「薩摩ん兵子で血迷うておらんもんは一人もおらん」(ドリフターズより)
概要
薩摩・大隅を領した島津家に仕える武士に対して使われていた美称であり、現在も鹿児島県本土(奄美群島は含まない)の男性に対して使われる。語源は古代日本において、薩摩・大隅に住みついて朝廷に従わなかった人々を「はいと」と言った事を語源とする。同時代の熊襲(くまそ)と呼ばれた人々との異同には諸説ある。
異常なまでの戦闘能力の高さで知られている。関ヶ原の戦いにて島津軍が徳川家康の大軍を正面突破した島津の退き口が成功したのは彼らの戦闘力の高さと主君への忠誠心の高さが非常に大きな要因と言われている。
示現流や薬丸自顕流、タイ捨流など攻めに重点を置いた剣術を使う者が多く、身体能力も相まって動乱期には対立派を震え上がらせた。
江戸時代にはすでに勇猛な人種という評判が全国に知れ渡っており
- 捨てがまり、釣り野伏など戦の勝利するためならどんな損害も厭わない戦術
- 日本本土で食肉文化が一般的でなかった当時から豚肉を常食していた
- 豚は「歩く野菜」と薩摩では呼ばれていたそうな
- それどころか犬も食べていた
- 日本全国でも生類憐みの令が発布されるまでは赤犬が食べられていたのだが。
- 何かあるとすぐ切腹
- お家騒動で切腹
- 河川工事の失敗の責任を取って切腹
- 写真に映ると魂が抜けると信じられていた時代、新しい物好きの君主に一緒に写真を撮ることを誘われ、迷信と主君からの命令の板挟みに悩んで切腹
- 「ひえもんとり」という死体の内臓を取り合う習慣があった。
- 薩摩だけに限った話ではないが、幕末期までは食人の風習があったようで、薩摩出身の日露戦争の英雄、野津道貫などが証言を残している。
- 「肝練り」という火縄銃と酒を使ったロシアンルーレットがあった。
- 一撃必殺に重きを置いた攻撃的剣術
- ↑の剣術をさらに発展させ、防御力を捨てて一撃必殺に全てを置いた超攻撃的剣術
- 地方伝統のとにかく実戦で使えるものを詰め込んだ結果、総合格闘技みたいになった剣術
- 方言の訛が強すぎて理解不能
- 動画資料
- 方言に残る「知恵を捨てて無心で相手の懐に飛び込め」という掛け声
などとエピソードが多すぎる。
ちなみに世界最強と謳われ、当時の最新兵器を備えた世界一の大帝国の海軍を旧式の大砲で撃退したり、260年続いた政権を亡ぼし、数百年続いた武士による政治に終止符を打ったり、日本最後の内戦を長期化させて国家財政を破綻させかけたのもだいたい全部こいつらのせい。
なお、今でもこの気質は色濃く残っているようで、「泣こかい跳ぼかい、泣こよかひっ跳べ(泣く間があったらまず動いてみろ)」という教育方針は未だ基本としてあり、学校の運動会の際にも「正々堂々勝つためならば手段を選ぶな」という気風がまかり通っており、手の内がバレて負けるようなヘマをした者はしこたま怒られたという。
強さの秘訣
この強さの秘訣は桜島の火山灰により安定した食料の供給ができなかったために他国との戦争が相次いだ薩摩という地の特徴、余りにも過激な郷中教育の影響が強いと言われている。
『人国記』にみる気質
武田信玄も愛読していたという、日本各地の人となりを記した『人国記』にも上記の気質を裏付けするような内容が書かれている。
それによると、薩摩人と大隅人の気質は違わないとした上で、
『皆が死を以って表とし、男子は死ぬことを道とすると覚えて、仏法などは死後のものであって生死を知るべき為ならば用いるに足らないと考え(中略)、武士が戦場に於いて死ぬのも、忠義に因って死ぬことを善だとは考えず、ただ武士は戦場に於いて死ぬものであると考えて論じることもない。泰平の時、主君は安座して礼節を正しくする一方で、家臣は足を伸ばしたり、或いは立ちながら主君と問答する類いも多い。末代までもこの気質である』
と記されている。
有名な薩摩隼人
創作
※は実在の人物でもあるが、史実よりも薩摩隼人ぶりが強調されているキャラである
実在
- 島津家のみなさま
- 西郷隆盛、海江田信義、桐野利秋など幕末の薩摩藩のみなさま
- 山中貞則
- 歌人としての雅号が「隼人」で、政界における薩摩隼人の代表格として半ば伝説化されている。
- 哀川翔
- 沢村一樹
- 山田孝之
- 長渕剛
- 大迫勇也
- サンシャイン池崎
薩摩隼人と誤解される人物
徳田虎雄...奄美群島に属する徳之島の出である(鹿児島県本土とのゆかりは薄い)が、その性格から薩摩隼人の代表と思われたりする。
関連タグ
鎌倉武士...薩摩隼人と呼ばれた武士たちはこの末裔である。
薩摩ホグワーツ···魔法界における薩摩隼人の集まり…という概念。
大奥(よしながふみ)···薩摩出身者を一般的な「薩摩隼人」「ぼっけもん」のイメージとは逆に描いているが……?