ROMANA S・P・Q・R 西洋史史上最大の国家
注意 ローマ人自体はこの国家の事を帝国だとは思っていないが、
後代の西洋観念では 帝国=ローマということになる。
- 正式に近い呼び方はローマニア。
- 羅: Imperium Romanum Romenear
SPQR(S・P・Q・R)=「元老院とローマの市民」
演説などの冒頭の挨拶にも使われた標語、言葉、 例『元老院とローマの市民の諸君・・
現在の使用例
- ラテン語:Senatus Populusque Romanus
- 現在もローマ市役所の広報に使用されており、「SPQR『ゴミはクズカゴヘ』」といった風に使用されるほかマンホールの蓋やタクシーのドアにも描かれている。
- 「Sono Porci Questi Romani(このローマ市民どもは豚である)」と皮肉げに解されることもある。
紹介
元老院を諮問機関として『元首』が直接国家統治(簡潔に言うと完全独裁)したローマ共和国
- 古代ローマがイタリア半島に誕生した都市国家から、地中海にまたがる領域国家へと発展した段階以降を表す言葉である。
- 従って、「ローマ帝国」の歴史には、古代ローマが帝政に移行する以前の共和制時代を含んでいる(ローマ帝国最盛期の領土の多くは共和制時代に得たもの)。
- 最盛期には地中海沿岸全域に加え、ブリタンニア、ダキア、メソポタミアなど広大な領域を版図とした。
- シルクロードの西の起点であり、古代中国の文献では大秦の名で登場する。
- 帝国という訳語があてられている事から、狭義にはオクタウィアヌスがアウグストゥスの尊称を与えられた紀元前27年からの古代ローマを指す場合もあるが、この場合は厳密には帝政ローマ、またはローマ帝政期とした方が正確である。
- 狭義では紀元前27年にオクタヴィアヌスが元老院よりアウグストゥスの尊称を得て実質的な帝政を開始したときより395年に最終的な東西分裂が確定するまでか、476年に西ローマ帝国が滅亡するまでを指す。
- 広義においては共和政ローマが地中海広域において覇権を握った時期(紀元前2世紀頃以降)から東西分裂後の東部領域を継承した東ローマ帝国(ビザンティン帝国、ビザンツ帝国)が1453年にオスマン帝国に首都コンスタンティノポリス(イスタンブール)を落とされ滅亡するまで。
名称
- 「ローマ帝国」はラテン語の “Imperium Romanum” の訳語である。imperium は元々ローマの「支配権(統治権)」という意味であり、転じてその支配権の及ぶ範囲のことをも指す。
- imperiumインぺリウム には「多民族・多人種・多宗教を内包しつつも大きな領域を統治する国家」という意味もあり、その意味において共和政時代から古代ローマを指す名称である。
誤解
英語のEmpire や、その訳語である日本語の「帝国」は、「皇帝の支配する国」という印象が強いためにしばしば帝政以降のみを示す言葉として用いられているが本来は必ずしも皇帝の存在を前提とした言葉ではない。
帝政と言われても名目上『ローマ共和国』
- ちなみにローマが帝政に移行した後も、元首政(プリンキパトゥス)期においては名目上は共和政であった。(オクタビヤヌスは戦乱の終結の後「共和国」の復活を宣言している)
- 中世における「ローマ帝国」である東ローマ帝国や、ドイツの「神聖ローマ帝国」と区別するために、西ローマ帝国滅亡までを古代ローマ帝国と呼ぶことも多い。
興亡 紀元前753 - 1453
- 古代ローマがいわゆるローマ帝国となったのはイタリア半島を支配する都市国家連合から「多民族・人種・宗教を内包しつつも大きな領域を統治する国家」へと成長を遂げたからであり帝政開始をもってローマ帝国となった訳ではない。
- 紀元前27年よりローマ帝国は共和政から元首政(帝政)へと移行する。
- ただし初代(元首)皇帝アウグストゥスは共和政の守護者として振る舞った。
- 44代皇帝ディオクレティアヌス帝が即位した285年以降は専制君主制(ドミナートゥス)へと変貌した。
- 313年に46・50代皇帝コンスタンティヌス1世(聖帝)が、首都をローマからコンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)へ遷した。
- 58・60代皇帝テオドシウス1世(大皇帝)は、古くからの神々を廃し、392年にキリスト教を国教とした。395年、東ローマ(ビザンツ帝国)と西ローマに分裂。その後ローマが統合されることは無かった。
- 西ローマ帝国は経済的、軍事的基盤が弱く、76代ロムルス・アウグストォスル帝を最後にゲルマン人の侵入に抗せず476年に滅亡。以後オドケアル率いるゴート族がゴート王国を立てる。
- 6世紀に東ローマ帝国による西方再征服も行われたが、7世紀以降は領土を大きく減らし国家体制の変化が進行した。
- 8世紀にローマ市を失った後も長く存続したが1453年に首都コンスタンティノポリスが陥落しローマ帝国とローマ文明は完全に滅亡した。
(元首)統治政治(帝政)システムの確立
都市国家古代ローマ王国時代~神話の時代
- ローマ帝国の起源は、紀元前8世紀中ごろにイタリア半島を南下したラテン人の一派がティベリス川(現:ティベレ川)のほとりに形成した都市国家ローマである(王政ローマ)。
『ローマ王』の追放
- 当初はエトルリア人などの王を擁いていたローマは、7代目の王を追放して、貴族による共和政を布いた。
これ以後ローマ(人)は『王』という『観念』を本能的に嫌う性質を持つようになる。
都市国家古代ローマ共和国時代
- 共和政下では2名のコンスルを国家の指導者としながらも、クァエストル(財務官)など公職経験者から成る元老院が圧倒的な権威を有しており、国家運営に大きな影響を与えた(共和政ローマ)。
- 都市国家ローマは次第に力をつけ、中小独立自営農民を基盤とする重装歩兵部隊を中核とした市民軍でイタリア半島の諸都市国家を統一、さらに地中海に覇権を伸ばして広大な領域を支配するようになった。
- 紀元前1世紀にはローマ市民権を求めるイタリア半島内の諸同盟市による反乱(同盟市戦争)を経て、イタリア半島内の諸都市の市民に市民権を付与し、狭い都市国家の枠を越えた帝国へと発展していった。
ポエニ戦争
- 前3世紀から2世紀、3度にわたるポエニ戦争の前後から、イタリア半島では兵役や戦禍により農村が荒廃し、反面貴族や騎士階級ら富裕層の収入は増大、貧富の格差は拡大し、それと並行して元老院や民会では汚職や暴力が横行、やがて「内乱の一世紀」と呼ばれた時代になるとマリウスなど一部の者は、武力を用いて政争の解決を図るようになる。
ローマから独裁者が出始める スッラ~
アクティイムの開戦 天下の分け目
- 紀元前44年にカエサルが暗殺された後、共和主義者の打倒で協力したオクタウィアヌスとマルクス・アントニウスが覇権を争い、これに勝利を収めたオクタウィアヌスが紀元前27年に共和制の復活を声明し、元老院に権限の返還を申し出た。
- これに対して元老院はプリンケプス(元首)としてのオクタウィアヌスに多くの要職と、「アウグストゥス(尊厳なる者)」の称号を与えた。一般的にこのときから帝政が開始したとされている。
- 以降、帝政初期のユリウス・クラウディウス朝の世襲皇帝たちは実質的には君主であったにもかかわらず、表面的には共和制を尊重してプリンケプス(元首)としてふるまった。これをプリンキパトゥス(元首政)と呼ぶ。
- 彼らが即位する際には、まず軍隊が忠誠を宣言した後、元老院が形式的に元首に指名した。
- 元首(皇帝)は代々次のような称号と権力を有した。
ローマ元首の称号
ローマ元首・皇帝の決まり
「アウグストゥス」と「カエサル」の称号。
最高司令官(インペラートル)
- 「インペラトル」(凱旋将軍、軍最高司令官)の称号とそれに伴う全軍の最高指揮権(「エンペラー」の語源)。
称号『第一人者』
- 「プリンケプス」(市民の中の第一人者)の称号。
第一人者の権限
- 元老院において『一番最初』に発言する権利をもつ、かつては元老院の有力者がもっていた。
1(本来の)執政官権限・2.執政官を任命する権限・3.執政官に命令する権限
- ※ローマ執政官=定員二人、任期一年交代、 首相と軍司令官を兼ねているような職、ローマ帝国の首相相当
- 「執政官命令権」を持っており最高政務官である執政官職に就かずして、首都ローマとイタリアに対して政治的・軍事的権限を行使した。
なので、元首政以降は執政官+『元首』の3人体制になった。『3』は重要な数字になった。
地方行政命令権
- 「プロコンスル命令権」により皇帝属州の総督任命権と元老院属州の総督に対する上級命令権を有していた。また、エジプトは皇帝の直轄地として位置づけられた。
護民官職権=元老院決議への拒否権、
『聖人』として扱われ『守衛』に守られる権利を保有.
- 「護民官職権」を持っており、実際に護民官には就任していないにもかかわらず権限を行使した。
- これには身体の不可侵権(『聖人』として扱われ『守衛』に守られる)権利に加え、元老院への議案提出権やその決議に対する拒否権などが含まれており、歴代皇帝はこの権限を利用して国政を自由に支配した。
「最高神祇官」の職。
- 多神教が基本のローマ社会において、その祭事を主催する。
官僚監督権限
- これらに加え、皇帝たちは必要な場合年次職の執政官やケンソル(監察官)などの共和政上の公職に就任することもあった。
ちなみに
- なお最高神祇官は現在もローマ教皇が継続している。教皇に当たる役職の正式が最高神祇官
称号:国父
- 皇帝たちには「国家の父(国父)」(ラテン語:パテル・パトリアエ・pater patriae)などの尊称がよく送られた。また皇帝は死後、次の皇帝の請願を受けた元老院の承認によって、神格化されることも少なくなかった。
- 例えばアウグストゥスはガリア属州に祭壇が設けられ、2世紀末まで公的に神として祀られ続けた。
罵倒されるローマ元首
- 一方、独裁的権限を所持していたにもかかわらずローマ皇帝はあくまでも「元老院、ローマ市民の代表者」という立場であった
- なのでローマ市民という有力者の支持を失うと元老院に「国家の敵」とみなされる。
- その結果、自殺に追い込まれたりコロッセウムなどで姿をみせると容赦ないブーイングを浴びるなど官僚制と多数の文武官による専制体制が確立したオリエント・アジアなどの皇帝(漢字の皇帝などを参照)や君主とは違った存在であった。
- 上記の通り、ローマ皇帝は(特に元首政時代は)一般的な「君主」の概念とは異なるものである。
ユリウス・クラウディウス朝と内乱期
初代皇帝-アウグストゥスの元首就任とユリウス・クラウディウス家の世襲で始まったローマ帝政だが、2代皇帝ティベリウス元首の死後あたりから、政治・軍事の両面で徐々に変化が起こった。
- 軍事面では共和制末期からの自作農の没落の結果、徴兵制が破綻し代わって傭兵制が取られたがそれは領土の拡大とあいまって帝国内部に親衛隊を含む強大な常備軍の常駐を促し、それは取りも直さず即物的な力を持った潜在的な政治集団の発生に繋がった。
- やがて世襲の弊害により、3代皇帝カリグラや5代皇帝ネロなど無軌道な皇帝が登場すると彼らは対立候補を挙げて決起しまた複数の対立候補が互いに軍を率いて争う内乱も発生。
- 結果ユリウス・クラウディウス朝からフラウィウス朝の僅か100年の間に、3名の皇帝が軍隊によって殺害され、2名が自殺に追い込まれ不自然な形での皇帝の交代が頻発するようになる。
ローマの絶対的優位
- この時期にもローマは周辺勢力に比して格段に高い軍事力を保持し続けており、こうした政治や軍事の緩慢な変化は帝国の運命に即大きな影響をもたらすことはなかった。
- 時代が進むにつれて、はじめは俸給や市民権の獲得を目的に、後期にはイタリア人の惰弱化により、兵士に占めるゲルマン人など周辺蛮族の割合は増加した。それらは徐々に軍隊の劣化や反乱の頻発を促進した。
- 時系列的には、皇帝となったユリウス・クラウディウス家の子弟はある者は善政を行い(アウグストゥス・クラウディウスの時代にもヌミディアより西に位置するアフリカでは強圧的な支配と土地の召し上げ・収奪に対する抵抗と反乱が絶えないなど、周辺属州民にとっても善政だったかについては疑問がある)
- ある者は暴政を行いその多くが暗殺や反乱によって非業の死を遂げた。
ユリウス・クラウディウス朝の終焉
- ネロの死を以って、皇位継承戦争が発生、一時帝国は複数の属州軍閥に分割され、これにガリアなどローマ化の進んでいた属州やユダヤ人など東方の反乱も同期した。
9代皇帝ウェスパヤヌス
- やがてウェスパシアヌスが勝利すると自身がローマ元首となり、ローマは小康状態を取り戻した。
五賢帝の時代
- こうした曲折を経つつも、紀元1世紀の末から2世紀にかけて即位した5人の皇帝の時代にローマ帝国は最盛期を迎えた。この5人の皇帝を五賢帝という。
- のちに若干の理想化も含めた歴史の叙述によれば、彼らは生存中に逸材を探して養子として帝位を継がせ、安定した帝位の継承を実現した。
- ユリウス・クラウディウス朝時代には建前であった元首政が、この時期には実質的に元首政として機能していたとも言える。
- この時代には、法律(ローマ法)、交通路、度量衡、幣制などの整備・統一が行われ、領内には軍事的安定状態が保たれていたと思われるが、地中海の海上流通は減退が見られ軍隊の移動も専ら陸路をとるようになる時期だった。また軍隊と繋がる大土地所有者が力を持ち、自由農民がローマ伝統の重税を避けて逃げ込むケースが増え、自給自足的な共同体が増加した時期でもある。
96年 - 98年 12代皇帝ネルウァ
- 後継者にトラヤヌスを指名した。
98年 - 117年 13代皇帝トラヤヌス
「至高の皇帝」。最大領土を現出。東はメソポタミア、西はイベリア半島、南はエジプト、北はブリテン島にまでおよんだ。
ネルヴァ・トラヤヌス朝
117年 - 138年 14代皇帝ハドリアヌス
- 全属州を視察。内政の整備と、ブリタンニアのハドリアヌスの長城に代表される防衛体制の確立に努めた。「慈悲深い皇帝」
アントニウス朝
138年 - 161年 15代皇帝アントニヌス・ピウス
- 財政の健全化に努めた。
161年 - 180年 16代皇帝マルクス・アウレリウス・アントニウス
- 「哲人皇帝」。ストア哲学を熱心に学んだ。晩年は各地の反乱や災害やゲルマン人ら異民族の侵入に悩まされ、各地を転戦、陣中で没した。
五賢帝時代の終焉と堕落
- 五賢帝時代の末期頃に天然痘の流行により人口が減少し、その後各地で反乱が頻発するようになり、また軍団兵・補助兵ともなり手不足から編成に支障をきたした。
- マルクス・アウレリウス・アントニヌスの息子の117代皇帝コンモドォスは父とは思えぬほど無能で、虐政を敷いた。
アントニヌス勅令
- 212年、セウェルス家出身の21代皇帝カラカラ帝の「アントニヌス勅令」によって、ローマの支配下にあるすべての地域に、同等の市民権が与えられた。
- これによって厳しい階級社会だったローマ社会における、非ローマ市民の著しい不平等(裁判権の不在、収穫量の1/3に上乗せされる1/10の属州税など)は多少なりとも緩和された。
内乱・分裂
軍団長元首
いわゆる「元首政」の欠点は元首を選出するための明確な基準が存在しない事である。
- そのため、地方の有力者の不服従が目立つようになり行政が弛緩し始めると相対的に軍隊が強権を持ったため、反乱が増加し皇帝の進退をも左右した。
- 約50年間に26人が皇帝位に就いた、この時代は軍人皇帝時代と称される。
パクス・ロマーナ(ローマの平和)により、戦争奴隷の供給が減少して労働力が不足し始め、代わりにコロヌス(土地の移動の自由のない農民。家族を持つことができる。貢納義務を負う)が急激に増加した。
- この労働力を使った小作制のコロナートゥスが発展し始めると、人々の移動が減り、商業が衰退し、地方の離心が促進された。
ディオクレアヌス『皇帝』
- 284年に最後の軍人皇帝となった44代皇帝ディオクレティアヌス(在位:284年-305年)は混乱を収拾すべく、帝権を強化した。
- 元首、つまり終身大統領のような存在である皇帝を据えたキメの粗い緩やかな支配から、オリエントのような官僚制を主とする緻密な統治を行い専制君主を据える体制にしたのである。
皇帝政ローマニア
- これ以降の帝政を、それまでのプリンキパトゥス(元首政)に対して「ドミナートゥス(専制君主制)」と呼ぶ。
ローマニア分割統治
テトラルキア(四分割統治)を導入した。四分割統治は、二人の皇帝(アウグストゥス)と元首(カエサル)によって行われ、ディオクレティアヌス自身は東の皇帝に就いた。
- 強大な複数の外敵に面した結果、皇帝以外の将軍の指揮する大きな軍団が必要とされたが軍団はしばしば中央政府に反乱を起こした。テトラルキアは皇帝の数を増やすことでこの問題を解決し、帝国は一時安定を取り戻した。
中世の世界観が決まり始める。
- ディオクレティアヌスは税収の安定と離農や逃亡を阻止すべく、大幅に法を改訂、市民の身分を固定し職業選択の自由は廃止され彼の下でローマは古代から中世に向けて外面でも内面でも大きな変化を開始する。
コンスタンティヌス大帝
ローマニア帝都遷都
- 50代皇帝コンスタンティヌス1世大帝は専制君主制の確立につとめる一方、東のサーサーン朝ペルシアの攻撃に備えるため330年に交易ルートの要衝ビュザンティオン(ビザンティウム。現在のトルコ領イスタンブル)に遷都しコンスタンティノポリスと改称して国の立て直しを図った。
- コンスタンティヌスの死後、北方のゲルマン人の侵入は激化、特に375年以降のゲルマン民族の大移動が帝国を揺さ振ることとなった
ミラノ勅令=ローマニア国教キリスト教
- ディオクレティアヌス退位後に起こった内戦を収拾して再び単独の皇帝となったコンスタンティヌス1世(大帝。在位:副帝306年-、正帝324年-337年)は、313年にミラノ勅令を公布してキリスト教を公認した。後のテオドシウス1世(在位:379年-395年)のときには国教に定められた(392年)。
- 394年にウェスタの聖なる炎も消された、この火はローマ神話では神聖なものだった。
ローマニアの『東西別国家化』
当初はあくまでもディオクレティアヌス時代の四分割統治以来、何人もの皇帝がそうしたのと同様に1つの帝国を分割統治するというつもりであったのだが、これ以後帝国の東西領域は再統一されることはなかった。
- 3世紀後半以降、東西が統一されていた期間は僅かに20年を数えるのみであり。
- 経済的な流通も2世紀前半以降はオリーブなどのかつての特産品が各地で自給され始めるにつれ乏しくなり自由農民が温存された。
- 東方に対して西方ではコロナートゥスが増大するなど、東西の分裂は早い段階から進行していた。
- 今日では以降のローマ帝国をそれぞれ西ローマ帝国、東ローマ帝国と呼ぶ。史料などからは当時の意識としては別の国家となったわけではなくあくまでもひとつのローマ帝国だった事が窺える。
西ローマ帝国文明
最期の皇帝
- 476年ゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって76代皇帝ロムルス・アウグストゥルス(在位:476年)が廃位され滅亡した。
『中世』の始まり
- その後もガリア地方北部にシアグリウス管区がローマ領として存続したがクロヴィス1世による新興のフランク王国領に編入され消滅した。
- 旧西ローマ帝国の版図であった領域に成立したゲルマン系諸王国の多くは、消滅した西の皇帝に替わって東の皇帝の宗主権を仰ぎ、東の皇帝に任命された地方長官の資格で統治を行った。
東ローマ帝国文明
東ローマ帝国(395年-1453年)は、首都をコンスタンティノポリスとし、15世紀まで続いた。
- 中世の東ローマ帝国は、後世ビザンツ帝国あるいはビザンティン帝国と呼ばれるが、正式な国号は「ローマ帝国」のままであった。
- この国は古代末期のローマ帝国の体制を受け継いでいたが完全なキリスト教国でありまた徐々にギリシア的性格を強めていった。
- 東ローマ帝国は、軍事力と経済力を高めてゲルマン人の侵入を最小限に食い止め、またいくつかの部族に対して西へ行くよう計らった。
- 西ローマの消滅後は唯一のローマ帝国として、名目上では全ローマ帝国の統治権を持った。
アフリカ侵略の失敗
東ローマによる帝国の再建は何度か試みられた。5世紀に東ローマ主導でアフリカのヴァンダル族を攻撃したが壊滅。
地中海が再び『ローマ帝国』に
6世紀の70代皇帝ユスティニアヌス1世(大帝)によるものは一定の成果を収め、地中海の広範な地帯が再びローマ帝国領となった。ユスティニアヌスは、ローマ法の集大成であるローマ法大全の編纂でも知られている。
つかの間の栄光
70代ユスティニアヌス大帝没後は混乱と縮小の時代に入り、7~8世紀にかけイスラム帝国やスラヴ人などの侵入により領土が大幅に縮小した。統治体制は再編を余儀なくされテマと呼ばれる軍閥制が敷かれた。
ラテン語からギリシア語へ
ラテン語が使用されていた帝国西方の喪失は公用語のギリシャ語化(7世紀)を促し、8世紀にはローマやラヴェンナを含む北イタリア管区を失い、また、西欧に対する影響力も低下した。
『ローマ帝国』から『ビザンツ帝国』へ
- 一連の出来事は帝国の性格を変化させ、ヘレニズムとローマ法、正教会を基盤とした新たな「ビザンツ文明」とも呼べる段階に移行した。
『ビザンツ帝国』の復活そして滅亡・・・
- 9~10世紀頃には安定期に入り、再び積極的な対外行動をとる。
- 帝国の領土は再び拡大し、11世紀初頭にはバルカン半島とアナトリア半島の全域、南イタリア、シリア北部等を領有した。
- その後はイスラムや西欧に対して劣勢になり、13世紀に十字軍により首都を占領され、1453年にオスマン帝国に滅ぼされた。
ローマ帝国・ローマ文明の滅亡
- ローマ帝国という名称を名乗る国家としては、神聖ローマ帝国が1806年の帝国解散の詔勅による滅亡まで存続しているが、既にこの当時はドイツ民族による大小の国家連合体となって長い時間が経過しており、帝国解散の詔勅自体が「ドイツ帝国」の名で出されている上、旧東西ローマ帝国の滅亡時に正統な後継国家として認証されている訳ではない、自称ローマといえる。
- また東ローマ帝国はギリシア系住民が多い地域を支配していたために、古代ローマ時代に比べてギリシア文化の影響力が強くなり、古代以来の統治機構がイスラムの侵攻などによって崩壊したことなどから、ヘレニズムとローマ法、正教会を基盤とした新たな「ビザンツ文明」とも呼べる段階に移行した。
- そのため同時代の西欧からも「ギリシア人の帝国」と見なされ、後世からも「ビザンツ帝国」「ビザンティン帝国」等と呼ばれる場合が多い。
- そのため単に「ローマ帝国の滅亡」と言ったときには、476年の西ローマ帝国の滅亡を指すのが一般的である。また、制度上の最後の西ローマ皇帝ユリウス・ネポスが殺害された480年と考えることもできる。
- 東ローマ帝国は分裂以前のローマ帝国から断絶なく連続している政体であり、帝国政府や住民も、あくまで自らをローマ帝国と自認していた
- 西ローマ帝国の滅亡後もカール大帝の戴冠までは西欧からもローマ帝国とみなされていたし、イスラム帝国や東ローマを最終的に滅ぼしたオスマン帝国もこの国を「ローマ帝国」(ルーム)と認識していた。
いつの時点をもってビザンティン帝国へと変質したのか明白に定義づけができないためエドワード・ギボンが『ローマ帝国衰亡史』で示したように、1453年5月29日の東ローマ帝国の滅亡をもってローマ帝国の滅亡と考える者も多い。井上浩一も「ローマ帝国はいつ滅びたのかという問いに、法理論的に答えるならば、一四五三年五月二九日ということになるのである。」としている
ローマ帝国の継承国家
- 西ローマ帝国滅亡後のゲルマン系諸王国の多くは、消滅した西の皇帝に替わって東の皇帝の宗主権を仰ぎ、東の皇帝に任命された官僚の資格で統治を行った。
- フランク王国がカロリング朝の時代を迎え、カールが教皇レオ3世より戴冠され帝位に就いたことで、ローマ総大司教管轄下のキリスト教会ともども、東の皇帝の宗主権下から名実とも離脱した。
- ここに後世神聖ローマ帝国と呼ばれる政体に結実するローマ皇帝と帝権が誕生し、1806年まで継続した。
- 東ローマ帝国を征服し、滅ぼしたオスマン帝国の君主(スルターン)であるメフメト2世およびスレイマン1世は、自らを東ローマ皇帝の継承者として振る舞い、「ルーム・カエサリ」(トルコ語でローマ皇帝)と名乗った。
- ただしバヤズィト2世のように異教徒の文化をオスマン帝国へ導入することを嫌悪する皇帝もおり、オスマン皇帝がローマ皇帝の継承者を自称するのは、一時の事に終わった。
- その他に(ロシア皇帝国)はローマ帝国の後継者を称し、君主はロシア皇帝を自称するも当初は国内向けの称号に留まり、対外的には単なる「モスクワ国の大公」として扱われている。
- 国際的に皇帝として認められるようになるが、ローマ帝国の継承者としての皇帝という意味合いは忘れ去られていた。
現代?
- 現在では公式にローマ帝国の継承国家であることを主張する国家は存在しないが
ルーマニアの国名は「ローマ人の国」という意味である。
そのルーマニア国歌「目覚めよ、ルーマニア人!」とイタリア国歌「マメーリの賛歌」の歌詞には、自国民とローマ帝国との連続性を主張する部分がある他、それぞれトラヤヌスとスキピオの名(正確には、スキピオは家名)が歌詞に入っている。
関連タグ
国家・地名など
ローマ/古代ローマ/ゲルマン/カルタゴ 古代ギリシア/ギリシア エジプト