概要
レオニート・イリイーチ・ブレージネフ(ロシア語:Леони́д Ильи́ч Бре́жнев、ウクライーナ語:Леонід Ілліч Брежнєв、ラテン文字表記の例:Leonid Il'ich Brezhnev、1906年12月19日 - 1982年11月10日)は、ソヴェトの政治家。ソヴェト同盟をソヴェト同盟共産党総書記(1964~1982)として、およびソヴェト同盟最高ソヴェト幹部会議長(1960~1964、1977~1982)として率い、1964年10月から1982年11月まで同国の第4代最高指導者であった。党書記長(当初は第一書記)、最高ソヴェト幹部会議長を兼任した。
1964年10月にニキータ・フルシチョーフが失脚した後に党第一書記と最高指導者になり、1982年11月に死去するまでその地位にあった。アレクセイ・コスイギン閣僚会議議長(首相)、ニコライ・ポドゴルヌイ最高会議幹部会議長(国家元首)とのトロイカ体制を敷き、1977年6月からは最高会議幹部会議長も兼任した。なお最高指導者の地位にあった期間(十八年間)は、イオーシフ・スターリンに次いで長い。
ブレージネフの総書記としての在職期間は、歴史家たちの議論の的となっている。ブレージネフの統治は、政治的な安定性と外交上の成功という性格を持つ一方、また一方では腐敗、非効率、経済停滞、急速に開いた西側との技術的な格差によって特徴づけられる。
ブレージネフは、ロシア帝国イェカチェリノスラーフ県カーメンスコエ(カーミヤンシケ、現ウクライーナ)の労働者階級の家庭に生まれた。ソヴェト同盟の建国によって落着した十月革命の結果、ブレージネフは、1929年に正式な党員となるに先立ち、1923年、共産党青年団へと参加した。1941年六月のナチス・ドイツによるソヴェト同盟侵略に際して、ブレージネフはコミッサールとして赤軍へと加わり、第二次世界大戦中には少将の地位を得るまでに、急速に昇進した。終戦後、ブレージネフは1952年には党中央委員会へと上がり詰め、1957年までに、政治局の正規の一員となった。1964年、ブレージネフは、この国における最大の地位である、ソヴェト同盟共産党筆頭書記よりニキータ・フルシチョーフを追い落とすに足る権力を集めていた。
彼の任期中、ブレージネフの保守的でプラグマティックな統治の手法は、はっきりとソヴェト同盟の国際的な地位を改善し、またその政権与党の本国における地位を安定させた。フルシチョーフがしばしば政策を政治局のほかのメンバーと相談することなく成立させていた一方、ブレージネフはコンセンサスを通じた政策決定により、党の上層部における異論を最小にするよう注意を払った。付け加えて、冷戦における二つの超大国間のデタントを推し進めると同時に、ブレージネフは合衆国との核戦力のパリティを達成し、ソヴェト同盟の中央および東ヨーロッパにおける優位を強化した。さらに、巨大な軍拡と、ブレージネフ下における広範な軍事的干渉政策は、それらの努力が非常に大きな対価を支払うもので、ソヴェトの経済をのちの数年間にわたって鈍化させることになったとはいえ、ソヴェト同盟の影響力を(特に中東およびアフリカにおいて)拡大した。
同国の諜報機関であるKGBを強化してスターリン時代の抑圧的政策へ回帰し、ソ連の文化・技術・経済を停滞させた一方で、アメリカのニクソン大統領との交渉によってソ連の勢力圏に干渉しないことを承認させ、国威を発揚した。冷戦時代にアメリカと対抗する為、重厚長大産業に莫大な国費が投じられる一方で国民の生活水準は向上せず、特権階級が「非公式経済」を享受する為の汚職が蔓延り、ブレジネフとその親族も私腹を肥やし続けた。ちなみにロシアが経済的に破綻した現在では、ブレジネフ時代を懐かしむ国民も多い。
逆に言えば、ブレージネフの政治的改革への無関心が、ブレージネフの停滞として知られる社会的な衰退の時代へと導いたともいえる。蔓延した腐敗と経済成長の失敗に加えて、この時期は、ますます開くソヴェト同盟と合衆国との間の技術的な格差によって特徴づけられる。1985年の権力掌握ののち、ミハイール・ゴルバチョーフは、ソヴェト同盟の自由化政策を実地するに先立ち、ブレージネフ政権をその無能、硬直性において批判した。
1975年以降、ブレージネフの健康は急速に悪化し、権力を保持する一方、国際的な問題からは身を引くようになっていった。1982年十一月十日、彼は死に、総書記の地位はユーリイ・アンドローポフによって引き継がれた。
経歴
1906年12月19日にロシア帝国のウクライナのカメンスコエに誕生した。1923年に共産党青年組織のコムソモールに加入した。1931年10月に共産党に入党し、その後ドニエプロジェルジンスク冶金大学で冶金学を学び、1935年5月に卒業して製鉄所技師になった。1939年5月にドニエプロペトロフスク州党委員会書記となり、防衛産業を組織した。
1941年6月に独ソ戦が始まり、軍の政治委員として活動した。1943年4月に第18軍の政治部長になり、1946年4月に少将の階級で赤軍を去ってドニエプロペトロフスク州共産党委員会に復帰し、第一書記となる。ブレジネフはドニエプロペトロフスク州での人脈を権力強化に利用し、彼らはドニエプロペトロフスク・マフィアと呼ばれた。1952年10月に党中央委員会及び最高会議幹部会のメンバーとなった。
1953年3月にスターリンが死去し、フルシチョフの後援によって軍政治総局長第1代理に任命された。1954年2月にカザフスタン共産党中央委員会第二書記となり、1955年8月に同党中央委員会第一書記としてカザフスタンの開拓事業を指導した。
1956年2月にモスクワへ戻ってフルシチョフの側近となり、1957年6月にスターリン派との権力闘争でフルシチョフを支持し、政治局員となる。1960年5月に最高幹部会議議長に就任し、名目上の国家元首になった。この時西側諸国への外遊により、高級車・ブランド品への欲望が高まる。
1964年10月にフルシチョフが失脚した後に党第一書記となり、同国の第4代最高指導者となった。1965年12月にアナスタス・ミコヤンも失脚し、共産党はブレジネフ、コスイギン、ポドゴルヌイのトロイカ体制となる。コスイギンは経済改革を提唱した事で保守派の反発を招き、ブレジネフの発言権が増す。1966年4月に「党第一書記」をスターリンの肩書きであった「書記長」に戻した。
1968年1月にチェコスロバキアのアレクサンデル・ドゥプチェク共産党第一書記による改革(プラハの春)に危機感を持ち、「修正主義」と批判してワルシャワ条約機構軍を軍事介入させた。介入を正当化する論理は西側では「ブレジネフ・ドクトリン」と呼ばれたが、ソ連に対する期待が失われて国際共産主義運動は分裂した。
1976年5月に軍隊を指揮した経験も無しにソ連邦元帥となる。健康状態が悪化したブレジネフは権力に強く執着するようになって数々の勲章で自らを飾ったが、国民からの尊敬を得られなかった。1977年6月にポドゴルヌイに引退を強要し、ブレジネフが最高会議幹部会議長を兼任した。同年10月に憲法改正(ブレジネフ憲法)を実行する。
1982年11月10日に心臓発作によって75歳で死去し、赤の広場に埋葬される。
個人崇拝
ロシアの歴史家ロイ・メドヴェーヂェフは、ブレージネフの官僚的な心的傾向と個性こそ、彼に権力を得させることを可能にした力であると強調する。ブレージネフは自分の友人たちに忠実で、儀礼的な権力を無益に渇望し、そして党内における腐敗を抑制することを拒絶した。特に外交政策で、ブレージネフは政治局の同僚たちに何も告げることなく、ますます自分自身で決定を下すようになっていた(※1)。ブレージネフは意図的に、様々な人々に対し様々なペルソナを示すようになり、それは体系的な彼自身のキャリアの美化へと帰結していった(※2)。ブレージネフ時代の最晩年は、増大する個人崇拝によって特徴づけられる。ブレージネフのメダルへの愛好(彼は百個以上のメダルを受け取っていた)はよく知られており、1966年十二月、彼の六十歳の誕生日に、ブレージネフはソヴェト同盟英雄の称号を受け取っている。ブレージネフはその称号とともにレーニン勲章と金星記章を受け取っており、さらに三度、彼の誕生日の祝典にて授与されている(※3)。彼の七十歳の誕生日には、ブレージネフはソヴェト同盟元帥の位に叙されており、これはソヴェト同盟の最高位の軍事的な栄典である。この階級に叙されたのち、ブレージネフは陸軍の退役軍人たちの第十八回大会へと出席し、長いコートで着飾り、「気を付け! 元帥がやって来るぞ」と言っていた。1978年、ブレージネフはまた稀少な勝利勲章を自身に授与し、これは1989年、表彰の基準を満たしていないとして、死後に剥奪されている(※4)。
ブレージネフの分不相応な栄誉への渇望は、彼の貧弱な回顧録の中によっても示されている。回顧録は、ブレージネフの第二次世界大戦中の軍務について回想し、あまり重要ではないノヴォロシースク周辺での戦闘を、決定的な戦域として扱っている(※5)。彼の本の明白な薄弱さにもかかわらず、この本はレーニン文学賞を受賞し、ソヴェトの報道によって歓迎された(※4)。この本のあと、さらに二つの別の本が続き、その一つは処女地キャンペーンに関するものである(※6)。ブレージネフの虚栄心は、彼を多くの政治的なジョークの対象とした(※4)。ニコラーイ・ポドゴールヌイがこれについて警告すると、ブレージネフは「もし彼らが私をからかっているのなら、つまり彼らは私を好きだということだ」と答えた(※7)。
伝統的な社会主義的挨拶を保ち、ブレージネフは彼の経歴の中で、多くの政治家の唇に接吻していた。そのうちのひとつはエーリヒ・ホーネッカーとのもので、その開放・解体後にベルリンの壁に描かれた壁画〈神よ、この死に至る愛の中で我を生き延びさせ給え〉の主題となっている(※8、※9)。
※1 Roy Medvedev, "Brezhnev-A Bureaucrats Profile." Dissent (Spring 1983): 224–233.
※2 John Dornberg, Brezhnev: The Masks of Power (1974).
※3 Bacon, Edwin; Sandle, Mark, eds. (2002). Brezhnev Reconsidered, p. 8. Palgrave Macmillan. ISBN 978-0333794630.
※4 Bacon & Sandle 2002, p. 9.
※5 Service, Robert (2009). History of Modern Russia: From Tsarism to the Twenty-first Century (3 ed.), p. 403. Penguin Books Ltd. ISBN 978-0674034938.
※6 Abdullaev, Nabi (19 December 2006). "Brezhnev Remembered Fondly 100 Years Since Birth". The St. Petersburg Times. Archived from the original on 21 January 2012. Retrieved 11 April 2010.
※7 Bacon & Sandle 2002, p. 29.
※8 "Kiss of Soviet Leader Brezhnev and East German President Honecker". Corbis. ソヴェトの指導者レオニート・ブレージネフと東ドイツの大統領エーリヒ・ホーネッカーが、ドイツ社会民主共和国三十周年の式典でキスを交わしている。
※9 "Brezhnev Hugs Poland's Ruler". The Deseret News. Associatged Press. 1 March 1982. p. 1 – via Google News.
レオニート・ブレージネフが受章した賞と勲章
ソヴェト同盟の褒章
ソヴェト同盟英雄 | 1966年12月18日、1976年12月18日、1978年12月18日、1981年12月18日 | 「ソヴェト国家及び社会への奉仕における英雄的な功績のため」。メダルも誕生日に授与された。 |
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社会主義労働英雄 | 国家の経済と文化における卓越した功績のため | |
レーニン勲章 | 1947年12月2日、1956年12月18日、1961年6月17日、1966年12月18日、1971年10月2日、1976年12月18日、1978年12月19日、1981年12月18日 | 国家への優れた奉仕のゆえ |
十月革命勲章 | 1979年3月14日、1980年12月18日 | 共産主義もしくは国家の促進、またソヴェト同盟の国防の強化ゆえに |
赤旗勲章 | 1942年3月12日、1944年5月29日 | 戦闘中の英雄主義、または戦闘作戦中の卓越した軍事的な功労 |
第二級ボグダン・フメリニツキー勲章 | ||
第一級祖国戦争勲章 | ||
赤星勲章 | ||
「ヴラヂーミル・イリイーチ・レーニン生誕百周年祝賀」記章 | ||
「オデッサ防衛」記章 | ||
「カフカース防衛」記章 | ||
「1941-1945年大祖国戦争対独戦勝」記章 | ||
「1941-1945年大祖国戦争戦勝二十周年」記章 | ||
「1941-1945年大祖国戦争戦勝三十周年」記章 | ||
「ワルシャワ解放」記章 | ||
「ウィーン占領」記章 | ||
「1941-1945年の大祖国戦争における功績」記章 | ||
「軍の絆の強化」記章 | ||
「南部冶金産業の復興」記章 | ||
「処女地開拓」記章 | ||
「ソヴェト同盟軍四十周年」記章 | ||
「ソヴェト同盟軍五十周年」記章 | ||
「ソヴェト同盟軍六十周年」記章 | ||
「レニングラード250周年記念」記章 | ||
「キーエフ1500周年記念」記章 | ||
レーニン文学賞 | ||
レーニン平和賞 | ||
勝利勲章 |
外国の褒章
五月勲章 | アルゼンチン | 1974年 | |
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自由の太陽勲章 | アフガニスタン民主共和国 | 1981年 | カーブル |
ブルガリア人民共和国英雄 | ブルガリア人民共和国 | 1973年、1976年、1981年 | ソフィア |
ゲオルギ・ディミトロフ勲章 | ブルガリア人民共和国 | 1973年、1976年、1981年 | ソフィア |
「オスマン奴隷制からの解放百周年」記章 | ブルガリア人民共和国 | 1978年 | |
「ブルガリア社会主義革命三十周年」記章 | ブルガリア人民共和国 | 1974年 | |
「Г・ディミトロフ生誕九十周年」記章 | ブルガリア人民共和国 | 1972年 | |
「Г・ディミトロフ生誕百周年」記章 | ブルガリア人民共和国 | 1982年 | |
キューバ共和国英雄 | キューバ | 1981年 | ハバナ |
ホセ・マルティ勲章 | キューバ | ||
カルロス・マヌエル・デ・セスペデス勲章 | キューバ | ||
プラヤ・ヒロン勲章 | キューバ | ||
「モンカダ兵営襲撃二十周年」記章 | キューバ | ||
「革命軍二十周年記念」記章 | キューバ | ||
チェコスロヴァキア社会主義共和国英雄 | チェコスロヴァキア社会主義共和国 | ||
クレメント・ゴットヴァルト勲章 | チェコスロヴァキア社会主義共和国 | ||
白獅子勲章 | チェコスロヴァキア社会主義共和国 | ||
「ドゥクラ峠の戦い」記章 | チェコスロヴァキア社会主義共和国 | ||
軍記念記章 | チェコスロヴァキア社会主義共和国 | ||
チェコスロヴァキア従軍十字章 | チェコスロヴァキア社会主義共和国 | ||
敵前勇敢記章 | チェコスロヴァキア社会主義共和国 | ||
社会主義エチオピアの名誉の星勲章 | デルグ | ||
フィンランド白薔薇勲章 | フィンランド共和国 | ||
ドイツ民主共和国英雄 | ドイツ民主共和国 | ||
カール・マルクス勲章 | ドイツ民主共和国 | ||
諸国民友好勲章 | ドイツ民主共和国 | ||
ハンガリー人民共和国旗勲章 | ハンガリー人民共和国 | ||
第一級共和国星章 | インドネシア | ||
国民黄金記章 | ラオス人民民主共和国 | ||
モンゴル人民共和国英雄 | モンゴル人民共和国 | ||
モンゴル人民共和国労働英雄 | モンゴル人民共和国 | ||
スフバートル勲章 | モンゴル人民共和国 | ||
「対日戦勝三十周年」記章 | モンゴル人民共和国 | ||
「ハルヒン・ゴル戦勝三十周年」記章 | モンゴル人民共和国 | ||
「モンゴル人民革命五十周年」記章 | モンゴル人民共和国 | ||
第一級国旗勲章 | 朝鮮民主主義人民共和国 | ||
ペルー太陽勲章 | ペルー共和国 | ||
ウィルトゥリ・ミリタリ大十字勲章 | ポーランド人民共和国 | ||
ポーランド復興大十字勲章 | ポーランド人民共和国 | ||
第二級グルンヴァルト十字章 | ポーランド人民共和国 | ||
オドラ、ニサ、バルト海記章 | ポーランド人民共和国 | ||
勝利と自由記章 | ポーランド人民共和国 | ||
ルーマニアの星勲章 | ルーマニア社会主義共和国 | ||
社会主義の勝利勲章 | ルーマニア社会主義共和国 | ||
十月十四日革命記章 | イエメン人民民主共和国 | ||
金星勲章 | ヴェトナム社会主義共和国 | ||
労働英雄 | ヴェトナム社会主義共和国 | ||
ホー・チ・ミン勲章 | ヴェトナム社会主義共和国 | 1982年 | ハノイ |
第一級ユーゴスラヴィア星勲章 | ユーゴスラヴィア社会主義共和国 | 1962年 | ベオグラード |
自由勲章 | ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国 | 1976年 | ベオグラード |
外交
アメリカ合衆国
1972年5月にアメリカのリチャード・ニクソン大統領との首脳会談で戦略兵器制限条約を締結し、ブレジネフはアメリカとの緊張緩和(デタント)を推進した。その一方で1971年12月の第3次印パ戦争、1973年10月の第4次中東戦争、1975年3月のアンゴラ内戦、1977年7月のオガデン戦争など米ソの代理戦争が行われた。
アフガニスタン
1979年12月にアフガニスタンへの軍事侵攻を実行し、アメリカとの緊張緩和は終焉した。これが原因で1980年7月に共産圏で初の開催となったモスクワオリンピックは、同国への軍事侵攻を非難する諸国からボイコットされ、再度開始した軍拡でソ連経済は悪化した。
中華人民共和国
1969年3月にウスリー川のダマンスキー島(珍宝島)で武力衝突が発生し、ブレジネフの治世では中国との関係は悪化し続けた。
日本
1973年10月に田中角栄首相と会談し、共同声明を発表した。同声明では「第二次大戦の時からの未解決の諸問題を解決して平和条約を締結する事が、両国間の真の善隣友好関係の確立に寄与することを認識し、平和条約の内容に関する諸問題について交渉した。」と明記され、ブレジネフは北方4島の問題が戦後の未解決の諸問題の中に含まれる事を口頭で確認した。その他にヤクートの天然ガス・チュメニ油田・サハリン大陸棚の共同開発などの日本との経済協力を打ち出した。
アネクドート
ブレジネフ関係のアネクドートは無数にあり、以下のものなどがある。ちなみにブレジネフが党幹部となった後も、母のナタリアは年金受給者として古いアパートで暮らし続けた。
『ブレジネフが誘拐されて誘拐犯から電話があった。「100万ドル払え。さもないとブレジネフを生かして帰す」』
『モスクワオリンピックでブレジネフが演説を始めた。「O! O! O! O! O!」側近が演壇に駆け寄ってささやいた。「レオニード・イリイチ、それはオリンピックの旗です。読む必要はありません」』
『ブレジネフは母親に偉くなったところを見せようとモスクワへ呼んだ。豪華な執務室・幹部用住宅・幹部用別荘などを連れ回すにつれ、母親の顔は暗くなった。「お前が偉くなって嬉しいよ。でも、ボルシェビキの連中に殺されないかね?」』
【参考文献】
レオニード・ブレジネフ(サカルカ)
家族
1927年11月にヴィクトリア・ペトロヴナ・デニソワと結婚し、1929年4月に長女のガリーナ・1933年3月に長男のユーリが誕生した。
関連リンク
※詳しくはwikipedia「レオニード・ブレジネフ」を参照。
関連タグ
党中央委員会書記長
(前任者)ニキータ・フルシチョフ
(後任者)ユーリ・アンドロポフ