サッカーボーイ
さっかーぼーい
曖昧さ回避
サッカーボーイ(競走馬)
1987年から1988年にかけて現役生活を送った。
強烈な末脚を武器にマイル路線で活躍し、主な勝ち鞍は阪神3歳ステークス(1987年)、マイルチャンピオンシップ(1988年)など。
内国産種牡馬を排除していた社台グループが考えを変えるきっかけとなり、社台スタリオンステーションで種牡馬となった。
やや小柄だがプロポーションの美しい尾花栗毛の馬で「貴公子テンポイントの再来」などと言われた。
しかし、ディクタスの子孫に見られる「ディクタスアイ」と呼ばれる三白眼の持ち主。
気性が非常に激しかった。
甥にあたるステイゴールドが社台スタリオンステーションを訪れた際には激しく威嚇したというエピソードが残っている。
プロフィール
馬主は社台レースホース。栗東小野幸治厩舎。
THE WINNER
走ることに、安心なんて求めるな。
危険と呼ぶか。冒険と呼ぶか。
見る者すべての心を搔き乱す、その末脚を人は愛した。
その馬の名は、「サッカーボーイ」。
無難を笑え。マイルチャンピオンシップ
2012年JRA「THE WINNER」CMより
来歴
※馬齢は数え表記
1987年8月9日、函館競馬場芝1200m新馬戦でデビュー。圧倒的な1番人気に応え、、9馬身ぶっちぎりで1着。
暮れの阪神3歳ステークスではパドックで大暴れしたものの、いざ本番のレースでは8馬身差の圧勝で、1.34.5のレースレコードで、来年のクラシックの期待と、かつて同レースを優勝した名馬テンポイントに通じるところから、「テンポイントの再来」と称されるほどだった。同日行われた朝日杯3歳ステークスを勝ったサクラチヨノオーを抑え、同年のJRA賞最優秀3歳牡馬受賞。
1988年、4歳クラシックは弥生賞から始動、サクラチヨノオーとの初対決となり1番人気に推されるも、そのチヨノオーに及ばず3着。皐月賞の優先出走権こそ得られたが、レース本番前になり蹄が悪化したため皐月賞を回避せざるを得ず、体勢を立て直してNHK杯(GⅡ、芝2000m)に出走してこちらも1番人気に推されたが、4着に敗れる。
そして迎えた日本ダービーでは1番人気に推されるが、大外枠22番、さらに折り合いを欠くなどしてサクラチヨノオーの15着と大敗。主戦の河内洋も敗因は気性面から2400mは持たないと振り返っている。
その後、中日スポーツ賞4歳ステークス(当時芝1800m)に出走、ここでは皐月賞馬ヤエノムテキに次ぐ2番人気となるが、レースではヤエノムテキに1/2馬身差をつけて1着。実況した杉本清も「サッカーボーイよみがえりました!」と述べるほどだった。
夏のローカルでも出走し、同年の函館記念(GⅢ、芝2000m)では56kgのハンデでシリウスシンボリ、メリーナイス、マックスビューティら並みいるGⅠ馬を抑えて1番人気に推され、レースでは2着メリーナイスに5馬身差で圧勝。この時の走破タイム1.57.8は当時の芝2000m日本レコードタイムで、初の2000mを1分57秒台での走破だった。30年以上経った現在も函館競馬場のコースレコードとして残っている。
秋シーズンは管理する小野幸治調教師は菊花賞を推し、馬主側である社台レースホースの吉田勝己らは天皇賞(秋)を目標に推したが、その緒戦となるであろう京都新聞杯(当時芝2200m)出走を前に捻挫を起こして出走を回避、菊花賞・天皇賞(秋)ともに断念することになってしまった。
そして陣営が選んだのはマイルチャンピオンシップ。ここでは1番人気に推され、中段待機でレースを始め、最後の直線で前述にもある怒涛の末脚を繰り出して2着ホクトヘリオスに4馬身差で圧勝、史上初の3歳馬による制覇達成。
有馬記念はタマモクロス、オグリキャップに次ぐ3番人気となるが、ゲートの中で暴れ、スタートも出遅れて最後方からのレースとなり、4位入線だったがスーパークリークが失格となり繰り上がって3着。
同年のJRA賞最優秀スプリンターを受賞。
古馬になった1989年はマイラーズカップを初戦として選ぶが、骨折、そして秋シーズンまで脚部不安がつきまとったこと、さらに父ディクタスが1989年9月に死亡したことを受け、陣営は協議の結果サッカーボーイの引退を決定。1990年シーズンから種牡馬となった。
この時、馬主の社台ホースレースの代表であった吉田善哉と次男・吉田勝己との間でサッカーボーイの繋養先について衝突があった。父・善哉は「輸入種牡馬と国産馬の間にはまだレベル差がある」と言って、サッカーボーイを社台ファームで繋養するのを拒んだが、次男・勝己はサッカーボーイの種牡馬としての成功に確信があり「大手であるうちが内国産種牡馬を育てられないとは情けない」と父に反論した逸話があり、この一言でサッカーボーイが社台ファームに繋養されることになった。
種牡馬入りしてからはナリタトップロードやヒシミラクルといったGⅠ馬を多く輩出、同期のオグリキャップやスーパークリークと比べても圧倒的な種牡馬成績を残している。
2011年、蹄葉炎の悪化などにより26歳で没した。