 – 313年後半 |
統治 | 東方ローマ元首・皇帝 |
補足 | ガレリウスの甥。叔父の死後にリキニウスと帝位を争うも、敗れて戦死した。 |
崩御 | 313年後半 リキニウスの軍勢に敗死 |
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西方副帝(イタリア本土およびアフリカ)フラウィウス・ウァレリウス・セウェルス 305年–306年
45代 | フラウィウス・ウァレリウス・セウェルス,FLAVIVS VALERIVS SEVERVS AVGVSTVS |
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誕生 | 不明 |
権力 | ガレリウス帝の推挙 |
在位 | 306年夏 – 307年前半 |
統治 | 西方ローマ元首・皇帝 |
補足 | 属州民出身の将軍。ガレリウスの寵愛を受けてコンスタンティウス死後の共同皇帝(西方正帝)となるが、その息子コンスタンティヌス1世とマクシミアヌスの息子マクセンティウスに反乱を起され敗北する。 |
崩御 | 307年9月16日 マクセンティウスにより処刑される(記録抹殺) |
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306年 - 307年 皇帝 【AVGVSTVS】
東方(イリュリクム)ガレリウス 306年–307年
45代 | ガレリウス,CAESAR GALERIVS VALERIVS MAXIMIANVS AVGVSTVS |
西方(イタリア本土およびアフリカ)ウァレリウス・セウェルス 306年–307年
45代 | ウァレリウス・セウェルス,FLAVIVS VALERIVS SEVERVS AVGVSTVS |
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306 -307 元首 【CAESAR】
東方(オリエント)マクシミヌス・ダイア 306年–307年
46代 | マクシミヌス・ダイア,CAESAR GALERIVS VALERIVS MAXIMINVS AVGVSTVS |
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西方(ガリア、ヒスパニア及びブリタニア)コンスタンティヌス1世 306年–307年
46代・50代 | コンスタンティヌス1世,CAESAR FLAVIVS CONSTANTINVS VALERIVS AVGVSTVS |
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| CONSTANTINVS Ⅰ |
| コンスタンティヌス大帝,Constantine the Great |
誕生 | 272年2月27日 ナイッスス(属州モエシア) |
在位 | 306年7月25日 – 337年5月22日 |
統治 | 西方ローマ元首(306)、西方皇帝(312)、ローマ皇帝(324) |
補足 | コンスタンティウス・クロルスの息子。コンスタンティヌス朝の創始者で「大帝」と尊称される。キリスト教を公認したことから聖人として列福されている。マクセンティウスと協力してまずウァレリウスを幽閉し、その副帝として台頭する。その後の反乱で西方帝位を獲得、更にリキニウス軍を破り、東西分立の一時廃止と自らの王朝成立を推進した。 |
崩御 | 337年5月22日 自然死 |
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首都司令(ローマ) 307
首都司令(ローマ)マクセンティウス 307年
46代 | マクセンティウス,MARCVS AVRELIVS VALERIVS MAXENTIVS AVGVSTVS |
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誕生 | 278年頃 |
権力 | ウァレリウス・セウェルスより奪う |
簒奪 | 306年10月28日 – 312年10月28日 |
統治 | 西方ローマ元首・皇帝 |
補足 | マクシミアヌスの息子。父の援助を得て反乱を起こし西方帝位を簒奪する。同じく西方正帝経験者の子息であるコンスタンティヌスを副帝にするも後に反旗を翻されて帝位を追われる。 |
死亡 | 312年10月28日 コンスタンティヌス1世の軍勢に敗死(記録抹殺) |
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306年 - 307年 皇帝 【AVGVSTVS】
東方(イリュリクム)ガレリウス 307年–311年
45代 | ガレリウス,CAESAR GALERIVS VALERIVS MAXIMIANVS AVGVSTVS |
誕生 | 260年頃フェリクス・ロムリアナ(属州モエシア) |
権力 | ディオクレティアヌス帝の後任皇帝 |
在位 | 305年5月1日 – 311年5月頃 |
統治 | 東方ローマ元首・皇帝 |
補足 | 属州民出身の将軍。ディオクレティアヌスの後を継いで皇帝となり、共同皇帝コンスタンティウスと共に東西分立制を維持する。 |
崩御 | 311年 自然死 |
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東方(トラキアおよびポントゥス)リキニウス 308年
49代・50代 | |
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| リキニウス,CAESAR GAIVS VALERIVS LICINIVS AVGVSTVS |
49代 | |
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| リキニウス,CAESAR GAIVS VALERIVS LICINIVS AVGVSTVS |
誕生 | 263年頃 – 325年フェリクス・ロムリアナ(属州モエシア) |
権力 | マクシミヌスから奪う |
在位 | リキ二ウス,308年11月11日 – 324年9月18日 |
統治 | 東方ローマ元首・皇帝 |
補足 | ガレリウスの側近。先帝の甥であるマクシミヌスを破って東方正帝となり、コンスタンティウスと手を結んでマクセンティウスを失脚させた。更にマルティアヌス、バレリウス・バレンスら傀儡の共同皇帝を立ててコンスタンティウスとも争うが、逆に敗れて帝位を失う。 |
処刑 | 325年頃 リキ二ウス、バレンスともコンスタンティヌス1世により処刑される(記録抹殺) |
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東方(オリエント)マクシミヌス・ダイア 310年–313年
46代 | マクシミヌス・ダイア,CAESAR GALERIVS VALERIVS MAXIMINVS AVGVSTVS |
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306 - 307 西方 皇帝【AVGVSTVS】
西方(ガリア、ヒスパニア及びブリタニア)コンスタンティヌス1世 307年
46代・50代 | コンスタンティヌス1世,CAESAR FLAVIVS CONSTANTINVS VALERIVS AVGVSTVS |
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| CONSTANTINVS Ⅰ |
西方(イタリア)マクセンティウス 307年–312年
46代 | マクセンティウス,MARCVS AVRELIVS VALERIVS MAXENTIVS AVGVSTVS |
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誕生 | 278年頃 |
権力 | ウァレリウス・セウェルスより奪う |
簒奪 | 306年10月28日 – 312年10月28日 |
統治 | 西方ローマ元首・皇帝 |
補足 | マクシミアヌスの息子。父の援助を得て反乱を起こし西方帝位を簒奪する。同じく西方正帝経験者の子息であるコンスタンティヌスを副帝にするも後に反旗を翻されて帝位を追われる。 |
死亡 | 312年10月28日 コンスタンティヌス1世の軍勢に敗死(記録抹殺) |
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簒奪 | ドミティウス・アレクサンデル,DOMITIVS ALEXANDER |
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権力 | ローマから独立 |
簒奪 | 309年-311年 |
誕生 | アフリカ(フギリア王国) |
統治 | 西方ローマ元首 |
補足 | アフリカ人の総督、簒奪者マクセンティウスに息子を人質として差し出すの拒否し、マクセンティウスに対立する形で『皇帝宣言』コンスタンティヌス側につくもマクセンティウス軍に敗れ処刑される。 |
死亡 | 311 処刑、マクセンティウスに敗れる(記録抹殺) |
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西方(イタリア)マクシミアヌス 307年–310年
44代 | マクシミアヌス,CAESAR GAIVS AVRELIVS VALERIVS MAXIMIANVS AVGVSTVS |
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誕生 | 250年頃 シルミウム(属州パンノニア) |
権力 | ディオクレアティヌスから任命 |
在位 | 286年4月1日 – 311年5月1日 |
統治 | 西方ローマ元首・皇帝 |
補足 | 属州民出身の将軍。ディオクレティアヌスの側近として共同皇帝(西方正帝)に任命される、ディオクレティアヌスの引退に合わせて自らも退位する。 |
崩御 | 310年頃 コンスタンティヌス1世により処刑される |
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306 - 307 元首 【CAESAR】
東方(オリエント)マクシミヌス・ダイア 307年–310年
46代 | マクシミヌス・ダイア,CAESAR GALERIVS VALERIVS MAXIMINVS AVGVSTVS |
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313年 - 324年 皇帝【AVGVSTVS】
東方(オリエント)リキニウス 313年–324年
49代・50代 | |
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| リキニウス,CAESAR GAIVS VALERIVS LICINIVS AVGVSTVS |
誕生 | 263年頃 – 325年フェリクス・ロムリアナ(属州モエシア) |
権力 | マクシミヌスから奪う |
在位 | リキ二ウス,308年11月11日 – 324年9月18日 |
統治 | 東方ローマ元首・皇帝 |
補足 | ガレリウスの側近。先帝の甥であるマクシミヌスを破って東方正帝となり、コンスタンティウスと手を結んでマクセンティウスを失脚させた。更にマルティアヌス、バレリウス・バレンスら傀儡の共同皇帝を立ててコンスタンティウスとも争うが、逆に敗れて帝位を失う。 |
処刑 | 325年頃 リキ二ウス、バレンスともコンスタンティヌス1世により処刑される(記録抹殺) |
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西方(オキシデント)コンスタンティヌス1世 313年–324年
46代・50代 | コンスタンティヌス1世,CAESAR FLAVIVS CONSTANTINVS VALERIVS AVGVSTVS |
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| CONSTANTINVS Ⅰ |
東方(オリエント)マルティニアヌス 324年
50代 | マルティアヌス,SEXTVS MARCIVS MARTINIVS |
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誕生 | 不明 |
権力 | リキ二ウスより |
在位 | 324年 |
補足 | リキ二ウスはにマルティアヌス、バシアヌス、ヴァレリウス・バレンスら傀儡の共同皇帝を立ててコンスタンティウスとも争うが、逆に敗れて帝位を失う。 |
処刑 | 325年頃 リキ二ウス、マルティアヌス、バシアヌス、バレンス4人ともコンスタンティヌス1世により処刑される(記録抹殺) |
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313年 - 324年 元首 【CAESAR】
西方(イタリア)バシアヌス
50代 | バシアヌス,BASSIANVS |
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誕生 | 不明 |
権力 | 元老議員より |
在位 | 313年–316年 |
補足 | 元老議員より皇帝になる、リキ二ウス側に就く。マルティアヌス、バシアヌス、ヴァレリウス・バレンスら傀儡の共同皇帝を立ててコンスタンティウスとも争うが、逆に敗れて帝位を失う。 |
処刑 | 325年頃 リキ二ウス、マルティアヌス、バシアヌス、バレンス4人ともコンスタンティヌス1世により処刑される(記録抹殺) |
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東方(イリュリクム)ウァレリウス・バレンス 314–316年
50代 | ヴァレリウス・バレンス,VRELIVS VALENIVS VALENS |
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誕生 | 不明 |
権力 | リキ二ウスより |
在位 | 316-317年 |
補足 | リキ二ウスはにマルティアヌス、バシアヌス、ヴァレリウス・バレンスら傀儡の共同皇帝を立ててコンスタンティウスとも争うが、逆に敗れて帝位を失う。 |
処刑 | 325年頃 リキ二ウス、マルティアヌス、バシアヌス、バレンス4人ともコンスタンティヌス1世により処刑される(記録抹殺) |
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東方(オリエント)小リキニウス 317年–324年
50代 | 小リキ二ウス LICINIVS MINOR |
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在位 | 317 - 324 |
処刑 | コンスタンティヌス大帝により処刑 |
西方(オキシデント)クリスプス 317年–326年
50代 | クリスプス,CRISPVS |
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在位 | 317 - 324 |
処刑 | コンスタンティヌス大帝により処刑 |
分割皇帝が統一された。
50代 | コンスタンティヌス1世,CAESAR FLAVIVS CONSTANTINVS VALERIVS AVGVSTVS |
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| CONSTANTINVS Ⅰ |
| コンスタンティヌス大帝,Constantine the Great |
誕生 | 272年2月27日 ナイッスス(属州モエシア) |
在位 | 306年7月25日 – 337年5月22日 |
統治 | 西方ローマ元首(306)、西方皇帝(312)、全ローマ皇帝(324) |
補足 | コンスタンティウス・クロルスの息子。コンスタンティヌス朝の創始者で「大帝」と尊称される。キリスト教を公認したことから聖人として列福されている。マクセンティウスと協力してまずウァレリウスを幽閉し、その副帝として台頭する。その後の反乱で西方帝位を獲得、更にリキニウス軍を破り、東西分立の一時廃止と自らの王朝成立を推進した。 |
崩御 | 337年5月22日 自然死 |
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※『キリスト教』がローマ帝国の『国教』になり、多神教が廃され一神教になる。帝都が『ローマ』から『ビザンティウム(コンスタンティノープル)』に遷都
51代 | ※3人 |
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| コンスタンティヌス2世,CAESAR FLAVIVS CLAVDIVS CONSTANTINVS AVGVSTVS |
| CONSTANTINVS Ⅱ |
誕生 | 不明 316年 |
権力 | コンスタンティヌス大帝の遺言 |
在位 | 337年5月22日 – 340年 |
統治 | ローマ皇帝 |
補足 | コンスタンティヌス2世の長男。父の死後次男コンスタンティウス2世と三男コンスタンス1世と共に皇帝となる。兄弟間の内戦に敗れ弟コンスタンス1世に処刑された。 |
崩御 | 340年 コンスタンス1世により処刑される |
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| コンスタンティウス2世,CAESAR FLAVIVS IVLIVS CONSTANTIVS AVGVSTVS |
| CONSTANTIVS II |
誕生 | 317年8月7日シルミウム(属州パンノニア) |
権力 | コンスタンティヌス大帝の遺言 |
在位 | 337年5月22日 – 361年11月3日 |
統治 | 東方ローマ元首(324) ローマ皇帝(353) |
補足 | コンスタンティヌス2世の次男。兄弟間の内乱を終結させて、唯一の後継者となる更に共同皇帝に据えていたヴェトラニオを退位させ父と同じ単独皇帝としての地位を手に入れる、当初は帝国を3分割して東方を担当したが、353年に単独の統治者になった。キリスト教を優遇し、猜疑心の強さから粛清をたびたび行なった。父帝コンスタンティヌス1世と同様、熱心なキリスト教徒であったが、父帝とは反対にアリウス派を支持し、司教アタナシウスを迫害した。小アジアで361年に45歳で病死 |
崩御 | 361年11月3日 自然死 |
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51代 | |
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| コンスタンス1世,CAESAR FLAVIVS IVLIVS CONSTANS AVGVSTVS |
| CONSTANS Ⅰ |
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権力 | コンスタンティヌス大帝の遺言 |
誕生 | 不明 320年 |
在位 | 337年5月22日 – 350年 |
統治 | 西方ローマ皇帝 |
補足 | コンスタンティヌス2世の三男。長男コンスタンティヌス2世との内乱を制するも、将軍マグネンティウスの裏切りにより落命する 。 |
崩御 | 350年 マグネンティウスにより暗殺される |
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| ヴェトラニオ |
| 不明 |
在位 | 不明 – 350年12月25日 |
権力 | コンスタンティヌス大帝の遺言 |
統治 | 西方ローマ元首 |
補足 | コンスタンティヌス1世の側近。大帝の遺児による内戦の最中に反乱を起こすがコンスタンティウス2世により共同皇帝として懐柔される、マグネンティウスを討伐したコンスタンティウス2世に圧力を受け、共同皇帝から退位して将軍に復帰する。 |
崩御 | 356年 自然死 |
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52代 | フラウィウス・マグヌス・マグネンティウス,FIAVIVS MAGNVS MAGNENTIVS |
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誕生 | 303年 - 353年8月11日不明 |
権力 | コンスタンス1世を殺害 |
簒奪 | 350年 - 353年 |
統治 | 西方ローマ元首 |
補足 | コンスタンス1世を殺害し帝位に就く。コンスタンス1世の共同皇帝コンスタンティウス2世と対立、351年にコンスタンティウス軍とムルサの戦いで敗れ、イタリアへ敗走353年リヨンで自殺した。 |
死亡 | 353年 自殺 |
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53代 | コンスタンティウス2世 CONSTANTIVS II |
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誕生 | 317年8月7日 - 361年11月3日イリュリクム(ローマ属州) |
統治 | 東方ローマ皇帝(324) ローマ皇帝(353) |
権力 | コンスタンティヌス大帝の遺言 |
在位 | 在位337年 - 361年 |
補足 | コンスタンティヌス2世の次男。兄弟間の内乱を終結させて、唯一の後継者となる更に共同皇帝に据えていたヴェトラニオを退位させ父と同じ単独皇帝としての地位を手に入れる、当初は帝国を3分割して東方を担当したが、353年に単独の統治者になった。キリスト教を優遇し、猜疑心の強さから粛清をたびたび行なった。父帝コンスタンティヌス1世と同様、熱心なキリスト教徒であったが、父帝とは反対にアリウス派を支持し、司教アタナシウスを迫害した。小アジアで361年に45歳で病死 |
崩御 | 361年 病死 |
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54代 | ユリアヌス,CAESAR FLAVIVS CLAVDIVS IVLIANVS AVGVSTVS |
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誕生 | 332年(331年)コンスタンティノープル(属州トラキア) |
権力 | コンスタンティウス2世から |
在位 | 360年初頭 – 363年6月26日 |
補足 | コンスタンティヌス1世の甥。従兄弟であるコンスタンティウス2世により後継者に指名される叔父によるキリスト教の庇護を廃止したことから「背教者」と蔑称された。古代ローマ的価値観を通そうとした最期の皇帝 |
崩御 | 363年6月26日 遠征中に戦傷死 |
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55代 | ヨウィアヌス,CAESAR FLAVIVS IOVIANVS AVGVSTVS |
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誕生 | 331年シグドゥヌム(属州モエシア) |
権力 | ユリアヌスの軍団から |
在位 | 363年6月26日 – 364年2月17日 |
補足 | ユリアヌスの側近。ユリアヌスが遠征先で後継者を指名せず跡継ぎも残さずに急死したことから、遠征軍の支持を得て皇帝となる。遠征からの帰還途中に病死した。 |
崩御 | 364年2月17日 自然死 |
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コンスタンティヌス朝断絶
ウァレンティニアヌス朝 321 - 371 4代
56代 | ウァレンティニアヌス1世,FLAVIVS VALENTINIANVS AVGVSTVS |
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誕生 | 321年シバラエ(属州パンノニア) |
権力 | 遠征軍から支持 |
在位 | 364年2月26日 – 375年11月17日 |
補足 | ウァレンティニアヌス朝初代皇帝、ユリアヌスの側近。ヨウィアヌスの病死に伴い遠征軍から支持されて皇帝即位を宣言する。帰国後は弟ウァレンスを東方担当の共同皇帝とし蛮族侵入が本格化する中で優れた軍功を上げた。 |
崩御 | 375年11月17日 自然死 |
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57代 | ウァレンス,FLAVIVS IVLIVS VALENS AVGVSTVS |
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誕生 | 328年シバラエ(属州パンノニア) |
権力 | 後見人 |
在位 | 364年3月28日 – 378年8月9日 |
補足 | ウァレンティニアヌス1世の弟。兄の共同皇帝となり、死後は兄の息子達の後見人を務める。ハドリアノポリスの戦いでゴート軍に敗れて戦死する。 |
崩御 | 378年8月9日 ゴート軍との戦いで敗死 |
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58代 | グラティアヌス,FLAVIVS GRATIANVS AVGVSTVS |
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誕生 | 359年シルミウム(属州パンノニア) |
在位 | 367年8月4日 – 383年8月25日 |
補足 | ウァレンティニアヌス1世の長男。父の死後に西方担当の皇帝位を継承する。叔父ウァレンスの死後は新しい東方担当の皇帝にテオドシウスを抜擢した。アグヌス・マキシムスによる反乱で戦死。 |
崩御 | 383年8月25日 アグヌス・マキシムスにより暗殺される |
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58・60代 | テオドシウス1世,FLAVIVS THEODOSIVS AVGVSTVS |
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| テオドシウス大帝,Theodosius the Great |
誕生 | 347年1月11日カウカ(属州ヒスパニア) |
在位 | 379年1月1日 – 395年1月17日 |
統治 | 東ローマ元首(364 - 374) |
補足 | テオドシウス朝初代皇帝、ローマ軍の将軍であった大テオドシウスの息子として生まれウァレンティニアヌス朝で自らも栄達する。グラティアヌスによって共同皇帝とされたあと弟ウァレンティニアヌス1世の死によって単独皇帝となった。 |
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崩御 | 395年1月17日 自然死 |
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58代 | ウァレンティニアヌス2世,FLAVIVS VALENTINIANVS INVICTVS AVGVSTVS |
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誕生 | 371年ミラノ(イタリア本土) |
在位 | 375年11月17日 – 392年5月15日 |
補足 | ウァレンティニアヌス1世の次男。アグヌス・マキシムスの反乱で兄が死亡するとテオドシウスの元へ逃亡、その庇護で兄の帝位を継承した。 |
崩御 | 392年5月15日 暗殺 |
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ウァレンティニアヌス朝断絶
59代 | ヨウィアヌス,FLIAVIVS JOVANVS |
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誕生 | 331年 不明 |
権力 | 軍団から |
在位 | 331年 - 364年2月17日 |
補足 | 331年に生まれる。父親は将軍だった。軍司令官を経て執政官となりサーサーン朝との戦いに従軍。この戦争で戦没したユリアヌスは副帝を指名しておらず、また適当な親族も残っていなかったので軍隊によって363年に皇帝に選出された。糧食が乏しい状況で敵中に残されたヨウィアヌスはペルシア王シャープール2世と屈辱的和議(アルメニア、メソポタミアのチグリス川以東の放棄)を結び撤退。364年にコンスタンティノポリスへの帰還の途中火鉢によるガス中毒で死亡したと言われている。 |
崩御 | 364年 事故死 |
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テオドシウス朝 THEODOSIVS 347 - (東ローマ518)(西ローマ455) 6代
60代 | テオドシウス1世,FLAVIVS THEODOSIVS AVGVSTVS |
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| テオドシウス大帝,Theodosius the Great |
誕生 | 347年1月11日カウカ(属州ヒスパニア) |
権力 | テオドシウス大帝から |
在位 | 379年1月1日 – 395年1月17日 |
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統治 | 東ローマ元首(364 - 374)東西ローマ(379) |
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補足 | テオドシウス朝初代皇帝、ローマ軍の将軍であった大テオドシウスの息子として生まれウァレンティニアヌス朝で自らも栄達する。グラティアヌスによって共同皇帝とされたあと弟ウァレンティニアヌス1世の死によって単独皇帝となった。 |
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崩御 | 395年1月17日 自然死 |
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61代 | アルカディウス,FLAVIVS ARCADIVS AVGVSTVS |
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誕生 | 東ローマ377年 |
権力 | テオドシウス大帝から |
在位 | 383年1月 – 408年5月1日 |
統治 | 東ローマ帝国 |
補足 | テオドシウス1世の長男。東方担当の皇帝となるがこの時代から東西分割の深化が進んでいく。 |
崩御 | 408年5月1日 自然死 |
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62代 | ホノリウス,FLAVIVS HONORIVS AVGVSTVS |
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誕生 | 西ローマ384年9月9日 |
権力 | テオドシウス大帝から |
在位 | 393年1月23日 – 423年8月15日 |
統治 | 西ローマ帝国 |
補足 | テオドシウス1世の次男。西方担当の皇帝となるがこの時代から東西分割の深化が進んでいく。後見人ローマ軍最高指揮官スティリコを処罰した。 |
崩御 | 423年8月15日 自然死 |
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簒奪者 | プリスクス・アッタルスPriscus Attalus |
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権力 | 西ゴートの支援 |
皇帝宣言 | 409年と414年の二度 |
補足 | 409年と414年の二度、西ゴートの支援の元でローマ皇帝ホノリウスのローマの簒奪帝となった。彼は409年の間、ローマで皇帝の称号を保持しその後414年にはボルドーでも皇帝の称号を保持した。彼は数ヶ月間のみ支配した。一度目はアラリックが、皇帝ホノリウスとの交渉の妨げになると考えた時に終わり、二度目は、西ゴートの支援を失った時に終わりをつげた。その後ホノリウス派の捕囚となり416年にはローマ市街で行われたホノリウスの凱旋式への参加を義務づけられた。その後アッタルスはリーパリ島へ追放され最後の日々を送った。 |
簒奪 | ヨウィヌス,Youinusu | 在位 | 411年-412年 |
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62・63代 | コンスタンティウス3世,FLAVIVS CONSTANTIVS AVGVSTVS |
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| CONSTANTIVS Ⅲ |
誕生 | 西ローマ生年不明ナイッスス(属州モエシア) |
権力 | 世襲 |
在位 | 421年2月8日 – 421年9月2日 |
統治 | 西ローマ帝国 |
補足 | テオドシウス1世の娘婿で、アルカディウスとホノリウスの義兄。ホノリウスの共同皇帝を務める。 |
崩御 | 421年9月2日 自然死 |
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64代 | テオドシウス2世カリグラフォス,FLAVIVS THEODOSIVS AVGVSTVS |
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| THEODOSIVS Ⅱ Calligraphos |
権力 | 世襲 |
誕生 | 東ローマ401年4月10日コンスタンティノープル(属州トラキア) |
在位 | 408年5月1日 – 450年7月28日 |
統治 | 東ローマ |
補足 | アルカディウスの息子。テオドシウスの大城壁など帝国東方の防衛強化を進める。跡継ぎを持たないまま病没したため姉の夫マルキアヌスを後継者に指名する。“カリグラフォス”は「能書家」の意 |
崩御 | 450年7月28日 自然死 |
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65代 | マルキアヌス,Maricianus Μαρκιανός |
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誕生 | 396年 - 457年1月 |
権力 | テオドシウス2世 |
在位 | 在位:450年 - 457年 |
補足 | 450年、先帝テオドシウス2世が死去した後、その姉アエリア・プルケリア(399年 - 453年)と結婚しマルキアヌスが皇位を継ぐこととなった。即位後フン族のアッティラへの献金の打ち切りやカルケドン公会議での三位一体説を支持するなど皇帝としての力量をそれなりに見せたが在位7年にして病死した。マルキアヌスとプルケリアとの間に生まれたアエリア・マルキア・エウフェミアは、西ローマ皇帝アンティミウスと結婚している。 |
崩御 | 457年 病死 |
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西方ローマ帝国・ヨーロッパ・ローマニア Romania in Europe
テオドシウス朝(西ローマ朝) - 455 首都ラべェンナ
66代 | ヨハンネス(ヨハネス,JONANNES |
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誕生 | 西ローマ不明 |
在位 | 423年8月27日 – 425年5月 |
統治 | 西ローマ帝国 |
補足 | ホノリウス死後、テオドシウス朝を疎んだ元老院から推挙される。のちテオドシウスの孫であるウァレンティニアヌス3世に敗れて退位させられ『簒奪者』の汚名を着せられる。 |
崩御 | 425年5月 ウァレンティニアヌス3世により処刑される(記録抹殺) |
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67代 | ウァレンティニアヌス3世,FLAVIVS PLACIDIVS VALENTINIANVS AVGVSTVS |
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誕生 | 西ローマ419年7月2日ラヴェンナ(イタリア本土) |
在位 | 424年10月23日 – 455年3月16日 |
統治 | 西ローマ帝国 |
補足 | コンスタンティウス3世の息子でテオドシウス1世の孫。母后、摂政ガッラ・プラキディアとローマ全軍司令官フラウィウス・アエティウスが権力を動かす。ヴァンダル族やフン族の侵略により西方領土の弱体化が進む。跡継ぎを持たないままに暗殺される。 |
崩御 | 455年3月16日 ペトロニウス・マキシマスにより暗殺される |
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テオドシウス朝(西ローマ朝)断絶
68代 | ペトロニウス・マクシムス,FLAVIVS ANICIVS PETRONIVS MAXIMVS AVGVSTVS |
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誕生 | 396年 |
在位 | 455年3月17日 – 455年5月31日 |
統治 | 西ローマ帝国 |
補足 | 元老院議員。ウァレンティニアヌス3世の暗殺によって西方におけるテオドシウス朝断絶を画策した。元老院の支持によって帝位を得たがヴァンダル族の前に首都を捨てて逃亡、激怒した民衆に投石されて死亡した。帝自身はリキメルの言うがままだった。 |
崩御 | 455年5月31日 民衆による投石で死亡 |
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69代 | アウィトゥス,EPARCHIVS AVITVS AVGVSTVS |
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誕生 | 385年 |
簒奪 | 455年7月9日 – 456年10月17日 |
権力 | ゴート軍の助け |
統治 | 西ローマ帝国 |
補足 | フン族を破った将軍アエティウスの側近。西ゴートとの交渉中にペトロニウスの失脚を知りゴート軍の助力を得てローマを占領する。西ゴート撤退後、蛮族出身の軍務長官リキメルに謀殺される。 |
崩御 | 456年10月17日 リキメルにより暗殺される |
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70代 | マヨリアヌス,IVLIVS VALERIVS MAIORIANVS AVGVSTVS |
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誕生 | 420年11月 |
権力 | リキメルにより即位 |
在位 | 457年4月 – 461年8月2日 |
統治 | 西ローマ帝国 |
補足 | アウィトゥスの同僚。リキメルによって傀儡として擁立されるも、影響下を脱して独自に統治を行う、優れた手腕で西方領土の再建を進めるが志半ばでリキメルに暗殺される。 |
崩御 | 461年8月2日 リキメルにより暗殺される |
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71代 | リウィウス・セウェルス,LIBIVS SEVERVS AVGVSTVS |
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誕生 | 生年不明ルカーニア(イタリア本土) |
権力 | リキメルにより即位 |
在位 | 461年11月 – 465年8月 |
統治 | 西ローマ帝国 |
補足 | 元老院議員。リキメルの傀儡としてマヨリアヌス暗殺後に皇帝となる。リキメルに従順に従うも不要と判断されて4年後に毒殺される。 |
崩御 | 465年 リキメルにより暗殺される |
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72代 | アンテミウス,PROCOPIVS ANTHEMIVS AVGVSTVS |
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誕生 | 420年 |
権力 | リキメルにより即位 |
在位 | 467年4月12日 – 472年7月11日 |
統治 | 西ローマ帝国 |
補足 | 東方正帝マルキアヌスの娘婿。リキメルの傀儡として皇帝となるも東ローマの後ろ盾で独立を図る。 |
崩御 | 472年7月11日 リキメルにより暗殺される |
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73代 | オリュブリウス,FLAVIVS ANICIVS OLYBRIVS AVGVSTVS |
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誕生 | 420年 |
権力 | ヴァンダル軍の協力 |
在位 | 472年7月11日 – 472年11月2日 |
統治 | 西ローマ帝国 |
補足 | ウァレンティニアヌス3世の娘婿。リキメル病没後ヴァンダル軍の協力を得て帝位を奪うが自らも流行病に倒れる。 |
崩御 | 472年11月2日 自然死 |
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74代 | グリュケリウス,GLYCERIVS |
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誕生 | 不明 |
権力 | ブルグント族のグンドバルト王の協力で帝位を奪い取る |
在位 | 473年3月 – 474年6月 |
統治 | 西ローマ帝国 |
補足 | アニシウス氏族出身。ブルグント族のグンドバルト王の協力で帝位を奪い取るが東方正帝レオ1世の支持を得たユリウス・ネポスに追放される。 |
崩御 | 480年以降 サロナにて病没 |
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75代 | ユリウス・ネポス,JILIVS NEPOS |
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誕生 | 430年 |
権力 | 東方ローマ人の支持でグリュケリウスを追放して皇帝 |
在位 | 474年6月 – 475年8月28日(イタリア); – 480年春(ダルマティア) |
統治 | 西ローマ帝国 |
補足 | ダルマティア海軍の提督マルケリヌスの甥で、東方正帝レオ1世の娘婿。東方領土の強い支持でグリュケリウスを追放して皇帝となる。蛮族の軍師オレステスの裏切りで追放されダルマティアへ亡命する。新たな東方正帝ゼノンからは正式な「西方の共同皇帝」と見なされロムルス・アウグストゥルスとオレステスを追放したオドアケルからも承認されていた。後に存在を危険視したオドアケルの翻意で刺客を送られ、暗殺される。 |
崩御 | 480年 オドアケルにより暗殺される |
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76代 | ロムルス・アウグストゥルス,ROMVLVS AVGVSTVLVS |
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本名 | ロムルス・アウグストゥス,ROMVLVS AVGVSTVS |
権力 | 将軍フラウィウス・オレステスに帝位 |
在位 | 475年10月31日 – 476年9月4日 |
統治 | 西ローマ帝国 |
補足 | 蛮族の軍師オレステスの息子。母親はローマ人だったが、半蛮族の皇帝もローマでは認められてはいなかった。将軍フラウィウス・オレステスに帝位につけられる。一年後オドアケルに敗れた父オレステスの失脚により帝位を返上して追放される。以降、法律的には東方正帝が西方正帝を兼ねることとなるが政治的には西方領土という概念自体が消失した。 |
崩御 | 不明 |
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コンスタンティヌス朝 Η δυναστεία του Μεγάλου Κωνσταντίνου (324-379) Constantinian dynasty 313 - 363 6代
代 | 名前 |
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50代 | コンスタンティヌス1世(大帝),Constantine "the Great" Κωνσταντίνος Α' ο Μέγας, Latin(Gaius Flavius Valerius Aurelius Constantinus) |
在位 | 313年-337年 |
補足 | ローマ帝国皇帝324年-337年 |
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51.53代 | コンスタンティウス2世,(Constantius II) |
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在位 | 353年-361年 |
補足 | |
ローマ帝国東方元首 | 353年-361年 |
ローマ帝国皇帝 | 337年-353年 |
51代 | コンスタンティヌス2世,Κωνστάντιος [Β'](Flavius Iulius Constantius) |
補足 | ガリア、ブリタニア、ヒスパニアの皇帝 |
在位 | 337年-340年 |
51代 | コンスタンス1世,Constans I Κώνστας Α' (Flavius Iulius Constans) |
在位 | 337年-350年 |
補足 | |
イタリア、パンノニア、北アフリカなどの元首 | 337年-340年 |
ローマ帝国西方皇帝 | 340年-350年 |
52代 | マグネンティウス,Julian "the Apostate" Ιουλιανός "ο Παραβάτης", Flavius Claudius Iulianus |
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在位 | 350年-353年 |
補足 | 簒奪者 |
53代 | コンスタンティウス2世,Κωνστάντιος [Β'], Flavius Iulius Constantius |
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在位 | 353年-361年 |
補足 | |
ローマ帝国東方元首 | 353年-361年 |
ローマ帝国皇帝 | 337年-353年 |
54代 | ユリアヌス,Ιουλιανός "ο Παραβάτης"(Flavius Claudius Iulianus) |
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在位 | 361年-363年 |
補足 | |
元首 | 355年-361年 |
コンスタンティヌス朝の血統断絶
55代 | ヨウィアヌスΙοβιανός,(Flavius Claudius Iovianus) | 363年-364年 |
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ウァレンティニアヌス朝 364 - 392 3代
代 | 名前 | 在位 |
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56代 | ウァレンティニアヌス1世,IΟυαλεντιανός(Flavius Valentinianus) | 364年-375年 |
57代 | グラティアヌス,Valens Ουάλης, (Flavius Iulius Valens) | 375年-383年) |
58代 | ウァレンティニアヌス2世,Gratian |
Γρατιανός, (Flavius Gratianus)|383年-392年|
ウァレンティニアヌス朝の血統断絶
59代 | エウゲニウス,Φλάβιος Ευγένιος(392年-394年) |
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テオドシウス朝(東ローマ朝) 395 - 518 9代
代 | 名前 |
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60代 | テオドシウス1世(大帝) (394年-395年)(最期のローマニア統一元首) |
61代 | アルカディウス (395年 - 408年) |
62代 | テオドシウス2世 (408年 - 450年) |
63代 | マルキアヌス (450年 - 457年) |
64代 | レオ1世 (457年 - 474年) |
65代 | レオ2世 (474年) |
65・67代 | ゼノン (474年 - 475年) |
66代 | バシリスクス (475年 - 476年) (対立皇帝) |
65・67代 | ゼノン (476年 - 491年) (復位) |
68代 | アナスタシウス1世 (491年 - 518年) |
ユスティニアヌス朝 Δυναστεία του Ιουστινιανού Justinian Dynasty 518 - 610 5代
69代 | ユスティヌス1世 (518年 - 527年) |
70代 | ユスティニアヌス1世(大帝) (527年 - 565年) |
71代 | ユスティヌス2世 (565年 - 578年) |
72代 | ティベリウス2世 (578年 - 582年) |
73代 | マウリキウス (582年 - 602年) |
75代 | フォカス (602年 - 610年) |
ヘラクレイオス朝 Δυναστεία του Ηρακλείου 610 - 711 8代
76代 | ヘラクレイオス,(Ηράκλειος) (610年 - 641年) |
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77代 | コンスタンティノス3世,(Κωνσταντίνος Γ' Ηράκλειος) (641年) |
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77代 | ヘラクロナス,(Ηρακλεωνάς)(641年) |
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77・78代 | コンスタンス2世,(Κώνστας Β' Ηράκλειος) (641年 - 668年) |
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79代 | コンスタンティノス4世,(Κωνσταντίνος Δ' ο Πωγώνατος) (668年 - 685年) |
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80・83代 | ユスティニアノス2世,(Ιουστινιανός Β' ο Ρινότμητος)(685年 - 694年) |
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81代 | レオンティオス,(Λεόντιος)(695年 - 698年) |
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82代 | ティベリオス3世,(Τιβέριος Γ' ο Αψίμαρος)(698年 - 705年) |
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80・83代 | ユスティニアノス2世,(705年 - 711年) (復位) |
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ヘラクレイオス王朝の血統断絶
84代 | フィリピコス・バルダネス,(Φιλιππικός Βαρδάνης)(711年 - 713年) |
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85代 | アナスタシオス2世,(Αναστάσιος Β') (713年 - 715年) |
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86代 | テオドシオス3世,(Θεοδόσιος Γ' ο Αδραμμυττηνός)(715年 - 717年) |
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(シリアの)イサウリア朝 Δυναστεία Ισαύρων Isaurian dynasty 717 - 802 5代
87代 | レオーン3世,(Λέων Γ' ο Ίσαυρος)(717年 - 741年) |
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88代 | コンスタンティノス5世コプロニュモス,(Κωνσταντίνος Ε' ο Κοπρώνυμος ή Καβαλίνος)(741年 - 775年) |
89代 | レオーン4世ハザロス,(Λέων Δ' Χάζαρος)(775年 - 780年) |
90代 | コンスタンティノス6世,(Κωνσταντίνος ΣΤ')(780年 - 797年) |
91代 | エイレーネー,(Ειρήνη η Αθηναία)(797年 - 802年) (女帝) |
イサウリア朝の血統断絶
92代 | ニケフォロス1世,(Νικηφόρος Α')(802年 - 811年) |
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93代 | スタウラキオス,(Σταυράκιος)(811年) |
94代 | ミカエル1世ランガベー,(Μιχαήλ Α' ο Ραγκαβέ)(811年 - 813年) |
95代 | レオーン5世,(Λέων Ε' ο Αρμένιος)(813年 - 820年) |
(アモリアのΑμόριο)フギリア朝Δυναστεία Φρυγική 820 - 867 3代
96代 | ミカエル2世 “トラブロス”(Μιχαήλ Β' ο Τραυλός η Ψηλλος)(820年 - 829年) |
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97代 | テオフィロス(Θεόφιλος)(829年 - 842年) |
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99代 | ミカエル3世 “メスィソス”(酩酊帝)(Μιχαήλ Γ' ο Μέθυσος)(842年 - 867年) |
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マケドニア朝 Μακεδονία 867 - 1059 16代
100代 | バシレイオス1世,(Βασίλειος Α')(867年 - 886年) |
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キエフ大公国(正式名ルーシ)建国 882年頃 - 1240年
101代 | レオーン6世フィロソフォス〝(賢帝)”,(Λέων ΣΤ' ο Σοφός)(886年 - 912年) |
102代 | アレクサンドロス,(Αλέξανδρος Γ' του Βυζαντίου)(912年 - 913年) |
103代 | コンスタンティノス7世ポルフュロゲネトス,(Κωνσταντίνος Ζ' ο Πορφυρογέννητος)(913年 - 959年) (920年 - 944年は共同皇帝) |
104代 | ロマノス1世レカペノス,(Ρωμανός Α' ο Λεκαπηνός)(920年 - 944年) |
105代 | ロマノス2世,(Ρωμανός Β' ο Πορφυρογέννητος)(959年 - 963年) |
106代 | ニケフォロス2世フォカス,(Νικηφόρος Β' Φωκάς) (963年 - 969年) |
107代 | ヨハネス1世ツィミスケス,(Ιωάννης Α' Κουρκούας ο Τσιμισκής)(969年 - 976年) |
108代 | バシレイオス2世ブルガロクトノス(ブルガリア人殺し),(Βασίλειος Β' ο Βουλγαροκτόνος)(976年 - 1025年) |
フランス王国 建国 987年 - 1791年
109代 | コンスタンティノス8世,(Κωνσταντίνος Η')(1025年 - 1028年) |
110代 | ゾエ,(Ζωή)(1028年 - 1050年) (女帝・共同統治者) |
111代 | ロマノス3世アルギュロス (Ρωμανός Γ' ο Αργυρός) (1028年 - 1034年) |
112代 | ミカエル4世パフラゴニオス,(Μιχαήλ Δ' ο Παφλαγών)(1034年 - 1041年) |
115代 | ミカエル5世カラファテス,(Μιχαήλ Ε' ο Καλαφάτης)(1041年 - 1042年) |
116代 | コンスタンティノス9世モノマコス,(Κωνσταντίνος Θ' ο Μονομάχος)(1042年 - 1055年) |
117代 | テオドラ,(Θεοδώρα)(1042年、1055年 - 1056年) (女帝) |
マケドニア王朝の血統断絶
118代 | ミカエル6世ストラティオティコス,(Μιχαήλ ΣΤ' ο Στρατιωτικός)(1056年 - 1057年) |
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ドゥーカス朝 Η δυναστεία των Δουκών (1057-1081) 6代
119代 | イサキオス1世コムネノス,(Ισαάκιος Α' Κομνηνός)(1057年 - 1059年) |
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120代 | コンスタンティノス10世ドゥーカス,(Κωνσταντίνος Ι' Δούκας)(1059年 - 1067年) |
121代 | エウドキア・マクレンボリティサ(エイレーネ) (1067年 - 1068年) (女帝) |
122代 | ロマノス4世ディオゲネス,(Ρωμανός Δ' Διογένης)(1068年 - 1071年) |
123代 | ミカエル7世ドゥーカス,パラピノ,(Μιχαήλ Ζ' Δούκας ο Παραπινάκης)(1071年 - 1078年 |
124代 | ニケフォロス3世ボタネイアテス(Νικηφόρος Γ' Βοτανειάτης)(1078年 - 1081年) |
コムネノス朝 Η δυναστεία των Κομνηνών (1081-1185)
124代 | アレクシオス1世コムネノス,(Αλέξιος Α' Κομνηνός)(1081年 - 1118年) (イサキオス1世の甥) |
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第1回十字軍 1096年 - 1099年
125代 | ヨハネス2世コムネノスカロ・ヨハネス,(Ιωάννης Β' Κομνηνός o Καλος)(1118年 - 1143年) |
ノヴゴロド公国 建国 1136年 - 1478年
第2回十字軍 1147年 - 1148年
126代 | マヌエル1世コムネノス“大帝”,(Μανουήλ Α' Κομνηνός ο Μέγας)(1143年 - 1180年) |
127代 | アレクシオス2世コムネノス,(Αλέξιος B' Κομνηνός)(1180年 - 1183年) |
128代 | アンドロニコス1世コムネノス(Ανδρόνικος Α' Κομνηνός)(1183年 - 1185年) |
アンゲロス朝 Η δυναστεία των Αγγέλων (1185-1204)
第3回十字軍 1189年 - 1192年
130代 | アレクシオス3世アンゲロス,(Αλέξιος Γ' Άγγελος)(1195年 - 1203年) |
第4回十字軍 1202年 - 1204年
131代 | イサキオス2世アンゲロス,(1203年) (復位) |
132代 | アレクシオス4世アンゲロス,(Αλέξιος Δ' Άγγελος)(1203年 - 1204年) |
133代 | アレクシオス5世ドゥーカス“ムルズフロス”,(Αλέξιος Ε' Δούκας ο Μούρτζουφλος)(1204年) |
134代 | コンスタンティノス・ラスカリス,(Κωνσταντίνος Λάσκαρης)(1204年) |
補足 | 1204年のコンスタンティノス・ラスカリスは第4回十字軍によるコンスタンティノポリス攻撃の最中に皇帝に選出されたもののコンスタンティノポリスが陥落してしまったために在位たった一晩で逃亡した。 このためコンスタンティノス・ラスカリスを皇帝として扱わない場合もある。コンスタンティノス・ラスカリスを「コンスタンティノス11世」とし帝国最後の皇帝を「コンスタンティノス12世」とする場合もある。 |
ニカイア帝国・ラテン帝国(ラスカリス朝・東ローマの亡命政権)
135代 | テオドロス1世ラスカリス,(Θεόδωρος Α' Λάσκαρης)(1205年 - 1222年) (コンスタンティノス・ラスカリスの弟) |
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第5回十字軍 1218年 - 1221年
136代 | ヨハネス3世ドゥーカス・ヴァタツェス,(Ιωάννης Γ' Δούκας Βατάτζης)(1222年 - 1254年) |
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第6回十字軍 1228年 - 1229年
第7回十字軍 1248年 - 1249年
138代 | テオドロス2世ラスカリス,(Θεόδωρος Β' Λάσκαρης)(1254年 - 1258年) |
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139代 | ヨハネス4世ラスカリス(Ιωάννης Δ' Λάσκαρης)(1258年 - 1261年) |
140代 | ミカエル8世パレオロゴス,(Μιχαήλ Η' Παλαιολόγος)(1261年 - 1282年) (1258年からニカイア帝国の共同皇帝) |
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パレオロゴス朝
140代 | ミカエル8世パレオロゴス,(Μιχαήλ Η' Παλαιολόγος)(1261年 - 1282年) (1258年からニカイア帝国の共同皇帝) |
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モスクワ大公国 建国 1263年 - 1547年
第9回十字軍 1271年 - 1272年
141代・147代 | アンドロニコス2世パレオロゴス,(Ανδρόνικος Β' Παλαιολόγος ο Γέρος)(1282年 - 1328年) |
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142代 | ミカエル9世パレオロゴス,(Μιχαήλ Θ' Παλαιολόγος)(1294年 - 1320年) (共同皇帝) |
143代 | アンドロニコス3世パレオロゴス,(Ανδρόνικος Γ' Παλαιολόγος ο Νέος)(1328年 - 1341年) |
百年戦争 1337年11月1日 - 1453年10月19日
144代・148代 | ヨハネス5世パレオロゴス,(Ιωάννης Ε' Παλαιολόγος)(1341年 - 1376年) |
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145代 | ヨハネス6世カンタクゼノス,(Ιωάννης Στ' Καντακουζηνός)(1347年 - 1354年) |
146代 | マタイオス・カンタクゼノス,(Ματθαίος Ασάνης Καντακουζηνός)(1353年 - 1357年) (共同皇帝) |
147代 | アンドロニコス4世パレオロゴス,(Ανδρόνικος Δ' Παλαιολόγος) (1376年 - 1379年) |
148代 | ヨハネス5世パレオロゴス,(1379年 - 1391年) (復位) |
149代 | ヨハネス7世パレオロゴス,(Ιωάννης Ζ' Παλαιολόγος)(1390年) |
150代 | マヌエル2世パレオロゴス,(Μανουήλ Β' Παλαιολόγος)(1391年 - 1425年) |
151代 | ヨハネス8世パレオロゴス,(Ιωάννης Η' Παλαιολόγος)(1425年 - 1448年) |
152代 | コンスタンディノス11世ドラガシス・パレオロゴス,(Κωνσταντίνος ΙΑ' Παλαιολόγος Δραγάτσης)(1448年 - 1453年最後のローマ皇帝) |
関連
ローマ帝国 ローマ皇帝 ビザンツ帝国