概要
主な勝ち鞍は1976年皐月賞、1976年有馬記念、1977年宝塚記念。
1984年に顕彰馬に選出された。
同世代のテンポイント、グリーングラスと共に三強を形成し「TTG」と呼ばれた。
父テスコボーイはイギリス生まれの種牡馬で、1967年に日高軽種馬農業協同組合により輸入され、安い種付け料でテスコガビー、キタノカチドキ、サクラユタカオー等を輩出し「お助けボーイ」と呼ばれた。中小の牧場からの申し込みが殺到して抽選が必要なほどの人気種牡馬であった。
母ソシアルバターフライはアメリカ生まれの繁殖牝馬で、1966年の藤正牧場開場時に購入される。以後、同牧場にてトウショウピット、ソシアルトウショウ、トウショウイレブン等の活躍馬を出産し、牧場の基礎牝系を築いて藤正牧場躍進の原動力となった。
鹿毛の牡馬で、馬体は大柄で筋骨隆々としていたが、脚は細長く蹄も小さく足元に不安があり、重馬場を苦手とした。
稀代のスピード馬だったが、ストライドが長くフワフワとした走法にスピード感が無かったため、『空でも飛んでいるのか?』ということから「天馬」と呼ばれた。
性質は人懐こく、いたずら好きで愛嬌があった。
プロフィール
ヒーロー列伝
天馬、空をゆく。
天性のスピードと華麗を極めたフォーム。
翔ぶがごとくにゴールを駆け抜けるその姿は、
まさに"速さの象徴"だった。
ヒーロー列伝No.13
略歴
※馬齢は2000年以前の数え年表記で記載する。
1973年
1975年
筋肉の発達は十分であったが、腰の甘さからデビューは遅れ、笹針治療が行われ、12月頃から状態が改善する。
1976年
1月31日、ようやく東京競馬場で行われる新馬戦への出走登録を行った。池上昌弘騎手を鞍上に逃げ切って1着。このレースには、後にライバルとなるグリーングラス(4着)、後にトウショウボーイとの間に三冠馬ミスターシービーを成す事になるシービークイン(5着)がいたため後に「伝説の新馬戦」と呼ばれる。
3月20日、れんげ賞に出走し1着。
4月25日、クラシック一冠目の皐月賞に挑む。単勝オッズはこの後最大のライバルとなるテンポイントに次ぐ2番人気だったが、レースではテンポイントを5馬身放して1着。
5月30日、クラシック二冠目の東京優駿(日本ダービー)に出走。トウショウボーイの「馬体を併せられると弱い」という弱点をクライムカイザー鞍上の「闘将」加賀武見騎手に突かれ、2着に敗れた。
その後北海道に戻り1か月の休養に入る。
7月11日、ダートの札幌記念(現在はGⅡ)に出走するが、出遅れでグレートセイカンの2着に敗れる。連敗の責任を取らされ池上は降板となった。
10月3日、新しいパートナーに当時「天才」の名をほしいままにしていた福永洋一(福永祐一の父)を迎え、神戸新聞杯(現在はGⅡ)に出走。レコード勝ちでクライムカイザーにダービーの雪辱を果たした。
時代が違うので単純に比較はできないが、この際のレースレコードはディープインパクトが破るまで29年に渡り保持され、2000m時代の神戸新聞杯第三位に食い込んでいる。
10月24日、京都新聞杯(現在はGⅡ)に出走し、クライムカイザーを再び退け1着。
11月14日、菊花賞に出走。距離の不安が指摘されていたが1番人気に推された。新馬戦以来の対戦となったグリーングラスの3着に敗れる。2着のテンポイントにも初めて先着を許した。
12月19日、有馬記念に出走。福永洋一はエリモジョージに騎乗するため、武邦彦(武豊の父)に乗り替わった。レースでは先行抜け出しでレコード勝ち。2着にテンポイントが入り、有馬記念史上初の4歳馬による1-2フィニッシュとなった。
秋の過密なローテーションが祟り、翌年6月まで休養に入る。
1977年
1月、1976年度の年度代表馬と最優秀4歳牡馬のタイトルを獲得した。
6月5日、宝塚記念に出走。休養明けのトウショウボーイは2番人気(春の天皇賞を勝利したテンポイントが1番人気)だったが、レースでは逃げ切りで1着。
6月26日、高松宮杯(現在の高松宮記念。1995年までは2000m)に出走。62kgの斤量と不良馬場という悪条件が重なったが、逃げ切りで1着。
単勝オッズは1.0倍で元返しとなった。
10月23日、見習い騎手の黛幸弘を鞍上にオープン戦(中山競馬場芝1600m)に出走し1着。
11月2日、引退後は父と同じ日高軽種馬農業協同組合に「価格2億5000万円、(トウショウ産業への)テスコボーイの種付け株を3年分、トウショウボーイの永久種付け権を年間3株」という条件で種牡馬として購入される事が決まった。
11月27日、武邦彦騎手を鞍上に天皇賞(秋)(1983年までは3200m)に出走。天皇賞は1980年まで勝ち抜け制で、春を勝ったテンポイントは出走していなかった。レースではグリーングラスとの激しい逃げ争いの末共倒れとなり、ホクトボーイの7着に敗れた(生涯最低着順)。
競走後、有馬記念を最後に引退することが発表された。
12月18日、有馬記念に出走。すでに引退を発表しておりテンポイントとの最後の直接対決はトウショウボーイとテンポイントのマッチレースとなり、テンポイントに競り負け。なお三着はグリーングラスでこの三強が出走した際は常に上位三頭の独占であった。
1978年
1月8日、東京競馬場で引退式が行われ、池上昌弘騎手を鞍上にラストランを披露した。
1月16日、日高軽種馬農業協同組合の門別種馬場(日高町)で種牡馬入り。農協所有ということもあり種付け料は安く設定された。しかし当時は外国から輸入した種牡馬ばかりが持て囃される時代で、トウショウボーイは現役時代の人気に反してなかなか牝馬が集まらなかった。
1979年
新馬戦を一緒に走ったシービークインへ種付けを行う。本来は組合員以外の馬には種付けできない規則だったが、シービークインはなかなかの良血(父トピオは凱旋門賞馬、母メイドウは二冠馬メイズイの姪に当たる)だったため、担当者は「このチャンスを逃す手はない」と無断で種付けを行なってしまった。当然ながら後で組合にバレてしまい、担当者は大目玉を食らった。
1983年
11月13日、シービークインの産んだミスターシービーが菊花賞を制し、シンザン以来史上3頭目の三冠馬となった。トウショウボーイの種牡馬としての評価は急上昇。
産駒の勝ち上がり率は全体的に高く、その後もアラホウトク、パッシングショット、ダイイチルビー、シスタートウショウ等の活躍馬を多数輩出する。
産駒をセリ市で取引する事が義務付けられていたこともあり(期待値が高い仔馬は庭先取引がメインであり、JRAはセリ市で取引された市場取引馬の出走には賞金とは別に奨励金を出していた)、高値で取引されるトウショウボーイ産駒は中小規模の生産者にはありがたい存在で、父のテスコボーイ同様「お助けボーイ」と呼ばれた。実際にトウショウボーイ産駒のおかげで破産を免れた牧場もあったという。
1984年
トウショウボーイは競走成績と種牡馬成績が評価され顕彰馬に選ばれた。
1986年
ミスターシービーも顕彰馬に選ばれ、史上初の父子顕彰馬となった。
1992年
8月5日、蹄葉炎を発症し、9月18日に安楽死の措置が執られた。
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