曖昧さ回避
- アメリカのアイドル・グループ「The Monkees」。
- イングランドのロック・バンド「アークティック・モンキーズ」。
- 台湾プロ野球リーグ(CPBL)所属の球団「楽天モンキーズ」。2019年までは「Lamigoモンキーズ」だった。
- 360°モンキーズ。2018年解散のお笑いコンビ、ツッコミのサブロクそうすけは細かすぎて伝わらないモノマネ選手権のマイク・イースラーオチでお馴染み。
ザ・モンキーズ
ザ・ビートルズの大人気を受け、アメリカ合衆国にも同じようなグループを作ろうとオーディションでメンバーを選び、ロサンゼルスで結成されたアイドル・グループ。
ビートルズ主演映画『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!』をヒントにしたテレビ番組『ザ・モンキーズ・ショー』に毎週出演して人気グループとなったが、メンバーがアーティストとしての自我に目覚めて制作者サイドと決裂し、人気は下火となっていった。
1980年代に『ザ・モンキーズ・ショー』がMTVで再放送されてリバイバル・ブームが起きた。
メンバー
本名:デヴィッド・トーマス・ジョーンズ(1945年12月30日~2012年2月29日)
体が小さく騎手を目指したが、ケガで身体が不自由になった父親を養うために諦め、俳優養成所でアルバイトをしていた所、俳優として抜擢されテレビ番組などに出演。ミュージカル・タレントとしても活動する。
ビートルズが『エド・サリヴァン・ショー』に出演した回にも出演していた。
本名:ジョージ・マイケル・ドレンツJr.(1945年3月8日~)
両親は俳優。自身もミッキー・ブラドックの芸名で子役として活躍した。
メンバー唯一の存命者。
本名:ロバート・マイケル・ネスミス(1942年12月30日~2021年12月10日)
母親は修正液「リキッドペーパー」の発明者で実業家のベティ・ネスミス・グラハム。
マイケル・ブレッシングの芸名でカントリー歌手をしていた。
新興宗教「クリスチャン・サイエンス」の信者。
本名:ピーター・ホルステン・トルケルソン(1942年2月13日~2019年2月21日)
フォーク歌手を目指していた頃、グリニッジ・ヴィレッジでスティーヴン・スティルスと知り合い、ロサンゼルス移住後に彼の薦めでモンキーズのオーディションに参加した。
親しみやすいキャラクターで、『ザ・モンキーズ・ショー』ではボケ役を担当。
来歴
1964年
ビートルズの成功を目にしたスクリーン・ジェムス・コロンビア(コロンビア映画のテレビ部門)のバート・シュナイダーとボブ・ラフェルソンはアメリカでも同様の人気グループを作ろうとオーディションを行い、1966年1月に最終合格者が決まった。
1966年
8月、『恋の終列車』がリリースされ、9月よりバラエティー『ザ・モンキーズ・ショー』(NBC系)の放映が開始。
10月に発売されたデビュー・アルバム『恋の終列車』は500万枚を売上げる大ヒットとなり、モンキーズはアイドル・グループとして成功を収めた。
1967年
1月、アルバム『アイム・ア・ビリーバー』をリリースし、再び500万枚を売上げる大ヒットとなる。しかし、これはプロデューサーのドン・カーシュナーがスタジオミュージシャンのバッキングトラックにファースト・アルバムで未使用だったボーカルの音源を乗せて制作し、メンバーの知らないうちに発売されたもので、2作目以降はメンバーもアルバム制作に関われるという約束は反故にされた。
さらにはシングル「恋はちょっぴり」B面のネスミス作詞・作曲の「どこかで知った娘」を勝手に「シー・ハングズ・アウト」(ジェフ・バリー提供曲)に差し替えるなどしたため、メンバーが予定通りのシングル盤を独自制作し、記者会見を開くというクーデターを起こした。
カーシュナーが更迭され、タートルズのチップ・ダグラスを共同プロデューサーに迎えてアルバム『灰色の影』が制作され、5月にリリースされた。演奏はメンバーが行ったが下手で、ガレージ・パンク的な雰囲気のアルバムとなった。3枚連続のビルボード1位となったが、売り上げは200万枚とやや落ちた。
当時、「モンキーズはビートルズのパチモン」と音楽関係者から冷ややかに見られていたが、同年のイギリス・ツアー時にビートルズはモンキーズを招いてパーティーを開き、ジョージ・ハリスンは彼らのセルフ・プロデュースへの挑戦を賞賛した。
11月、アルバム『スターコレクター』がリリースされ、4枚連続のビルボード1位、300万枚の売り上げを記録。
1968年
3月、メンバーがマンネリ化にうんざりしていた事もあり、『ザ・モンキーズ・ショー』の放映が終了。
4月にアルバム『小鳥と蜂とモンキーズ』がリリースされたが、初めてチャート1位を逃した。
10月に来日し、日本武道館(東京都)、京都会館(京都市)、大阪フェスティバルホール(大阪市)で公演を行った。
11月に主演映画『ザ・モンキーズ 恋の合言葉HEAD!』(監督:ボブ・ラフェルソン 脚本:ジャック・ニコルソン)が公開されたが、難解な内容だったため興行的には大失敗に終わった。ピーター・トークがグループを脱退。
1969年
2月、未発表曲を集めたアルバム『インスタント・リプレイ』をリリース。ビルボードでは最高32位。
10月、マイク・ネスミスが中心となってカントリー色の強いアルバム『プレゼント』をリリースするが、ビルボードでは最高100位。ネスミスはグループを脱退した。
1970年
6月、レコード会社との契約を履行するためアルバム『チェンジズ』をリリースするがビルボードでは最高152位で、話題にすらならなかった。アルバム発表後にモンキーズは解散した。
1980年
コダックのテレビCMで『デイドリーム・ビリーヴァー』が使用された事から日本でモンキーズのリバイバル・ブームが起き、テレビ東京で『ザ・モンキーズ・ショー』が再放送され、マイク・ネスミスを除くメンバーが来日した。
1986年
MTVで『ザ・モンキーズ・ショー』が再放送された事からアメリカでモンキーズのリバイバル・ブームが起き、ベストアルバム『ゼン・アンド・ナウ…ザ・ベスト・オブ・ザモンキーズ』が発売された。
2012年
2月29日、デイビー・ジョーンズが心臓発作により死去。
2016年
結成50周年記念アルバム『グッド・タイムズ!』が制作された。
2019年
2月21日、ピーター・トークが死去。
2021年
12月10日、マイク・ネスミスが心不全により死去。
余談
デヴィッド・ボウイは「デイビー・ジョーンズ」名義でデビューしたが、モンキーズのデイビー・ジョーンズと名前が被ったので、芸名をデヴィッド・ボウイとした。
関連タグ
アークティック・モンキーズ
2002年、アレックス・ターナー、ジェイミー・クック、マット・ヘルダース、アンディ・ニコルソンにより結成された。
2005年、インターネットに公開されたデモ音源が話題となり、バンドはインディーズのドミノ・レコードと契約した。
デビュー・シングル「I Bet You Look Good on the Dancefloor」は初登場で全英1位を獲得。「オアシス以来の衝撃」と報じられた。
2006年、1stアルバム「Whatever People Say I Am, That's What I'm Not」をリリース。200万枚近くのセールスを記録。アンディ・ニコルソンが脱退し、ニック・オマリーが加入。
2007年、グラストンベリー・フェスティバル、サマーソニック07にヘッドライナーとして出演。
2012年、ロンドンオリンピックの開会式で「I Bet You Look Good on the Dancefloor」とビートルズの「Come Together」を演奏。